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第1話 自重しろ生贄

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 異世界召喚。或いは転生。ラノベを読まない訳ではなく、一応概念としては知っていた。
 高いビルと汚れた空気の中で平凡な毎日を送りながら、自分にそんな非日常が降ってこないものかと期待していた同級生も、かつての学び屋では存在していたのかもしれない。
 俺も一切考えたことがなかったといえば嘘になる。けど……まさか、そう考えていた日々が既に異世界転生――転移? 真っ只中だったなんてなあ。

「魔王様、人族からの使者が参りました」
「あ、うん。すぐに行くよ」
「……そう急ぐ必要はございません。所詮貢物で見逃してもらおうとする、浅ましき人間ども。魔王様はゆっくりと、ごゆっくりと、余裕を持っていらしてください」
「あ、ああ……」
「では」

 何処か嘲るような顔で、トカゲ顔の男が去っていく。その尻から生えた長い尾を見送って、またやってしまったと溜息が出た。
 ここは地球ではない。月は四つあり、太陽は二つ。空に浮かぶ大陸があり、海の中にも国がある。初見の時にはあまりの美しさに息を飲んだ場所は、俗に言う“異世界”だった。
 俺はこの世界で一番力を持っている魔族の、王様の息子……だった、らしい。俺が生まれた頃、被支配者である人間の反乱で国周りが荒れており、身の安全のために成人するまで異世界に飛ばすことにしたんだとか。
 それが両親の急死で予定を繰り上げ、まだ人間の制度ですら未成年の年齢だった俺を召喚で呼び戻したんだそうだ。

 何を言っているのかと反論したいところだったが、残念ながら心当たりはあった。やたらと頑丈で、怪我の治りも早すぎる体。
 こちらの世界に戻されてからは頑丈さに拍車がかかり、我ながら随分あっさりと、自分が思っていたのとは違う種族であったのだと納得してしまえた。
 早々にそういうものかと理解した俺と違って、いまだに納得できていないのが俺の――というより、両親の臣下たちだ。
 人間と殆ど同じ姿で、威厳も知識も力もない俺。人間が成人する年齢は何年か前に越えたが、魔族から見れば俺は生きた年数も、それ以外のあらゆる面もまだまだ未熟。そして何より、精神性があまりにも甘く、突けば崩れてしまいそうに脆いという。魔王の器ではない、それどころか魔族にすら見えないと誰もが影で不安がっていた。
 どうにか矯正しようとする者もいるが、今の男のようにあからさまに馬鹿にしてくる者の方が多い。魔王というのが原則世襲制だから辛うじて皆従ってくれているが、いつ反乱を起こされてもおかしくない気がしている。

 人間みたいにじくじくと痛む胃を押さえ、言われた通りに時間を空けてから謁見の間に向かった。


 そうして、言葉を失うことになる。


「……旭陽?」
 多少見慣れてきた、茶髪の大柄な使者。
 その手に握られた太い鎖に繋がれているのは、あいつ、あいつだ。浅黒い肌と、艶めく射干玉の髪。均等の取れた大柄な体躯。誰もが羨み傅いた、魔性の男――東郷 旭陽(とうごう あさひ)。
 俺がずっと、今でも、一時たりとも忘れられなかった人間。まだ自分が普通の人間だと思っていた頃、中学から高校にかけて俺をいじめていた男だった。

 いや、違う。そんなはずない。奴は地球にいるはずだ。実は毎夜魘されている相手だからって、異世界にまで来れるはずがない。よく似た、別人の――
「っ!」
 震えそうになる体に言い聞かせていると、ぐったりとしていた男が身じろぐ。床に倒れ伏せている顔が僅かに持ち上がり、こちらを向いた。

 視線が合った瞬間、あいつと同じ黄金の瞳が見開く。きゅうと音が聞こえそうな鋭さで細まる双眸は、まるで捕食者が獲物を見定めた瞳のようだ。

 ア・キ・ラ。

 ぱくぱくと、声を出さずに薄い唇が紡ぐ。その唇が無理矢理重ねられた時の感触を、まじまじと思い出した。
 間違いない。あいつだ。
 確信すると同時に、思わず玉座から立ち上がる。

「っま、魔王様……!?」
 両脇から苦しげな声が上がった。なんだ。邪魔する気か?

 煩わしくて睨み付けると、真っ青になった臣下たちが息を飲んだ。
 何をそんなに怖がって……ああ。無意識に魔力をだだ漏れにしていたらしい。というか、魔族の中でも有数の実力者たちを怯えさせるほどの魔力を持ってたんだな、俺。今まで全く気付かなかった。

「出て行け」
 普段なら俺の方が青くなって大慌てで自分を律する場面だ。
 でも今は俺を見ている男の視線以外のことは考えられなくて、口にしたことなどないほど乱暴な言葉が出てきた。

 何か言い掛けている男たちに睨む力を強めて、「そこに転がっている人間を連れて行け」と言葉を重ねながら、遅れて人間の使者が気を失って床に倒れ込んでいることに気付いた。今自分で連れて行けと言ったのに、口にしてからその相手の様子に気付くなんて。
 頭と口が繋がっていないみたいで少し怖いはずなのに、自分が感じたはずの感情も頭まで届かない。
 俺の言葉を受けた臣下たちが、意識のない男を連れて謁見の間から出て行った。人気が消え、俺とあいつだけになる。

「は……マオウサマ、なあ。面白えことやってんじゃねえか、晃ァ?」
 四肢と首に太い鎖を括り付けられた状態で、旭陽が頬を歪める。目を細めて片頬だけを持ち上げた、見慣れた皮肉な笑みだった。
 こいつ、状況分かってないのか。

 軽く床を蹴れば、一飛びで男の元まで辿り着いた。運動神経が悪かった俺の身軽な動きに、旭陽が意外そうに眉を上げる。
 何か言おうとしたのを無視して、うつ伏せに倒れている男の背中を踏みつけた。
「っ……」
 にやけていた男が、初めて苦しそうに息を詰めた。
 どうした、慣れてるだろ? まあお前が慣れてるのは踏み付ける側だろうが。こいつに足蹴にされた回数は思い出すのも馬鹿馬鹿しいほどだ。

「久しぶりだな、旭陽。お前、何でこんなとこ居んの? 実はお前もこっちの住民だった?」
「ッぐ……!」
 ぐりぐりと背中を踏み躙ってから、横腹を蹴り飛ばす。吹っ飛んで行かれても面倒だと足で受け止めるつもりだったが、一度背中が浮いてごろんと仰向けになっただけで、鎖の先の鉄球にぶつかってすぐに体は止まった。
 旭陽はぐっと息を詰めて、さっき以上に顔を歪める。

 鉄の塊に体が勢いよくぶち当たったんだから、かなり痛かっただろう。むしろ呻くだけで留まるのだから、この男は存外我慢強いのかもしれない。
 実際のところは分からない。六年間、多分誰よりも時間を共にした。でもそれは学校、いや地域一番の人気者と、カーストトップに目をつけられた玩具としての関係だ。
 俺はこいつの好きなように嬲られるだけの立場で、こいつの好きな痛め付け方は知っていても日常で垣間見えるであろう事柄については何も知らない。
 ……痛め付けられる側になっても、こいつの猛獣じみた瞳は変わらないらしい。苦しそうに歪みながらも、嘲る視線を背けも閉じもしない男に、ぐつぐつと煮立っている俺の頭が冷えそうになる。

「――どうでも良いか、そんなこと。お前は俺に捧げられた贄。その身で俺に媚びて、少しでも人間の待遇を良くしてもらうためだけの存在になったってことに変わりはないもんな」
 気圧されそうになった自分が許せなくて、男のこめかみに足を乗せる。
 これもこいつにされたこと。いや、本来ならぐりぐりと押し込まれたあとボールみたいに蹴飛ばされていたのだから俺は随分優しくしている。
 貶しめるために、全力で嘲りを声に乗せたつもりだった。なのに、顔は歪んでいるくせ、元同級生の馬鹿にした声は変わらない。

「ハ……贄、ねえ……それで、魔王サマとやらは哀れな生贄をどうしようって? このまま息絶えるまで甚振ってみるかよ。それとも、畜生みてえにこのまま鎖に繋いで飼ってくれんの? 教えてくれよ、あきらァ」

 吐息交じりに、語尾を伸ばす呼び方で名前を呼ばれた。
 その音を耳にした瞬間、背筋にぞわりと鳥肌が立つ。

 かつて、男の尊厳を踏み躙る行為の開始を告げる合図となっていた呼び方だ。俺は殴られるよりも蹴られるよりも、あらゆる嬲り方よりもそれが一番嫌いだった。
「っ……!」
「ははっ……! ンだよ、あきら。身動き一つ取れねえニンゲン相手にビビってんなよ。こわぁい魔王様なんだろ?」

 確かに碌に動けそうにない、全身が脱力している様子の男が俺を嘲る。蹴った時の感覚からして、鎖が相当に重いんだろう。呼吸が少し苦しそうなのも、俺に蹴られたからというより首輪に繋がっている鎖とその先の鉄球が重すぎるのかもしれない。
 最初から今も床に倒れたまま起き上がろうとしないのも、多分その所為で動けないんだろう。

 俺の指先一つで抵抗も出来ず殺されてしまう状況で、旭陽は平然と挑発してくる。かつて俺を一番怯えさせていた行為を匂わせながら。

 馬鹿にされている。
 軽んじられている。
 圧倒的に俺が優位のはずの、この状況でさえ。

 理解すると同時に、ただでさえ熱かった頭が一気に濁った。視界が真っ赤に染まる。
 旭陽が身に付けている、贄の証である最高級品の薄い布に手をかけた。男は可笑しそうに喉を鳴らした。
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