会長にコーヒーを☕

シナモン

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9話 残り香

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 香苗は手を止めた。 広いキッチンで、食器を洗っていた。 食器を握ったまま、しばらく動けない。

「何でこんなところにいるんだろう」 頭の奥がぼぉっとしていて、思考は進まない。

 気がついたら、ここにいた。 嘘みたいだが、本当にそうだった。

 このマンションの一室は、まるでモデルルームみたいに奇麗だった。 設備は整いすぎていて、自分の部屋の何倍も広い。

 香苗は、家政婦みたいなことをしていた。 食事の支度、洗濯、掃除。

 家主らしき中年のおじさんがいて、時々話しかけてくる。 明るい声。スーツ姿。笑顔。 家にはほとんどいない。

「すまんな、少しの間、おじさんの身の回りの世話、やってくれない?」

 香苗は問いかけた。 「ええと、ここって東京ですよね?」

 おじさんは、ほんの一瞬だけ顔を曇らせた。

「何で私が…」

「わー、それは聞かないで。少しだけ。ほんとに、少しの間でいいから!」

「でも…」

 そこから話は続かなかった。

 玄関の鍵はロックされていた。 窓から見える景色は、地面よりずっと高かった。たぶん、10階以上。

 スマホはなかった。財布もなかった。

 自由も…。

 これは軟禁だと、香苗はようやく思った。




「権藤さん、無理がありますよ、いくらお嬢さんのためとはいえ」 S物産のある部署でこんな言い合いが続いていた。

「もう俺にできることは何もないんだ。せめてお嬢さんだけには幸せになってほしい」 

「気持ちはわかりますが・・・お嬢さんに言われたわけではないんでしょ」

「そうだな」

「どうせ倒産の憂き目に遭うんだったら、道連れに、ってやつですか。それ泥団子とか汚い爆弾ってやつですよね?流行らないっすよ、そういうの」

「俺はこれでやってきたんだよ、それにもしもの時に人質として交渉できるだろ」 

「やばいっすよ。それ誘拐じゃないですか。強盗殺人の次に重罪じゃなかったですか」

「少しの間遠ざけておくだけだ」

「もうやめましょうよ。お嬢さんもいい加減諦めた方がもっといい相手、見つかるんじゃないですか。あのボンはもう無理でしょう。あんなちんけな子、さらってきて何しようっていうんですか」

「何てこと言うんだ。邪魔な存在は消えてもらった方がいいだろ」

「えー、ますますやばいじゃないですか。権藤さんも行く末考えた方がいいですよ。やる気のあるやつはみんな転職しちゃったじゃないですか」

「今更そんなことできるか。俺はどうなってもいいから、せめてお嬢さんだけは」

「だからそれ、泥船って言うんですよ。いい加減、江戸時代みたいな価値観捨てましょうよ」

 権藤の相手をしている小田島青年はマヤに近い部署で働いていた。

「まあ、俺は残りますけどね」

「何だ、じゃあ、お前も協力しろよ」
「嫌ですよ、そんな旧式のやり方。バレたらどうするんですか。それに仮に成功しても誰も喜びませんよ」
「何だと」 
「だってそうでしょ、社長も会長もとっくに逃げてるじゃないですか」
「うーーん…」

 S物産の末期を忍ばせる会話だった。権藤部長もかつてはいい上司だったが。T商事から逆スカウトされてきた村上も今ではけちょんけちょんにけなされる存在になり果てた。

 あげくにお嬢さんはライバル社の御曹司にべた惚れ…。無理だって。誰も得しないよ、そんな危ない橋渡っても。
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