193 / 211
恐怖の実感
夜明け前の離邸は静寂に包まれている。だが、今夜は違う。急な伯の訪れに続き、主の不在と帰還に使用人たちが忙しなく動いている。
エコーが指示をしたのか上階の浴室には熱い湯が用意されていた。
俺は抱いていたロシェルを寝台に座らせ、泣いたせいで赤みを帯びている目の周りを撫でる。ロシェルは俺を見上げたまま動かず、されるがままだった。
「フォアマン」
「…はい」
静かに俺たちの後ろをついてきた老医師の名を呼んでもロシェルの視線は俺にあった。
「どこの毒だ?後遺症はないだろうな?ロシェルは普通に過ごせるのか?」
「後遺症はありません」
「言い切れるのか?」
「はい」
「俺の部下に毒に詳しいやつがいてな。やつさえ知らぬ毒らしいが貴様を信じていいのかわからん」
「この毒は…非常に珍しく南部のアラント領地のある山にしか咲かない花が原料となっております」
ロシェルの頬を包むと顔を預けるように傾けた。
「眠いか?」
「いいえ」
「今日は起きずに寝台で過ごす。だらだらとな」
小さく頷くロシェルは水色の瞳を閉ざした。
「ビアデットが知る毒か?」
「いいえ。知っているのは先代のアラント伯とウェイン様、そして私だけです」
「なぜだ」
「…意味のある毒ではないからです」
「なんだと?」
俺はロシェルに触れながらフォアマンに視線を移す。小さな老人はやや顔をうつむけ、立っていた。
「解毒剤はありません」
フォアマンの言葉にその隣にいたエコーが俺と同じく殺気を放った。
「フォアマン医師…なにを…あなたは解毒剤をロシェル様に」
「あの花の毒は…時間経過と共に体内に吸収され…人体の呼吸と鼓動と体温の機能低下を引き起こしますが…その作用は数時間から半日なのです」
「貴様の話が本当ならば…なるほどな…俺たちは伯に踊らされたわけだ」
ロシェルはあのままここにいても目覚めたということだ。
「まだ持っているな?」
「はい。カバンの中にあります。白い液体の」
「エコー、ダートに渡せ」
フォアマンのカバンはエコーが持っていた。 部屋には俺とロシェル、フォアマンだけになった。
「毒を試す。もし貴様の言ったことが偽りならば…わかるな?」
「試されても構いません。私は事実を申しております。ロシェル様…本当に申し訳ございません…旦那様は…旦那様は…お嬢様を想いすぎておりました」
フォアマンは深く頭を下げた。俺は視線をロシェルに戻した。水色の瞳は開かれ俺を見上げていた。
「あの毒は無害です。本当におかしな花を見つけてしまった」
「…貴様が見つけたのか?」
「はい」
「なにかに使えるかもしれん。これからダートという男が来る。その男に花の絵を書いて渡せ。花のある場所もだ」
ロシェルの頬を包んでいる手に指先が触れ、握った。
「ロシェルは安静にした方がいいのか?」
「…いつものように過ごされても問題はありません」
「そうか。ロシェル、汗臭い俺に抱かれてたんだ、お前も臭うぞ」
「本当?」
「ああ」
「ふふ」
ロシェルは幸せそうに笑い、顔をかしげ俺の手のひらに口付けた。
「フォアマン、貴様は当分騎士団の医師としてここに滞在しろ。俺は貴様も許してはいない」
この老医師は伯の状況を把握しているだろう。どれだけ重い病なのか、どれだけ生きられるのか、実は俺の勘違いで伯はガガに殴られ内臓を痛めたのか、それは後でゆっくり聞けばいい。今すぐ知っておくべきことではない。
「その間にあらゆる問いに答え、貴様が診てきたロシェルの病歴をまとめておけ」
ディオルド様が私の脇に手を入れ抱き上げた。
「消えろ、フォアマン」
そう言って浴室に向かい歩き始めた。ディオルド様の肩越しにフォアマンが見えた。
アラントにいた頃、彼の姿を見る度に嬉しい思いがした。お父様から手紙を託されたのかと。渡されない日もあって、そんな日はがっかりした。
頭を下げていたフォアマンが顔を上げ、視線が合った。
害のない毒と言われても許せることではなかった。それはディオルド様も同じだと思う。
私は慣れ親しんだフォアマンの年老いた顔から視線をそらし目蓋を閉じる。
「熱くないか?目眩は?」
「大丈夫です」
「エコー、俺の髪を洗え」
「承知しました」
ディオルド様は浴槽に頭を預け、縁に腕を添えた。
私は浴槽の端で膝を抱えるように座り、洗われていくディオルド様を見つめる。
「エコー、お前も疲れたろ?」
「…いいえ」
「お前は俺より年上だろ。ゼノは倒れているかもしれんな」
「彼は騎士です。柔ではありません」
「俺が…馬車で熟睡するなど…停まっても起きんとはな…驚いた」
「はい。ガガは泣いていました」
二人の穏やかな会話が心地よくて、途端に眠くなってきた。
「流します」
エコーが泡を流す水音も心地よくてあくびが出そうだったけれど耐える。
「ロシェル」
ぼんやりしていたときに名を呼ばれ、意識が冴える。
「はい」
「はは、眠そうだな。息苦しいわけではないな?」
「はい」
「そうか。来い」
ディオルド様に腕を掴まれ引き寄せられる。私はそのまま、たくましい胸に顔をつけるように密着した。
「忙しい一日だったな」
「はい」
「ロシェル」
「はい」
「俺はお前より二十も年が上だ」
「はい」
「お前は若く、これから子が欲しいと思うかもしれん」
真剣な声音にただ頷く。
「だが、俺は子を与えない。お前が願っても与えない」
巻き付いていた腕が離れ、肩を掴まれて体が上がる。目の前に険しい顔のディオルド様がいた。いつの間にかエコーの姿はなかった。
「女は子を欲しがる。男も愛する女に自分の子を産ませたい欲がある。俺もある。俺は何度も想像した。俺の子種でお前が孕み、膨らんでいく腹を」
見つめる臙脂の瞳になぜか下腹がうずいた。
「その欲より恐怖の方が断然上なんだ、ロシェル。伯のおかげで実感した。お前が痛い思いをするのも、命の危険があるのも俺には耐えられん」
ディオルド様の額を隠す黒い髪から雫が落ち、頬に流れ涙のように伝い、音をたてながら湯に落ちた。
「俺のせいでお前には諦めてもらうことが多い。先に謝っておく。すまない」
ディオルド様の眉尻が少し下がり、細めた臙脂の瞳には十分な想いがあった。
「私は…あなたといることが幸せ…あなたの喜びが幸せ…あなたの悲しみが私の苦しみ…子供はいりません…あなたがいてくれる」
「ああ。いつかお前が悔やんだときはまた謝る」
「悔やみません」
「俺は…お前宛ての手紙を…伯からの手紙を捨てていた。今日…それを悔いた。手紙を渡していれば、伯が返事を読んでいたならこんなことを」
私はディオルド様の唇に触れ、言葉を止めた。
「…私がお父様の手紙になにを思うかと考えたのでしょう?」
ディオルド様は返事をするように瞬きをした。
私がお父様を思って懐かしみ、過去を思い出せば、それは辛いものが多い。
「手紙なんて要りません。あなたの好きなように囲ってください」
「美少年の手紙も要らんか?」
ディオルド様の言葉にセラフィム様が頭に浮かんだ。
「ふふふ!はい」
「ロシェル、俺はお前のその偽りの見えない顔が好きだ。ロシェル、あの我が儘な小僧の手紙は渡す、がエコーに読ませよう。お前は触れるな」
「わかりました」
「返事を書いたっていい。出す前に俺が読むがな」
私は返事をする代わりにディオルド様の唇を見つめる。
「…口づけだけだぞ」
私の思いを察してくれたディオルド様が顔を近づけ、触れるだけの優しい口づけをくれた。
あなたにおすすめの小説
悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています
かきんとう
恋愛
王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。
磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。
その中心に、私は立っていた。
――今日、この瞬間のために。
「エレノア・フォン・リーベルト嬢」
高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。
死ぬまでに叶えたい十の願い
木風
恋愛
「あなたを妻として、愛することはない。おそらく、生涯抱くこともないだろう」
三年間の白い結婚——捨て置かれた王太子妃エリアーナに、側妃が『死の呪い』をかけ余命一年を宣告する。
離縁を願うも拒否され、代わりに「死ぬまでに十の願いを叶えて」と契約する——
二人きりの外出、星空、海…ささやかな願いが王太子の心をほどいていく。
愛人の娘だった私の結婚
しゃーりん
恋愛
ティアナは自分が父の愛人の娘だと知ったのは10歳のとき。
母の娘ではなかったと知り、落ち込んだティアナの心を軽くしてくれたのは隣に住む9歳年上のアイザック。
以来、アイザックの家をよく訪れるようになった。
アイザックが結婚した相手フルールと二人の子供ルークとも仲良くなるがフルールが亡くなってしまう。
ルークの側にいてあげたいと思ったティアナはアイザックに求婚するも、毎回軽くあしらわれる。
やがて、ティアナは父に従い自分に求婚してきたサイラスに嫁ぐことになった。
しかし、サイラスは愛人の子供をティアナに育てさせるというお話です。
結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です
柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。
そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。
真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。
けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。
「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」
彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。
アンリは実は、亡き国王の婚外子。
皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。
異世界に逃げたシングルマザー経理は、定時退勤だけは譲れない
木風
恋愛
DV夫から一歳の娘を抱えて逃げた鈴木優子は、光に飲まれて異世界の王宮へ転移してしまう。
生きるために差し出した武器は簿記と経理経験――崩壊寸前の王宮会計を『複式簿記』で立て直すことに。
ただし譲れない条件はひとつ、「午後五時の定時退勤」。娘の迎えが最優先だからだ。
その姿勢に、なぜか若き国王ヴィクトルが毎日経理室へ通い始めて――仕事と子育ての先に、家族の形が芽吹いていく。
必要とされなくても、私はここにいます
あう
恋愛
辺境公爵カーネル・クリスのもとへ嫁ぐことになったフィレ・バーナード。
けれど彼女は、理想の妻になろうとも、誰かの上に立とうともしなかった。
口出ししない。
判断を奪わない。
必要以上に関わらない。
ただ静かに、そこにいるだけ。
そんな彼女の在り方は、少しずつ屋敷の空気を変えていく。
張りつめていた人々の距離はやわらぎ、日々の営みは穏やかに整いはじめる。
何かを勝ち取る物語ではない。
誰かを打ち負かす物語でもない。
それでも確かに、彼女がいることで守られていくものがある。
これは、
声高に愛を叫ばなくても伝わる想いと、
何も奪わないからこそ育っていく信頼を描く、
静かでやさしい結婚生活の物語。