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29.因縁の終着②
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ラルドリスが自らの意志をすべてさらけ出す中、それとは異なる場所で。
決死の攻防は人知れず続けられていた。メルは無残にドレスのあちこちを切り裂かれつつ、肩で息をする。
足元には幾つもの骨の小片が砕け、転がっている。
それらは、魔術師が呼び出した小型の魔獣の依り代。
目標たるラルドリスへ向かって駆け抜けようとしたそれらを、メルは全力の魔法を使い、チタの手をも借りて阻止した。足元で小さなリスは、毛皮を血に塗れさせぐったりとしている。
(ごめんね……)
メルはその体をそっと両手ですくい上げると、安全な隅の方に寝かせ、魔術師を見た。
魔術師にメルは、自分からの攻撃を一切加えられていない。だが……。
「どうしたの? 魔術師……先程から攻撃の間隔が広まっているみたいだけれど?」
「城内に渦巻く負の思念が弱まっているのだ……」
せっつくように尋ねたティーラへの魔術師の答えは、彼の操れる力が尽きてきていることを示すものだ。その原因は……。
(ラルドリス様の言葉が、皆の気持ちを変えつつあるんだ)
国王ターロフの病臥により、暗く沈んでしまっていた人々の気持ちをラルドリスがきっと前に向かせた。魔術師が集めようとしている負の思念が少しずつ、薄まりつつあるのがメルにも見て取れている。
「もう……やめませんか。こんなこと……」
メルは魔術師に問いかける。
魔術は、危険な術なのだ。彼は恐らく自分の心をも削り、死をも厭わない覚悟で、それを使い続けている。それをきっと、ザハールは感謝も、悲しみもしない。
メルにはこの男の覚悟が、悲しすぎた。止めてやりたかった。
「そうまでして、ザハールさんを王座に付けなければならないんですか! 本当にそれで彼は幸せになれるんですか!? 終わりのない欲望に駆られて、誰かを道連れにいつか破滅の道をたどってしまうだけなんじゃ、ないんですかっ!」
「黙れ……! 親が我が子にすべてを与えようとしてなにが悪いのだ……」
そこで初めて、魔術師が剥き出しの感情を見せた。
「息子は母を失い、本当の親の愛を知らず……なにが己を満たしてくれるかも分からず、苦しんでいるのだ! なれば一時でも、すべてを与えて満足させてやりたいというのが、そんなにおかしいことか! 親と名乗り出ることもできず、目の前にいる我が子に触れることすら叶わぬこの気持ち、お前などに分かるはずがない!」
魂を絞り出すような呻き。
それが引き金だった。魔術師は己に膨れ上がった憎しみと悲しみを大きく籠め、ラルドリスに向けて両手を構える。
「魔女よ。邪魔をするのなら、お前も共に死ぬがいい。第二王子を殺し、あの子が玉座に付く姿を見れば、我が妻マリアもやっと安心して眠れるだろう」
「違いますよ! そんなの、絶対に違います!」
側妃マリアが自分の競争相手であるジェナに死の間際託した思いを、メルが推し量ることはできない。けれど……ひとり息子を残してゆく母が、地位を、権力をなど望むだろうか。決して、そうであってほしくない……!
「貴方の想いは遂げさせません! だからもう止めて!」
「もう私を惑わすな! 王子と共に逝け!」
魔術師の両手から放たれた暗闇の波動を防ぐ術はもう、メルにはなかった。聖水も植物の種や魔法のアイテムも使いつくし、今楯となれるのはこの身だけだ。
けれども、メルは躊躇わなかった。
後ろで大勢を前に、揺るがず自分の意思を語るラルドリスの声がかすかに聞こえていたから。
なにがあっても、彼を守る――メルもそう、自分で決めたのだから。
「ううっ……!」
両手を広げ立ち塞がった一瞬後、まるで黒い海に呑まれたような気がした。
息をする感覚がなくなり、視界も、頭の中もすべて闇色に塗りつぶされた。
今まで、あえて意識の表層に浮かべず押し込めてきた恐ろしい不安が、息もつかせず浮かび上がってくる。
思い出したくなかった、父と母がメルローゼを見つめる時のあの無表情。
使用人の耳に付く、名前と共に放たれる嘲りのトーン。
祖母と初めて離れ街に行った時の、世間というものの冷たさ。石をぶつけられた時の、理不尽に傷む心。
傷は深く、拾われた後も眠れぬ夜が続いた。この先誰かを信じて心を委ねることなどできず、ずっとひとりで生きていかなければならない気がした。
メルの恐怖の根源は、誰にも理解してもらえない寂しさだ。
家族という最も近しいはずの共同体から弾かれ、あげく不要物として実の姉妹に処分されかけた、その時の孤独が未だ、心の中には巣食くっている。
あの時は祖母がいた。その闇からメルを掬い上げてくれた。
でも今は……彼女はいない。
黒く濁った、底なしの泥沼に身体が沈んでいくような気がした。
なにも見えない。両手を動かし藻掻いても、なににも触れられない。
誰かに拒まれたから、誰も受け入れたくない。
そんな願いが、決して交わらない距離として具現したかのように。
(もう戻れないかも知れない……あちら側には)
ふっと、気が途絶えそうになる。
自分に宿る魔力も、道具も、言葉も……すべてを尽くして。それでもこの命を楯として。
せめて、彼の身柄だけは、無事でいてくれると、いいのだけれど……。
両手を下げ、ゆっくりと沈むメルの耳の奥に……少しだけ、声が届いた。
『限りある人生だが……これからも共に――』
これからも……共に。
(そうだ……終わったら、話したいことがあるって)
彼は、メルが戻らなければ、悲しんでくれるだろうか。
(それは……やだな)
そういえば、ラルドリスが涙を流すところは見たことが無い。少し我儘で非常識で、実は結構寂しがり屋なくせよく意地を張る、子供みたいな人。でも根は明るくて、とてもいい笑顔で笑うところをたくさん見せてくれた。
(笑っていて、欲しいな……)
その輝く笑顔を、ずっと絶やさずにいて欲しい。
きっとそれは、皆を安心させてくれる。たくさんの人々の道を照らすかけがえのないものだから――。
(戻らなきゃ……)
力の抜けていた指先に、感覚が戻ってくる。モノクロに褪せかけていた視界で、再び自分の身体が色づく。されど……手を伸ばせど伸ばせど、触れるものはない。まるで重みのない液体の中浮いているようで、メルは喉を掴み喘いだ。
苦しい。手ごたえはないのに、抗えば抗うほど、肺の中の空気が目減りしてゆく感覚。
けれど、メルはやめなかった。希望が見えなくても、ひたすら手足を振り回した。
(今度は、諦めない!)
どれだけ苦しくても、遠くても……目の前で失われゆく大切な繋がりを断たせないために……。
ふっ――と、体が軽くなったように感じた。
(あっ……)
誰かが、手を掴んで引き揚げてくれている。懐かしい感触が右手を包んでいる。
ゆっくりと浮上していく感覚を感じながら、メルは、目の前のその人に笑いかけた。
(迎えに来てくれたの……?)
『――いつだって、傍にいるとも』
いなくなったと思っていたのはきっと、メルだけだった。
たとえ体を失くしても、周りの人が皆彼女を忘れても、メルだけは絶対に忘れない。
その優しい眼差しと温もりは、ちゃんと、メルの心に刻まれているのだから。
闇の奥に一筋……現実への出口が光って見えた。
祖母の手に誘われるままメルは、一直線にそこへと飛び込んだ。
◇
「魔術師! 魔女は潰したけれど、ラルドリスに届いていないわ! あなたの使命を、果たしなさい!」
「ぐうっ……」
ティーラの叱咤が響き、目の前の魔女が倒れたことで途切れかけた集中を、魔術師は立て直した。
「第二王子を……殺さねばならん。我が、息子のために……」
魔女は地面に身体を崩し、ぴくりとも動かないでいる。第二王子に向けた攻撃は止めたものの、心を殺し、もう間もなく心臓も止まるだろう。後は、もう一度呪いを放てば、すべてが終わる。
(マリア……これで、よかったのか)
恋人は美しく、優しい人だった。のみならず、人にも自分にも厳しく、高潔であることを望んでいた。家を楯に取られ、出世の道具にされようとした自分を憐れむこともなく、守る為に自ら望んで幸せな繋がりを断ち、単身嫁いでいった。
ザハールのことを魔術師が知れたのは偶然だった。たまたまマリアの出産に立ち会い、口封じのため多額の金銭を渡され城から離れていた医官に聞いたのだ。金に困っていた奴は、マリアが国王との逢瀬以前にすでに身ごもっていたことを知っていた。
そして同時に、マリアの死を聞かされた魔術師は大きな悲しみに暮れ、どうしても一度だけ息子に会いたくなった。国王に使える臣下の一人に口利きを頼み込み、城を訪れ、こっそりと彼の姿を見た。
彼はひとりで不満そうにしていた。瞳の先に映るのは、正妃が弟に惜しみなく愛を注ぐ姿だ。その寂しそうな背中が、忘れられなくなった。もう彼は、二度と母の愛情を受けられない。国王は忙しく、たまに顔を見せてはふたりの兄弟に平等に声を掛ける。魔術師は思った。平等ではならない……息子を誰よりも優先してやる者がいなければと。
名乗り出ることも考えた。しかしそれは、彼のたった一つの特別を、第一王子であるという地位を奪うことに他ならない。彼自身だけには、絶対そのことを明かすわけにはいかなかった。
……彼の一番欲したものが永遠に手に入らないなら、それ以外で埋めてやるしかない。だから魔術師は、自分が父であることを隠したまま支援し、ザハールを玉座に付けることを決意した。
幸い、魔術師には力があった。魔術という秘伝を受け継ぐことで、取りたてられた家柄。後ろ暗い役割を持つおかげで表舞台には出れない卑しい家系。
伝手を辿り、再びザハールと会うには長い時間がかかった。
息子は母よりその容姿を受け継いだものの、尊大に育ち、荒れていた。
魔術師を自分の父などとは毛筋も思わず、下賎の血を引く者よと鼻で笑い罵った。
だが、それでよかった。そうされることが、己の贖罪であると……魔術師は息子の手足となって身を粉にした。
幸い、上の地位を望む者はどこにでもいる。頭の切れる娘も側に付き、彼が確実に王位に着くための計画は、着々と進んで行った。
しかしそれも、もうすぐ終わる。最後にこの身を捧げ、敵対する第二王子を葬れば、自分の役目は、果たされる。
魔術師はぐらつく視界の奥を見据え、片手を広げた。
この命を犠牲にして、最後の魔術を放つのだと。
(終わりだ……)
魔術師は、最後に、息子の表情を視界に収めた。壇上に立つラルドリスを忌々しそうに睨んでいる。寂しさで歪んでしまった、悲しい男。だがそれでも、この命を懸けるには惜しくない、たったひとりの愛する息子。
(なにも与えてやれなくて、すまなかった)
最後にそう呟くと、魔術師は呪いの言葉を紡ごうとする。
しかし、その視界を下方から、亜麻色の頭髪が遮った。たった今、地に沈んだはずの、ひとりの魔女。彼女が顔を起こしこちらを見た。
なにかが、変わろうとしていた。
◇
ラルドリスの演説が終わり、すべての参列者が投票を終えようとした頃。
ベルナール公爵は迷っていた……事前に細工した投票箱を前に。
銀のカートの上に置かれた木製の投票箱。実はこの箱の背板には、底と同じサイズの板と、すでに用意しておいた偽りの投票用紙が仕込んである。側面に刺さった指先程の金属ピンを抜けば、音もなくそれが倒れて真の投票用紙を隠し、投票後いつでも先に用意したものにすり替えられる仕組みだった。
隣で今回の投票用紙に細工が無いか確認していた騎士団長ボルドフが、最後の投票用紙を箱の中に入れる。
後は、この投票の責任者であるベルナール公爵が用紙をすり替え、中を改めれば……確実に次期国王はザハールということで決着する。そうすれば、ベルナールの勝利だ。
「そ……それでは、中を開封し、投票結果の確認を……」
三百程度の参列者を前に声が擦れた。
これまでもっと多くの何千人もの観衆の前で演説をした時も、臆すことはまるでなかったのに。
体中から汗が噴き出した。参列者の眼光は鋭くベルナールの挙動に注目している。
(どうしてそんな目をする! 貴様たちは、私にこの国の行く末を委ねたのではないのか!)
その中の半数近くが、事前にベルナール公爵への協力を申し出た者のはずなのに。
あのような若者の言葉に影響され、彼がこれから成そうとすることを咎めているように見えた。
そしてそれは、公爵自身もまたそうであるのかも知れなかった。ラルドリスは、あの国王の意思を継ぎ、この国をよりよいものにしていきたいとそう言ったのだ。もし彼が、あのターロフ王のように自分たちを率いて行ってくれるのならば……その事を誰よりも望んでいるのは、前国王に長く使えた自分たちであるはずだ。
しかしそれが上手くいく保証はどこにもない……ならば変化など求めず、より長く経験を積んだ自分たちの手でこの国を保ち続ける。それが最良の……。
「バダロ……」
ピンに触れる力を籠めようとした時、名を呼ぶ声とともに肩に大きな手が置かれた。
「新しい世代にこの国を引き継ぐ時が来たのだ」
かつての友……上背の大きいボルドフの厳めしい顔が、彼を見下ろしている。
ベルナール公爵の奥歯がぎしりと軋んだ。
「お前などに……なにがわかる」
「分かるとも。お前も、人生のすべてを賭けてこの国に尽くしてきた男だ。その仕事を誰かに譲り渡すのが恐ろしい気持ちは十分に分かる……。だが、誰しもに必ずいつかは決断の時が来る。お前にもあの御方の言葉を聞いて感じる物があったはず……ならば今をおいて他にないのだ。案ずるな、傍で陛下の姿を見守って来た儂が保証しよう。間違いなく、あの方ならば陛下のご意思を理解し、先々に伝えていってくれるはずだ」
ベルナール公爵は、苦渋の滲む顔で振り返り、もう一度ラルドリスの顔を目に収めた。
彼はそれを認めると、しっかりと頷きかけてきた。
――任せてくれ。お前たちの守ってきたこの国を、必ず次の世代に引き継いでいく。
言葉ではなく、胸に直にそんな気持ちが伝わってくる。
投票箱に添えられていた手は震え――……。
「結果を……確認する。皆の者、これからのこの国を担うのがどちらの王子となるか、しかと見届けてくれ」
ピンに添えられた手を外すと、公爵は箱をそのまま開いた。
投票結果がどう転ぶかは分からない。しかし、これでいい。
紙片のひとつひとつに、次代のこの国を担う者たちそれぞれの期待が込められている。自分たちの時代は終わったことを感じ……嘘のように消えた執着とともに公爵は、自らの役目を果たすことが出来た充足感に満たされていた。
決死の攻防は人知れず続けられていた。メルは無残にドレスのあちこちを切り裂かれつつ、肩で息をする。
足元には幾つもの骨の小片が砕け、転がっている。
それらは、魔術師が呼び出した小型の魔獣の依り代。
目標たるラルドリスへ向かって駆け抜けようとしたそれらを、メルは全力の魔法を使い、チタの手をも借りて阻止した。足元で小さなリスは、毛皮を血に塗れさせぐったりとしている。
(ごめんね……)
メルはその体をそっと両手ですくい上げると、安全な隅の方に寝かせ、魔術師を見た。
魔術師にメルは、自分からの攻撃を一切加えられていない。だが……。
「どうしたの? 魔術師……先程から攻撃の間隔が広まっているみたいだけれど?」
「城内に渦巻く負の思念が弱まっているのだ……」
せっつくように尋ねたティーラへの魔術師の答えは、彼の操れる力が尽きてきていることを示すものだ。その原因は……。
(ラルドリス様の言葉が、皆の気持ちを変えつつあるんだ)
国王ターロフの病臥により、暗く沈んでしまっていた人々の気持ちをラルドリスがきっと前に向かせた。魔術師が集めようとしている負の思念が少しずつ、薄まりつつあるのがメルにも見て取れている。
「もう……やめませんか。こんなこと……」
メルは魔術師に問いかける。
魔術は、危険な術なのだ。彼は恐らく自分の心をも削り、死をも厭わない覚悟で、それを使い続けている。それをきっと、ザハールは感謝も、悲しみもしない。
メルにはこの男の覚悟が、悲しすぎた。止めてやりたかった。
「そうまでして、ザハールさんを王座に付けなければならないんですか! 本当にそれで彼は幸せになれるんですか!? 終わりのない欲望に駆られて、誰かを道連れにいつか破滅の道をたどってしまうだけなんじゃ、ないんですかっ!」
「黙れ……! 親が我が子にすべてを与えようとしてなにが悪いのだ……」
そこで初めて、魔術師が剥き出しの感情を見せた。
「息子は母を失い、本当の親の愛を知らず……なにが己を満たしてくれるかも分からず、苦しんでいるのだ! なれば一時でも、すべてを与えて満足させてやりたいというのが、そんなにおかしいことか! 親と名乗り出ることもできず、目の前にいる我が子に触れることすら叶わぬこの気持ち、お前などに分かるはずがない!」
魂を絞り出すような呻き。
それが引き金だった。魔術師は己に膨れ上がった憎しみと悲しみを大きく籠め、ラルドリスに向けて両手を構える。
「魔女よ。邪魔をするのなら、お前も共に死ぬがいい。第二王子を殺し、あの子が玉座に付く姿を見れば、我が妻マリアもやっと安心して眠れるだろう」
「違いますよ! そんなの、絶対に違います!」
側妃マリアが自分の競争相手であるジェナに死の間際託した思いを、メルが推し量ることはできない。けれど……ひとり息子を残してゆく母が、地位を、権力をなど望むだろうか。決して、そうであってほしくない……!
「貴方の想いは遂げさせません! だからもう止めて!」
「もう私を惑わすな! 王子と共に逝け!」
魔術師の両手から放たれた暗闇の波動を防ぐ術はもう、メルにはなかった。聖水も植物の種や魔法のアイテムも使いつくし、今楯となれるのはこの身だけだ。
けれども、メルは躊躇わなかった。
後ろで大勢を前に、揺るがず自分の意思を語るラルドリスの声がかすかに聞こえていたから。
なにがあっても、彼を守る――メルもそう、自分で決めたのだから。
「ううっ……!」
両手を広げ立ち塞がった一瞬後、まるで黒い海に呑まれたような気がした。
息をする感覚がなくなり、視界も、頭の中もすべて闇色に塗りつぶされた。
今まで、あえて意識の表層に浮かべず押し込めてきた恐ろしい不安が、息もつかせず浮かび上がってくる。
思い出したくなかった、父と母がメルローゼを見つめる時のあの無表情。
使用人の耳に付く、名前と共に放たれる嘲りのトーン。
祖母と初めて離れ街に行った時の、世間というものの冷たさ。石をぶつけられた時の、理不尽に傷む心。
傷は深く、拾われた後も眠れぬ夜が続いた。この先誰かを信じて心を委ねることなどできず、ずっとひとりで生きていかなければならない気がした。
メルの恐怖の根源は、誰にも理解してもらえない寂しさだ。
家族という最も近しいはずの共同体から弾かれ、あげく不要物として実の姉妹に処分されかけた、その時の孤独が未だ、心の中には巣食くっている。
あの時は祖母がいた。その闇からメルを掬い上げてくれた。
でも今は……彼女はいない。
黒く濁った、底なしの泥沼に身体が沈んでいくような気がした。
なにも見えない。両手を動かし藻掻いても、なににも触れられない。
誰かに拒まれたから、誰も受け入れたくない。
そんな願いが、決して交わらない距離として具現したかのように。
(もう戻れないかも知れない……あちら側には)
ふっと、気が途絶えそうになる。
自分に宿る魔力も、道具も、言葉も……すべてを尽くして。それでもこの命を楯として。
せめて、彼の身柄だけは、無事でいてくれると、いいのだけれど……。
両手を下げ、ゆっくりと沈むメルの耳の奥に……少しだけ、声が届いた。
『限りある人生だが……これからも共に――』
これからも……共に。
(そうだ……終わったら、話したいことがあるって)
彼は、メルが戻らなければ、悲しんでくれるだろうか。
(それは……やだな)
そういえば、ラルドリスが涙を流すところは見たことが無い。少し我儘で非常識で、実は結構寂しがり屋なくせよく意地を張る、子供みたいな人。でも根は明るくて、とてもいい笑顔で笑うところをたくさん見せてくれた。
(笑っていて、欲しいな……)
その輝く笑顔を、ずっと絶やさずにいて欲しい。
きっとそれは、皆を安心させてくれる。たくさんの人々の道を照らすかけがえのないものだから――。
(戻らなきゃ……)
力の抜けていた指先に、感覚が戻ってくる。モノクロに褪せかけていた視界で、再び自分の身体が色づく。されど……手を伸ばせど伸ばせど、触れるものはない。まるで重みのない液体の中浮いているようで、メルは喉を掴み喘いだ。
苦しい。手ごたえはないのに、抗えば抗うほど、肺の中の空気が目減りしてゆく感覚。
けれど、メルはやめなかった。希望が見えなくても、ひたすら手足を振り回した。
(今度は、諦めない!)
どれだけ苦しくても、遠くても……目の前で失われゆく大切な繋がりを断たせないために……。
ふっ――と、体が軽くなったように感じた。
(あっ……)
誰かが、手を掴んで引き揚げてくれている。懐かしい感触が右手を包んでいる。
ゆっくりと浮上していく感覚を感じながら、メルは、目の前のその人に笑いかけた。
(迎えに来てくれたの……?)
『――いつだって、傍にいるとも』
いなくなったと思っていたのはきっと、メルだけだった。
たとえ体を失くしても、周りの人が皆彼女を忘れても、メルだけは絶対に忘れない。
その優しい眼差しと温もりは、ちゃんと、メルの心に刻まれているのだから。
闇の奥に一筋……現実への出口が光って見えた。
祖母の手に誘われるままメルは、一直線にそこへと飛び込んだ。
◇
「魔術師! 魔女は潰したけれど、ラルドリスに届いていないわ! あなたの使命を、果たしなさい!」
「ぐうっ……」
ティーラの叱咤が響き、目の前の魔女が倒れたことで途切れかけた集中を、魔術師は立て直した。
「第二王子を……殺さねばならん。我が、息子のために……」
魔女は地面に身体を崩し、ぴくりとも動かないでいる。第二王子に向けた攻撃は止めたものの、心を殺し、もう間もなく心臓も止まるだろう。後は、もう一度呪いを放てば、すべてが終わる。
(マリア……これで、よかったのか)
恋人は美しく、優しい人だった。のみならず、人にも自分にも厳しく、高潔であることを望んでいた。家を楯に取られ、出世の道具にされようとした自分を憐れむこともなく、守る為に自ら望んで幸せな繋がりを断ち、単身嫁いでいった。
ザハールのことを魔術師が知れたのは偶然だった。たまたまマリアの出産に立ち会い、口封じのため多額の金銭を渡され城から離れていた医官に聞いたのだ。金に困っていた奴は、マリアが国王との逢瀬以前にすでに身ごもっていたことを知っていた。
そして同時に、マリアの死を聞かされた魔術師は大きな悲しみに暮れ、どうしても一度だけ息子に会いたくなった。国王に使える臣下の一人に口利きを頼み込み、城を訪れ、こっそりと彼の姿を見た。
彼はひとりで不満そうにしていた。瞳の先に映るのは、正妃が弟に惜しみなく愛を注ぐ姿だ。その寂しそうな背中が、忘れられなくなった。もう彼は、二度と母の愛情を受けられない。国王は忙しく、たまに顔を見せてはふたりの兄弟に平等に声を掛ける。魔術師は思った。平等ではならない……息子を誰よりも優先してやる者がいなければと。
名乗り出ることも考えた。しかしそれは、彼のたった一つの特別を、第一王子であるという地位を奪うことに他ならない。彼自身だけには、絶対そのことを明かすわけにはいかなかった。
……彼の一番欲したものが永遠に手に入らないなら、それ以外で埋めてやるしかない。だから魔術師は、自分が父であることを隠したまま支援し、ザハールを玉座に付けることを決意した。
幸い、魔術師には力があった。魔術という秘伝を受け継ぐことで、取りたてられた家柄。後ろ暗い役割を持つおかげで表舞台には出れない卑しい家系。
伝手を辿り、再びザハールと会うには長い時間がかかった。
息子は母よりその容姿を受け継いだものの、尊大に育ち、荒れていた。
魔術師を自分の父などとは毛筋も思わず、下賎の血を引く者よと鼻で笑い罵った。
だが、それでよかった。そうされることが、己の贖罪であると……魔術師は息子の手足となって身を粉にした。
幸い、上の地位を望む者はどこにでもいる。頭の切れる娘も側に付き、彼が確実に王位に着くための計画は、着々と進んで行った。
しかしそれも、もうすぐ終わる。最後にこの身を捧げ、敵対する第二王子を葬れば、自分の役目は、果たされる。
魔術師はぐらつく視界の奥を見据え、片手を広げた。
この命を犠牲にして、最後の魔術を放つのだと。
(終わりだ……)
魔術師は、最後に、息子の表情を視界に収めた。壇上に立つラルドリスを忌々しそうに睨んでいる。寂しさで歪んでしまった、悲しい男。だがそれでも、この命を懸けるには惜しくない、たったひとりの愛する息子。
(なにも与えてやれなくて、すまなかった)
最後にそう呟くと、魔術師は呪いの言葉を紡ごうとする。
しかし、その視界を下方から、亜麻色の頭髪が遮った。たった今、地に沈んだはずの、ひとりの魔女。彼女が顔を起こしこちらを見た。
なにかが、変わろうとしていた。
◇
ラルドリスの演説が終わり、すべての参列者が投票を終えようとした頃。
ベルナール公爵は迷っていた……事前に細工した投票箱を前に。
銀のカートの上に置かれた木製の投票箱。実はこの箱の背板には、底と同じサイズの板と、すでに用意しておいた偽りの投票用紙が仕込んである。側面に刺さった指先程の金属ピンを抜けば、音もなくそれが倒れて真の投票用紙を隠し、投票後いつでも先に用意したものにすり替えられる仕組みだった。
隣で今回の投票用紙に細工が無いか確認していた騎士団長ボルドフが、最後の投票用紙を箱の中に入れる。
後は、この投票の責任者であるベルナール公爵が用紙をすり替え、中を改めれば……確実に次期国王はザハールということで決着する。そうすれば、ベルナールの勝利だ。
「そ……それでは、中を開封し、投票結果の確認を……」
三百程度の参列者を前に声が擦れた。
これまでもっと多くの何千人もの観衆の前で演説をした時も、臆すことはまるでなかったのに。
体中から汗が噴き出した。参列者の眼光は鋭くベルナールの挙動に注目している。
(どうしてそんな目をする! 貴様たちは、私にこの国の行く末を委ねたのではないのか!)
その中の半数近くが、事前にベルナール公爵への協力を申し出た者のはずなのに。
あのような若者の言葉に影響され、彼がこれから成そうとすることを咎めているように見えた。
そしてそれは、公爵自身もまたそうであるのかも知れなかった。ラルドリスは、あの国王の意思を継ぎ、この国をよりよいものにしていきたいとそう言ったのだ。もし彼が、あのターロフ王のように自分たちを率いて行ってくれるのならば……その事を誰よりも望んでいるのは、前国王に長く使えた自分たちであるはずだ。
しかしそれが上手くいく保証はどこにもない……ならば変化など求めず、より長く経験を積んだ自分たちの手でこの国を保ち続ける。それが最良の……。
「バダロ……」
ピンに触れる力を籠めようとした時、名を呼ぶ声とともに肩に大きな手が置かれた。
「新しい世代にこの国を引き継ぐ時が来たのだ」
かつての友……上背の大きいボルドフの厳めしい顔が、彼を見下ろしている。
ベルナール公爵の奥歯がぎしりと軋んだ。
「お前などに……なにがわかる」
「分かるとも。お前も、人生のすべてを賭けてこの国に尽くしてきた男だ。その仕事を誰かに譲り渡すのが恐ろしい気持ちは十分に分かる……。だが、誰しもに必ずいつかは決断の時が来る。お前にもあの御方の言葉を聞いて感じる物があったはず……ならば今をおいて他にないのだ。案ずるな、傍で陛下の姿を見守って来た儂が保証しよう。間違いなく、あの方ならば陛下のご意思を理解し、先々に伝えていってくれるはずだ」
ベルナール公爵は、苦渋の滲む顔で振り返り、もう一度ラルドリスの顔を目に収めた。
彼はそれを認めると、しっかりと頷きかけてきた。
――任せてくれ。お前たちの守ってきたこの国を、必ず次の世代に引き継いでいく。
言葉ではなく、胸に直にそんな気持ちが伝わってくる。
投票箱に添えられていた手は震え――……。
「結果を……確認する。皆の者、これからのこの国を担うのがどちらの王子となるか、しかと見届けてくれ」
ピンに添えられた手を外すと、公爵は箱をそのまま開いた。
投票結果がどう転ぶかは分からない。しかし、これでいい。
紙片のひとつひとつに、次代のこの国を担う者たちそれぞれの期待が込められている。自分たちの時代は終わったことを感じ……嘘のように消えた執着とともに公爵は、自らの役目を果たすことが出来た充足感に満たされていた。
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