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9話 残り香
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会長室に訪問客があった。「レックス社のフォスターCEOご夫人の…」エリザベスだ。一人でやってきたという。「なんだ?」会長は今日は内勤で時間があると告げた。
「ひとりで? なんでまた」
「帰る途中に寄ったのよ、いけない?」
「オーストラリアから? わざわざ? まあ、先日は世話になったな」
「こちらこそ。あなたにお礼を言うようレオから言付かったわ」
「…カンガルーの?」
「それもあるけど…いやあね、エドワードのことよ」
「俺は何も知らないよ。余計なことだったとしたら済まない」
「余計かどうか少し付き合ってよ」
どうやらまだ言い足りなかったようだ。彼女は家に泊まらせてくれと言う。会長は驚いたが、承諾した。
ディナー後一緒に帰宅すると父は驚くが歓迎してくれた。
「ようこそ。アメリカでは息子が世話になったね」
高広はいない。ゲストルームへと案内された。
エリザベスはあの後シドニーでカウンセリングを受けたが、まだ気になるところがあるのでレオの了承付きで来日したらしい。会長も就寝した。自室にも客間にもバスルームが備え付きで食事以外は各自好きに過ごせる。
ふと夜中に目を覚ますとエリザベスが横にいて会長は仰天した。
「おい」
部屋にもどるよう命じたが、従わない。このまま添い寝してと言われる。
「なんなんだ、いきなり」夜中で周囲に気を配りながら声を立てる。「目が覚めたの? 話に付き合ってよ」
「エドワードがどうのこうの言ってたが、それについてか?」
「色々よ」
「俺は何も知らないのに?」
「知ってくれなくて結構よ。私が話したいだけ」
「何で」
「…あなたって喋れば憎たらしいけど、この匂いは好きなの。」そう言って腕を絡ませてきた。会長は冷や冷やだ。⦅俺だって男なんだが。⦆だが追い出すわけにもいかないのでしぶしぶ従った。
実は昔、一度だけ夜を過ごしたことがあった。それは二人だけの秘密であった。
結果はいつもの通り大惨敗。壮絶なバトルの末、二度とこんなことはしないと誓い別れたのだった。
エリザベスは幼馴染のエドワードとの思い出を語り始めた。彼がどんなに優しくて、穏やかで、色んな事を教えてくれたか。兄のように慕っていたこと。優しいが案外皮肉屋さんだったこと。黒い髪、黒い瞳…絵本で見た異国の王子様のようだったこと…。
「プリンセスムービーの見すぎじゃないか? 君がそうだったなんて思えないが。」
「あら、女の子はみんなそうよ。少なくとも子供のころは毎年見に行かされたわ。」
「映画ねえ…その王子役がエドワードだったのか。王子らしい名前だ。」エリザベスは何も答えず目を閉じている。いくら個室とはいえ、屋敷には家族の他使用人もいる。心の底でハラハラしながら成明はそのままでいた。
「前にもこんなことあったわよね。」
「ああ。」
「あの時私が言った話、憶えてる?」
憶えてるような憶えてないような。そういえばそんなことあったな。まあ、一時の気の迷いか討論の延長だろう。覚えてないと言えばまた怒り出すだろうから成明は黙っていた。
「あの時あなたに色々言ったけど、あれは私のことでもあったみたい」
「なんだったっけ。」つい不用意に答えてしまった。
「酵母菌よ。」何だか不機嫌そうな口調になったので急いで答える。「ああ、匂いね。」「まあ、そうね。」
「人それぞれ、色んな香りがするわ、肌の質感も違う。あなたといるとすぐに口論になるけど、この匂いはいいのよ。なんだか懐かしい…目を閉じると昔を思い出すわ…」
「昔って、その頃の?」
「まあ、そうね…。他にも、大学に入る前とか、旅行に行ったこととか…。おばあさまにケーキを作ってもらったときとか…。」
おとぎ話や冒険活劇のようなことを言い出した。黙って聞いていると、子供をあやす父親になった気になってくる。
こんなに喋るんだな、小さな子供は。
彼女の家は由緒正しいというべきか、最近では批判される向きもあろうが、白人至上主義、異教徒との結婚は絶対認めないキリスト教徒、代々上院議員を務めている家系で、豪邸でのびのびと…だけではない厳格さも幼いころから感じて育ったのだろう。
決して結ばれないことがわかっている幼馴染との楽しいひととき。成長するにつれ、それは貝のように心の奥深く閉ざされていった。あの事故とともに。
「この匂いが好き。フレディのお日様の匂いを思い出すわ…」「まさかシドニーで思い出すなんて」
「カンガルーのせいか」「エミューもね」…それは言わないでくれ。
エリザベスはいつの間にか眠りについていた。それを見て成明はフッと息を漏らす。…俺は犬でもあるのか。
…アメリカの男も大変だな。こんなお姫様の寝言に毎度付き合わなければならないなんて。俺には絶対ムリだ。…寝言の奥に潜んでいるものごと包み込んでやるなんて。
そして会長室でのことを思い出す。香苗に触れて、『いつもありがとう』といったりハグして髪にキスしたり、…それらはすべてうたかたの幻だった。しようものなら、バシッと拒まれて、『やめてください』と言われた。
「あーあ」…うまくいかないな。今となっては懐かしい記憶に、いつしかうとうとしていく。温かい手の感触は残ったままだった。
目覚めると、朝日の漏れる部屋にエリザベスの姿はなかった。身なりを整えた後、ダイニングで、彼女は早朝紅葉を見ると言って出かけたと父から知らされた。
…リベンジなのかもな。
あの夜、寝ているエリザベスを置いて別室で眠りについたこと、それに気づいた彼女から大説教をくらわされたことを思い出し、成明は苦笑した。
「ひとりで? なんでまた」
「帰る途中に寄ったのよ、いけない?」
「オーストラリアから? わざわざ? まあ、先日は世話になったな」
「こちらこそ。あなたにお礼を言うようレオから言付かったわ」
「…カンガルーの?」
「それもあるけど…いやあね、エドワードのことよ」
「俺は何も知らないよ。余計なことだったとしたら済まない」
「余計かどうか少し付き合ってよ」
どうやらまだ言い足りなかったようだ。彼女は家に泊まらせてくれと言う。会長は驚いたが、承諾した。
ディナー後一緒に帰宅すると父は驚くが歓迎してくれた。
「ようこそ。アメリカでは息子が世話になったね」
高広はいない。ゲストルームへと案内された。
エリザベスはあの後シドニーでカウンセリングを受けたが、まだ気になるところがあるのでレオの了承付きで来日したらしい。会長も就寝した。自室にも客間にもバスルームが備え付きで食事以外は各自好きに過ごせる。
ふと夜中に目を覚ますとエリザベスが横にいて会長は仰天した。
「おい」
部屋にもどるよう命じたが、従わない。このまま添い寝してと言われる。
「なんなんだ、いきなり」夜中で周囲に気を配りながら声を立てる。「目が覚めたの? 話に付き合ってよ」
「エドワードがどうのこうの言ってたが、それについてか?」
「色々よ」
「俺は何も知らないのに?」
「知ってくれなくて結構よ。私が話したいだけ」
「何で」
「…あなたって喋れば憎たらしいけど、この匂いは好きなの。」そう言って腕を絡ませてきた。会長は冷や冷やだ。⦅俺だって男なんだが。⦆だが追い出すわけにもいかないのでしぶしぶ従った。
実は昔、一度だけ夜を過ごしたことがあった。それは二人だけの秘密であった。
結果はいつもの通り大惨敗。壮絶なバトルの末、二度とこんなことはしないと誓い別れたのだった。
エリザベスは幼馴染のエドワードとの思い出を語り始めた。彼がどんなに優しくて、穏やかで、色んな事を教えてくれたか。兄のように慕っていたこと。優しいが案外皮肉屋さんだったこと。黒い髪、黒い瞳…絵本で見た異国の王子様のようだったこと…。
「プリンセスムービーの見すぎじゃないか? 君がそうだったなんて思えないが。」
「あら、女の子はみんなそうよ。少なくとも子供のころは毎年見に行かされたわ。」
「映画ねえ…その王子役がエドワードだったのか。王子らしい名前だ。」エリザベスは何も答えず目を閉じている。いくら個室とはいえ、屋敷には家族の他使用人もいる。心の底でハラハラしながら成明はそのままでいた。
「前にもこんなことあったわよね。」
「ああ。」
「あの時私が言った話、憶えてる?」
憶えてるような憶えてないような。そういえばそんなことあったな。まあ、一時の気の迷いか討論の延長だろう。覚えてないと言えばまた怒り出すだろうから成明は黙っていた。
「あの時あなたに色々言ったけど、あれは私のことでもあったみたい」
「なんだったっけ。」つい不用意に答えてしまった。
「酵母菌よ。」何だか不機嫌そうな口調になったので急いで答える。「ああ、匂いね。」「まあ、そうね。」
「人それぞれ、色んな香りがするわ、肌の質感も違う。あなたといるとすぐに口論になるけど、この匂いはいいのよ。なんだか懐かしい…目を閉じると昔を思い出すわ…」
「昔って、その頃の?」
「まあ、そうね…。他にも、大学に入る前とか、旅行に行ったこととか…。おばあさまにケーキを作ってもらったときとか…。」
おとぎ話や冒険活劇のようなことを言い出した。黙って聞いていると、子供をあやす父親になった気になってくる。
こんなに喋るんだな、小さな子供は。
彼女の家は由緒正しいというべきか、最近では批判される向きもあろうが、白人至上主義、異教徒との結婚は絶対認めないキリスト教徒、代々上院議員を務めている家系で、豪邸でのびのびと…だけではない厳格さも幼いころから感じて育ったのだろう。
決して結ばれないことがわかっている幼馴染との楽しいひととき。成長するにつれ、それは貝のように心の奥深く閉ざされていった。あの事故とともに。
「この匂いが好き。フレディのお日様の匂いを思い出すわ…」「まさかシドニーで思い出すなんて」
「カンガルーのせいか」「エミューもね」…それは言わないでくれ。
エリザベスはいつの間にか眠りについていた。それを見て成明はフッと息を漏らす。…俺は犬でもあるのか。
…アメリカの男も大変だな。こんなお姫様の寝言に毎度付き合わなければならないなんて。俺には絶対ムリだ。…寝言の奥に潜んでいるものごと包み込んでやるなんて。
そして会長室でのことを思い出す。香苗に触れて、『いつもありがとう』といったりハグして髪にキスしたり、…それらはすべてうたかたの幻だった。しようものなら、バシッと拒まれて、『やめてください』と言われた。
「あーあ」…うまくいかないな。今となっては懐かしい記憶に、いつしかうとうとしていく。温かい手の感触は残ったままだった。
目覚めると、朝日の漏れる部屋にエリザベスの姿はなかった。身なりを整えた後、ダイニングで、彼女は早朝紅葉を見ると言って出かけたと父から知らされた。
…リベンジなのかもな。
あの夜、寝ているエリザベスを置いて別室で眠りについたこと、それに気づいた彼女から大説教をくらわされたことを思い出し、成明は苦笑した。
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