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第1話 波乱の同居宣言
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第1話 波乱の同居宣言
スマートフォンが震えたのは、夕方のオフィスだった。
コピー機の温かい匂いと、キーボードを叩く乾いた音が混ざる中で、画面に表示された「母」の文字を見て、拓海は少しだけ嫌な予感がした。
嫌な電話は、だいたいこの時間に来る。
「もしもし」
受話口の向こうから、すぐにすすり泣く音が聞こえた。
「拓海……」
声は弱く、震えていた。
「どうしたの、母さん」
拓海が小さく聞き返すと、母は言葉を詰まらせた。
「蓮が……もう限界なの」
静かなオフィスの空気が、急に重くなった気がした。
「このままじゃ、本当にダメになる」
母の声の奥で、テレビの音がぼんやり流れている。
実家の居間の景色が、拓海の頭の中に浮かんだ。
カーテンは昼間でも半分閉まっていて、父は無言で新聞を読んでいる。
そして廊下の突き当たりの部屋。
あのドアは、もう何年も開いていない。
「まだ部屋から出ないの?」
分かっていることを、拓海は聞いた。
「出ないのよ……」
母は泣きそうな声で言った。
「ご飯も、ドアの前に置くしかなくて……」
蓮は、二十代の終わりになっていた。
それなのに、時間だけが止まったように、部屋の中で暮らしている。
最初は「少し疲れているだけ」と言っていた。
それが、何年も続いた。
「父さんは?」
「もう……怒る元気もないみたい」
母の声は、疲れていた。
少しの沈黙。
そして、母は言った。
「ねえ、拓海」
嫌な予感が、形になった。
「お前の家で、預かってくれないか」
拓海は思わず椅子の背にもたれた。
オフィスの蛍光灯が、白く目に刺さる。
「いや、それは……」
言葉が続かない。
頭の中に浮かんだのは、妻の顔だった。
真由。
あの人が、うなずくはずがない。
「お願いよ」
母の声が震えた。
「このままじゃ、本当にダメになるの」
「でもさ……」
「少しだけでいいの」
母は畳みかける。
「環境が変われば、もしかしたら……」
拓海は目を閉じた。
断ればどうなるか、想像できる。
親戚の集まり。
「冷たい兄ね」
そんな声が聞こえる。
会社で、友人に話す時も言い訳をしなければならない。
――弟を見捨てた男。
その言葉が、胸の奥で引っかかった。
「……分かった」
気づいた時には、そう言っていた。
電話の向こうで、母が泣きながら何度も礼を言う。
拓海はスマートフォンを耳から離した。
そして、深く息を吐いた。
(とりあえず連れて帰れば、なんとかなるだろう)
そう思うことにした。
深く考えると、面倒になる。
その夜。
実家の前に車を止めると、空気は少し湿っていた。
夏の終わりの匂いがする。
玄関の灯りの下に、母が立っていた。
その後ろに、蓮がいた。
髪は伸び放題で、顔色は青白い。
肩は少し丸まっていて、視線は地面を見たままだった。
「久しぶり」
拓海が言う。
蓮は小さくうなずくだけだった。
母は拓海の腕を握った。
「ありがとう……本当に」
その手は、思ったより冷たかった。
拓海は苦笑した。
「大げさだよ」
だが、胸の奥が少しだけ重かった。
車に乗る間、蓮は一言も話さなかった。
エンジン音だけが、夜の道路に響く。
信号待ちの赤い光が、フロントガラスに滲んだ。
拓海は横目で弟を見る。
蓮は、窓の外を見ていた。
街の灯りが、瞳にぼんやり映っている。
家に着いたのは、夜九時を過ぎていた。
リビングの灯りがついている。
真由は、まだ起きている。
玄関のドアを開けると、カレーの匂いがした。
温かい、家庭の匂い。
リビングから真由の声がした。
「おかえり」
そして、足音。
廊下に出てきた真由は、蓮を見た瞬間、動きを止めた。
静かな空気。
真由の眉が、わずかに動く。
「……誰?」
低い声だった。
拓海は笑った。
「えっと」
軽く咳払いする。
「弟」
沈黙。
真由はもう一度、蓮を見た。
髪、服、靴。
そして拓海を見る。
「どういうこと?」
拓海は、できるだけ明るく言った。
「しばらくうちで面倒見ることになった」
その瞬間だった。
真由の目の温度が、すっと下がった。
冬のガラスみたいに。
「相談も無し?」
声は静かだった。
怒鳴っているわけでもない。
それなのに、胸が少し冷える。
拓海は慌てて言った。
「いや、ちょっと事情があってさ」
真由は何も言わない。
ただ、じっと見ている。
拓海は言葉を足した。
「僕が全部責任持つから!」
声を少し強くした。
大丈夫だ、と言い聞かせるように。
真由は、数秒黙っていた。
カレーの匂いが、廊下に流れてくる。
時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえた。
そして真由は言った。
「いいわ」
あまりにもあっさりしていた。
拓海は一瞬、拍子抜けした。
「本当に?」
真由はうなずいた。
「ただし」
少しだけ、口角が上がる。
笑っているようで、笑っていない。
「私は一切関与しない」
拓海は聞き返した。
「え?」
真由は指を一本立てた。
「食事は作る」
「でも運ぶのはあなた」
二本目。
「洗濯もあなた」
三本目。
「掃除も、ゴミも」
真由は最後に言った。
「全部あなた」
廊下の空気が、少し冷えた気がした。
それでも拓海は笑った。
「そんなの余裕だよ」
軽く肩をすくめる。
真由は何も言わなかった。
ただ、拓海を見ていた。
静かに。
まるで、未来を知っている人みたいに。
スマートフォンが震えたのは、夕方のオフィスだった。
コピー機の温かい匂いと、キーボードを叩く乾いた音が混ざる中で、画面に表示された「母」の文字を見て、拓海は少しだけ嫌な予感がした。
嫌な電話は、だいたいこの時間に来る。
「もしもし」
受話口の向こうから、すぐにすすり泣く音が聞こえた。
「拓海……」
声は弱く、震えていた。
「どうしたの、母さん」
拓海が小さく聞き返すと、母は言葉を詰まらせた。
「蓮が……もう限界なの」
静かなオフィスの空気が、急に重くなった気がした。
「このままじゃ、本当にダメになる」
母の声の奥で、テレビの音がぼんやり流れている。
実家の居間の景色が、拓海の頭の中に浮かんだ。
カーテンは昼間でも半分閉まっていて、父は無言で新聞を読んでいる。
そして廊下の突き当たりの部屋。
あのドアは、もう何年も開いていない。
「まだ部屋から出ないの?」
分かっていることを、拓海は聞いた。
「出ないのよ……」
母は泣きそうな声で言った。
「ご飯も、ドアの前に置くしかなくて……」
蓮は、二十代の終わりになっていた。
それなのに、時間だけが止まったように、部屋の中で暮らしている。
最初は「少し疲れているだけ」と言っていた。
それが、何年も続いた。
「父さんは?」
「もう……怒る元気もないみたい」
母の声は、疲れていた。
少しの沈黙。
そして、母は言った。
「ねえ、拓海」
嫌な予感が、形になった。
「お前の家で、預かってくれないか」
拓海は思わず椅子の背にもたれた。
オフィスの蛍光灯が、白く目に刺さる。
「いや、それは……」
言葉が続かない。
頭の中に浮かんだのは、妻の顔だった。
真由。
あの人が、うなずくはずがない。
「お願いよ」
母の声が震えた。
「このままじゃ、本当にダメになるの」
「でもさ……」
「少しだけでいいの」
母は畳みかける。
「環境が変われば、もしかしたら……」
拓海は目を閉じた。
断ればどうなるか、想像できる。
親戚の集まり。
「冷たい兄ね」
そんな声が聞こえる。
会社で、友人に話す時も言い訳をしなければならない。
――弟を見捨てた男。
その言葉が、胸の奥で引っかかった。
「……分かった」
気づいた時には、そう言っていた。
電話の向こうで、母が泣きながら何度も礼を言う。
拓海はスマートフォンを耳から離した。
そして、深く息を吐いた。
(とりあえず連れて帰れば、なんとかなるだろう)
そう思うことにした。
深く考えると、面倒になる。
その夜。
実家の前に車を止めると、空気は少し湿っていた。
夏の終わりの匂いがする。
玄関の灯りの下に、母が立っていた。
その後ろに、蓮がいた。
髪は伸び放題で、顔色は青白い。
肩は少し丸まっていて、視線は地面を見たままだった。
「久しぶり」
拓海が言う。
蓮は小さくうなずくだけだった。
母は拓海の腕を握った。
「ありがとう……本当に」
その手は、思ったより冷たかった。
拓海は苦笑した。
「大げさだよ」
だが、胸の奥が少しだけ重かった。
車に乗る間、蓮は一言も話さなかった。
エンジン音だけが、夜の道路に響く。
信号待ちの赤い光が、フロントガラスに滲んだ。
拓海は横目で弟を見る。
蓮は、窓の外を見ていた。
街の灯りが、瞳にぼんやり映っている。
家に着いたのは、夜九時を過ぎていた。
リビングの灯りがついている。
真由は、まだ起きている。
玄関のドアを開けると、カレーの匂いがした。
温かい、家庭の匂い。
リビングから真由の声がした。
「おかえり」
そして、足音。
廊下に出てきた真由は、蓮を見た瞬間、動きを止めた。
静かな空気。
真由の眉が、わずかに動く。
「……誰?」
低い声だった。
拓海は笑った。
「えっと」
軽く咳払いする。
「弟」
沈黙。
真由はもう一度、蓮を見た。
髪、服、靴。
そして拓海を見る。
「どういうこと?」
拓海は、できるだけ明るく言った。
「しばらくうちで面倒見ることになった」
その瞬間だった。
真由の目の温度が、すっと下がった。
冬のガラスみたいに。
「相談も無し?」
声は静かだった。
怒鳴っているわけでもない。
それなのに、胸が少し冷える。
拓海は慌てて言った。
「いや、ちょっと事情があってさ」
真由は何も言わない。
ただ、じっと見ている。
拓海は言葉を足した。
「僕が全部責任持つから!」
声を少し強くした。
大丈夫だ、と言い聞かせるように。
真由は、数秒黙っていた。
カレーの匂いが、廊下に流れてくる。
時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえた。
そして真由は言った。
「いいわ」
あまりにもあっさりしていた。
拓海は一瞬、拍子抜けした。
「本当に?」
真由はうなずいた。
「ただし」
少しだけ、口角が上がる。
笑っているようで、笑っていない。
「私は一切関与しない」
拓海は聞き返した。
「え?」
真由は指を一本立てた。
「食事は作る」
「でも運ぶのはあなた」
二本目。
「洗濯もあなた」
三本目。
「掃除も、ゴミも」
真由は最後に言った。
「全部あなた」
廊下の空気が、少し冷えた気がした。
それでも拓海は笑った。
「そんなの余裕だよ」
軽く肩をすくめる。
真由は何も言わなかった。
ただ、拓海を見ていた。
静かに。
まるで、未来を知っている人みたいに。
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