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第七話:唐紅のザンカ
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「天唯! 天唯!」
少女二人の元から去った弥咲は本部へと駆けるが、一向に距離は縮まらずに。それどころか目の前の光景が可笑しくなっていく。身近の建物が大きくなっている。それは、天笠弥咲の足が遅くなったのか、それとも彼が小さくなり始めたのだろうか。次第に地面は大きく傾き、弥咲は転んでしまう。
その刹那――視界には大きな亀裂が走り、万華鏡の硝子細工のように砕け散った世界が映る。息をする事を忘れてしまう程に目ま苦しく、色彩豊かで美しく、そして残酷な。この光景は余りにも唐突であり、まるで悪夢を見ているようだった。硝子細工の向こう側に妹の天唯の姿が写っていた。
血を分けた大切なたった一人の兄妹である天唯の背後には、弥咲がこの世で一際嫌悪する忌々しいアレが咲き誇る。
蓮の実に泥を含ませて青黒い淀んだ“死樊華”――“死斑”“死相の先触れ”とも言われるもの。
天笠家は“天を見通す眼”を代々継いでおり、その能力は簡単に言うならば“先見の明”であるが、天笠弥咲はこの力を受け継ぐ事が出来ず、人の死を看取る事しか出来ない無能である。先代である両親の不慮の事故を防ぐ事ができず、長男であった彼の心は酷く荒み、妹以外の他人とは距離を置いて生活してきた。
「何を見せられているんだ、おい……、止めろ!」
心臓が破裂しそうな程の衝撃を受ける。
天唯が誰かによって、縄のように太く荒々しいもので首を絞められている。必死に抵抗するが、彼女の力はあまりにも弱々しく、抵抗は意味を成さない。手に何故、どうして。天唯がこんな目に遭わなければいけない。あの子は、天唯は何も悪い事をしていない。
妹を助けようと手を伸ばすが、手が届かない。それでも必死に手を伸ばし続ける。声が出なくなるまで、声が擦り切れる程に叫び続けても妹の悲鳴と首に強く食い込む音だけが聞こえる。やがて、事切れた妹が地面に倒れてしまう。小さな身体から透明な液体が漏れていく。
「うぁぁぁぁぁぁ! なんで天唯を狙うんだよ! 私が代わりになるから、天唯だけは助けてくれよぉ」
幼い少年の泣き叫ぶ声が聞こえてくる。それが自分の声だと気付くのにそう時間は掛らなかった。久しく流した涙は頬を伝い、地に落ちて消えていく。喉を枯らし、声にならない声で訴えかけても妹は戻ってこない。桐との約束を破るわけにはいかないと、己の心を持つように。持つようにしたが……弥咲の瞳が濁っていく。
硝子細工の向こうにいる殺人犯と目が合う。蜘蛛の頭や口を持つ化け物、十二本の蜘蛛の足、禍々しい紫色をした髪と瞳を持ち、その背丈は成人男性よりも高く二メートルを超えるだろうか。蜘蛛のような化物は弥咲に向けて口を開く。耳を塞ぎたくなるような絶叫だ。人の言葉などではなく、まるで獣の雄たけびに近い。
それと同時にゆっくりと自身の身体に羽虫が這っていく。
気がつけば、金木犀がある裏道で見た赤黒い水溜りの中に私は飲み込まれていく。身体に卵を植え付けられ、あの金平糖のような蛆虫が嫌な音を立てて噛みついてく。肉を引き裂き、骨を削って体内へ侵入してくる。次第に意識が遠退いていき、最後には闇へと堕ちていくのだ。私の人生はいつもそうだ。何か大切なものが壊れて無くなって、やっと自分は独りなんだと自覚する。そんな人生に、これからも縛られ続けながら生きなければならないと思うと息苦しくて。だから、もういっそのこと――――私はあの化け物のようになってしまうのか?
みちみちみちっという音を立てて別の生物へ無理矢理変えられる。私の右手が蜘蛛の足へ変わっていく。これは、本当にそうではないか。天唯を殺した殺人犯と同じもの? 私が天唯を殺す化け物になるのか!? やめろ! 頼むからやめてくれ! 私はまだ人間、まだ、私は……。
「……っ!」
右手に鋭い痛みが駆け上がっていく。左手で蜘蛛の足へと変わった右手を、残りの指を折って正気を繋ぐ。人差し指、中指がとてつも無く痛い。身体中が熱を帯び、燃えてしまいそうなくらいに熱い。歯を食いしばり奥歯を鳴らす。その度に蜘蛛の足が霧散して千切れそうになる。
突然、右目の視界が赤く染まる。まるで眼球の奥に赤い血を流し込まれているかのようだ。
地面に落ちて汚れてしまった古書に目が行く。謎の古書、不思議な男から一宿一飯の恩義として貰った古書――なら、その結末を書き換えれば良いだけの話じゃないか。
血で染まった指を噛んで更に血を出させる。口内で暴れる蛆虫は大百足に比べたら優しいものだ。これで良かったんだ。だって、私は天唯を守る為に生まれて今までずっと傍にいたのだから。きっと神様が最後の願いを聞いてくれたに違いない。彼女の死を私自身がこの手で変えればいい。血の付いた古書を手に取り、表紙に目を通す。そこに書いてある文字は確かに天唯が拷問されている時の日付が書かれている。これが運命だというのならば、これを書き換えれば天唯は助かる。そんな希望が見えた瞬間だった。
本が微かに輝き始める。その本のタイトルはまつろわぬ民が使用する言語。古書は風変わりな装飾が溶けて形を作り直す、羽が折れ曲がった不思議な鳥へと変わり光の粒子となって消失してしまう。勝手に捲られていくページ、ある一節に辿り着くと弥咲の脳へ何かが突き刺さる。その瞬間、全身を強烈な倦怠感が襲う。
ああ、成程。そういうことか。私を依代にしたいのか。
天唯の命が狙われたと言うのか。
私なんかじゃなくて、もっと他の人を使えばいいものを。
だが、その前に天唯を助けなければ。
私は静かに呼吸をする。そしてゆっくりと瞼を閉じる。
■
嫌に香る金木犀の花弁に埋もれている。
空から黄色の光芒を纏って落ちてくるなんて、なんて素敵な光景なのだろう。ふと、何かが私の身体に触れる。それは人の手だと解ると同時に聞き覚えのある声音が耳を掠める。その声の主は何度も私の名前を呼んでいた。どうして名前を知っているのだろうか。記憶が混濁していてよく思い出せない。だけど、何処か懐かしい声だ。その声は私の身体を優しく抱き締めてくれる。それが嬉しくて、何故か泣きたくなってしまう。
私は金木犀の香りがあまり好きではない。両親が事故に合ったときも金木犀が咲き誇っていて、上がる炎に混じって忌々しく染み付いている。頭の片隅に穴が開いている感覚を味わう。
無造作に地面へ転がっている古書を面倒臭そうに手繰り寄せると、表紙に書かれた題名を見て、弥咲は眉間に深いシワを刻む。その表情は不快感を露にしている。読む人を考えていない謎の単語、抽象的な植物の挿絵、そのどれもが気味の悪さがあり頭痛を促すのだ。妙に受け入れ難いその古書は愛着にも似た相反する嫌悪の対象でもあった。
「私は、一体ここで何を…………帰ろう」
弥咲は見たことのない裏通りから出ようとして、自分の店へ、歩を進めることにした。そうすればいつも通り、日常が待っている。
何故だろう。
そんな考えが頭を過るが、直ぐに霧散してしまう。誰かが頭の片隅で操っているような、風邪を引いたときのような妙にふわふわと、した感じなのだ。しかし、こんな場所で古物商の自分自身は何をしていたのだろうか? 実家には誰もいないし。というか勘当されているし……友人は誰一人としていないし。
窓硝子に写る人物は溶けていた。ああ、なんだこれ。人体模型にしては良く出来すぎている。こんなの見ていられな――突然、弥咲の側頭部に軋む衝撃が加わった。
頭蓋に与えられた痛みと振動は一瞬で弥咲の意識を外しにかかった。体勢を立て直そうと煉瓦作りの道に、膝から崩れ落ちる寸前に何者かが弥咲の片腕を掴む。腕を引かれるままに立ち上がらされると、頭上から舌打ちが聞こえる。
時計の秒針のように一定のリズムで、舌打ち。また舌打ちをする。
弥咲は痛む後頭部を押さえながら、何が起きたのか把握しようと視線を動かすと目の前に軍服を着た男がいた。軍帽で目元には影が掛かり表情は読み取れないが歳は二十代後半の男性。無精髭で少し痩せた頬が特徴的だ。彼は弥咲が言葉を言う前に、襟首を掴んで歩き出す。どこからそんな力が湧くのだろう。引き摺られるように引っ張られていくと弥咲は抵抗しようとしても、力が入らず、足が地面に引っかかり上手く歩けない。
だぁん! 家屋の壁に背中をぶつけると、男の顔が目前まで迫っていた。口を開くのも億劫なのか、何も言わずに弥咲を見下ろしてくる。舌打ちをしながら、腰のベルトに差した軍刀の柄を撫でていた。
「脅しですか? 先程のアレ……憲兵である貴方ならお分かりでしょう?」
男は答えない。ただ不機嫌そうに舌を鳴らすだけだ。弥咲は先程の衝撃で頭痛が消えていた。今この状況は命の危機ではあるが、それよりも何故“妹の天唯”や“桐との約束”を忘れていたのか。その事の方が重要だった。あの硝子細工の世界は一体なんだったのだろうか。しかし太陽の位置を見る限り、遠くから聞こえる新聞屋の売り文句を聞く限り、間に合っていると思う。
――くちゃ。
耳に寒気が走っていく。この音は聞いたことがある。
世界が上下になった光景が目の前で起こる。男の腹から子供の腕が骨を折りながら裂き割って現れる。溢れ出る鮮血や内蔵は重力に沿って落ちていき、肉塊が煉瓦造りの道路にべしゃりと嫌な音をたてて落ちた。
弥咲は男の腕を叩き落とした弾みで、逃げ出す。背後を振り返ると男が子供の手で、内臓を引き千切られながらも、懐に忍ばせていた拳銃を震える残された手で取り出していた。
――銃声。
脳髄に響く音が聞こえた。銃弾が左肩に突き刺さったのだ。貫通している。しかし、不思議と熱さや痛みは感じない。
「な、なんなんだアイツ! アイツをどうにか捕まえないとっ!」
痛みを感じない事に恐怖を覚えた。肩に穴が空いたというのにどうしてこんなにも冷静な思考が出来るのだろう。弥咲は肩から血を流しながら走り出す。遠くの新聞屋の声へ走っても走っても近づくことはない。何故かは分からないが、あの場所から離れなければならない。その一心で走り続ける。
目の前をよく見ると左通路で金木犀の樹木が一本倒れている。その樹木の前に金木犀の黄色に恥じない極彩色の塊がいた。現実離れした色、その美しさに見惚れてしまいそうになるが、その横にいる異形の存在が現実に引き戻す。人の形をした巨大な怪物は全身に棘が生えており、鋭い爪は血で染まって光る。その怪物は牙を見せ付けながら舌舐めずりをしていた。さっきからなんなんだ。
足を止めた瞬間に、背後から水膨れの子供の腕が抱きつくように伸びてきた。やばい。これは本当にやばい。避けようにも足に腸が。どうして、何が起きたのか理解できないまま――
「お前のその瞳は凄く汚い色だな?」
乾いた夏の声と共に耳元で水風船が破裂する音が鼓膜へ刺さる。汗と血の匂いに混じって微かな尿の匂い。視界の端で捉えられた男は上半身が裂かれている。水溜まりに飛び込んだ時のように、人体が地面に落ちて、ぐちゃっと中身が飛び出した。その中に入っていたのは、艶やかとは言えない変色したもの。デタラメに作られた脳味噌、眼球、舌、胃袋、太い植物の蔦、子供の腕が転がっている。
間髪言わずに棘の生えた化け物も破裂し、内容物を上塗りしていくが清涼。一転。極彩色の布が弥咲の目の前に出される。
「汚い瞳をした人、これ、肩つかいなよ」
「…………え?」
「……発音違う? 私この国の人じゃないから聞き苦しいかも」
その言葉を聞き、ようやく気付いた。彼女が日本人ではないことに。そして彼女の着ている服が異国のものであるということに。
地面に落ちている極彩色の塊を広いに行く唐紅の少女を弥咲はじっと観察をする。
筋肉質な肢体は少女特有の華奢な線で描かれているが、粗末で簡素に作られた麻布一枚で胸や恥部を隠している。腰に二つ括り付けられた紐で止められているだけの代物。手足に無骨な鎖が付けられた枷がついている――彼女は奴隷少女だ。明らかに違法な人身売買行為であり、よく見れば彼女の首にも枷が付けられうっ血も見られる。そんな彼女が何故、この帝都の街中にいるのか? の目の前にいるのは紛れもなく、現実である。
顔は先程の出来事で目に焼き付いてしまった。少女は人目を嫌でも引いてしまう容姿をしている――緑から黄色の緩やかなグラーデーションの瞳。なんて綺麗な瞳だったんだろう。まるで春宵のような花や芽の息吹が月の美しさで色づくようであった。人を惑わす蜃気楼を具現化したような子だ。
それに……髪の色もそう、癖っ毛でザクザクな唐紅色の長髪だが、風で舞う度にその空間に炎の揺らめきが散っている。異国の模様が描かれた黄色の極彩色の着物とよく似合っているが
どこかしらチグハグな印象を受ける。
「その汚い色の瞳で見ないで」
「…………あの、助けてくれてありがとうございます」
頭をさっと地面へ下げる弥咲。少女は長い髪を手で払いながら呆れたように溜め息をつく。少女の足は血に染まっており地面には小さな足跡が、ついていき何か迷っているように見える。倒れた金木犀の樹木の前にあった極彩色の塊を大事そうに拾い上げると、少女は弥咲の元へと駆け寄った。銃弾で打たれた肩を少し触ると、眉間にシワを寄せた少女の顔が弥咲の瞳に映る。見るなと言われるが、つい見てしまう。というか――。
「私の瞳って汚いですか?」
肩にぎゅっと布が縛られる。まるでこれが回答だと言わんばかりに。
「汚い。とても悪い嫌な瞳をしている。生まれつき何か持ってる力だけど、誰かに歪まされている感じ」
こちらを見つめるとすぐに顔を逸らして口を尖らせる。その仕草が妹の天唯とそっくりで弥咲は涙を零す。目の前の男が急に泣いてしまい、少女はぎょっと目を見開く。口をあわあわとさせ落ち着きが無くなり始めた。天笠弥咲は彼女に向かって震える声で問いかける。この子なら助けてくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら。
「じゃあ……私を買ってよ。私はザンカ。琉球から連れてこられた奴隷だよ」
少女二人の元から去った弥咲は本部へと駆けるが、一向に距離は縮まらずに。それどころか目の前の光景が可笑しくなっていく。身近の建物が大きくなっている。それは、天笠弥咲の足が遅くなったのか、それとも彼が小さくなり始めたのだろうか。次第に地面は大きく傾き、弥咲は転んでしまう。
その刹那――視界には大きな亀裂が走り、万華鏡の硝子細工のように砕け散った世界が映る。息をする事を忘れてしまう程に目ま苦しく、色彩豊かで美しく、そして残酷な。この光景は余りにも唐突であり、まるで悪夢を見ているようだった。硝子細工の向こう側に妹の天唯の姿が写っていた。
血を分けた大切なたった一人の兄妹である天唯の背後には、弥咲がこの世で一際嫌悪する忌々しいアレが咲き誇る。
蓮の実に泥を含ませて青黒い淀んだ“死樊華”――“死斑”“死相の先触れ”とも言われるもの。
天笠家は“天を見通す眼”を代々継いでおり、その能力は簡単に言うならば“先見の明”であるが、天笠弥咲はこの力を受け継ぐ事が出来ず、人の死を看取る事しか出来ない無能である。先代である両親の不慮の事故を防ぐ事ができず、長男であった彼の心は酷く荒み、妹以外の他人とは距離を置いて生活してきた。
「何を見せられているんだ、おい……、止めろ!」
心臓が破裂しそうな程の衝撃を受ける。
天唯が誰かによって、縄のように太く荒々しいもので首を絞められている。必死に抵抗するが、彼女の力はあまりにも弱々しく、抵抗は意味を成さない。手に何故、どうして。天唯がこんな目に遭わなければいけない。あの子は、天唯は何も悪い事をしていない。
妹を助けようと手を伸ばすが、手が届かない。それでも必死に手を伸ばし続ける。声が出なくなるまで、声が擦り切れる程に叫び続けても妹の悲鳴と首に強く食い込む音だけが聞こえる。やがて、事切れた妹が地面に倒れてしまう。小さな身体から透明な液体が漏れていく。
「うぁぁぁぁぁぁ! なんで天唯を狙うんだよ! 私が代わりになるから、天唯だけは助けてくれよぉ」
幼い少年の泣き叫ぶ声が聞こえてくる。それが自分の声だと気付くのにそう時間は掛らなかった。久しく流した涙は頬を伝い、地に落ちて消えていく。喉を枯らし、声にならない声で訴えかけても妹は戻ってこない。桐との約束を破るわけにはいかないと、己の心を持つように。持つようにしたが……弥咲の瞳が濁っていく。
硝子細工の向こうにいる殺人犯と目が合う。蜘蛛の頭や口を持つ化け物、十二本の蜘蛛の足、禍々しい紫色をした髪と瞳を持ち、その背丈は成人男性よりも高く二メートルを超えるだろうか。蜘蛛のような化物は弥咲に向けて口を開く。耳を塞ぎたくなるような絶叫だ。人の言葉などではなく、まるで獣の雄たけびに近い。
それと同時にゆっくりと自身の身体に羽虫が這っていく。
気がつけば、金木犀がある裏道で見た赤黒い水溜りの中に私は飲み込まれていく。身体に卵を植え付けられ、あの金平糖のような蛆虫が嫌な音を立てて噛みついてく。肉を引き裂き、骨を削って体内へ侵入してくる。次第に意識が遠退いていき、最後には闇へと堕ちていくのだ。私の人生はいつもそうだ。何か大切なものが壊れて無くなって、やっと自分は独りなんだと自覚する。そんな人生に、これからも縛られ続けながら生きなければならないと思うと息苦しくて。だから、もういっそのこと――――私はあの化け物のようになってしまうのか?
みちみちみちっという音を立てて別の生物へ無理矢理変えられる。私の右手が蜘蛛の足へ変わっていく。これは、本当にそうではないか。天唯を殺した殺人犯と同じもの? 私が天唯を殺す化け物になるのか!? やめろ! 頼むからやめてくれ! 私はまだ人間、まだ、私は……。
「……っ!」
右手に鋭い痛みが駆け上がっていく。左手で蜘蛛の足へと変わった右手を、残りの指を折って正気を繋ぐ。人差し指、中指がとてつも無く痛い。身体中が熱を帯び、燃えてしまいそうなくらいに熱い。歯を食いしばり奥歯を鳴らす。その度に蜘蛛の足が霧散して千切れそうになる。
突然、右目の視界が赤く染まる。まるで眼球の奥に赤い血を流し込まれているかのようだ。
地面に落ちて汚れてしまった古書に目が行く。謎の古書、不思議な男から一宿一飯の恩義として貰った古書――なら、その結末を書き換えれば良いだけの話じゃないか。
血で染まった指を噛んで更に血を出させる。口内で暴れる蛆虫は大百足に比べたら優しいものだ。これで良かったんだ。だって、私は天唯を守る為に生まれて今までずっと傍にいたのだから。きっと神様が最後の願いを聞いてくれたに違いない。彼女の死を私自身がこの手で変えればいい。血の付いた古書を手に取り、表紙に目を通す。そこに書いてある文字は確かに天唯が拷問されている時の日付が書かれている。これが運命だというのならば、これを書き換えれば天唯は助かる。そんな希望が見えた瞬間だった。
本が微かに輝き始める。その本のタイトルはまつろわぬ民が使用する言語。古書は風変わりな装飾が溶けて形を作り直す、羽が折れ曲がった不思議な鳥へと変わり光の粒子となって消失してしまう。勝手に捲られていくページ、ある一節に辿り着くと弥咲の脳へ何かが突き刺さる。その瞬間、全身を強烈な倦怠感が襲う。
ああ、成程。そういうことか。私を依代にしたいのか。
天唯の命が狙われたと言うのか。
私なんかじゃなくて、もっと他の人を使えばいいものを。
だが、その前に天唯を助けなければ。
私は静かに呼吸をする。そしてゆっくりと瞼を閉じる。
■
嫌に香る金木犀の花弁に埋もれている。
空から黄色の光芒を纏って落ちてくるなんて、なんて素敵な光景なのだろう。ふと、何かが私の身体に触れる。それは人の手だと解ると同時に聞き覚えのある声音が耳を掠める。その声の主は何度も私の名前を呼んでいた。どうして名前を知っているのだろうか。記憶が混濁していてよく思い出せない。だけど、何処か懐かしい声だ。その声は私の身体を優しく抱き締めてくれる。それが嬉しくて、何故か泣きたくなってしまう。
私は金木犀の香りがあまり好きではない。両親が事故に合ったときも金木犀が咲き誇っていて、上がる炎に混じって忌々しく染み付いている。頭の片隅に穴が開いている感覚を味わう。
無造作に地面へ転がっている古書を面倒臭そうに手繰り寄せると、表紙に書かれた題名を見て、弥咲は眉間に深いシワを刻む。その表情は不快感を露にしている。読む人を考えていない謎の単語、抽象的な植物の挿絵、そのどれもが気味の悪さがあり頭痛を促すのだ。妙に受け入れ難いその古書は愛着にも似た相反する嫌悪の対象でもあった。
「私は、一体ここで何を…………帰ろう」
弥咲は見たことのない裏通りから出ようとして、自分の店へ、歩を進めることにした。そうすればいつも通り、日常が待っている。
何故だろう。
そんな考えが頭を過るが、直ぐに霧散してしまう。誰かが頭の片隅で操っているような、風邪を引いたときのような妙にふわふわと、した感じなのだ。しかし、こんな場所で古物商の自分自身は何をしていたのだろうか? 実家には誰もいないし。というか勘当されているし……友人は誰一人としていないし。
窓硝子に写る人物は溶けていた。ああ、なんだこれ。人体模型にしては良く出来すぎている。こんなの見ていられな――突然、弥咲の側頭部に軋む衝撃が加わった。
頭蓋に与えられた痛みと振動は一瞬で弥咲の意識を外しにかかった。体勢を立て直そうと煉瓦作りの道に、膝から崩れ落ちる寸前に何者かが弥咲の片腕を掴む。腕を引かれるままに立ち上がらされると、頭上から舌打ちが聞こえる。
時計の秒針のように一定のリズムで、舌打ち。また舌打ちをする。
弥咲は痛む後頭部を押さえながら、何が起きたのか把握しようと視線を動かすと目の前に軍服を着た男がいた。軍帽で目元には影が掛かり表情は読み取れないが歳は二十代後半の男性。無精髭で少し痩せた頬が特徴的だ。彼は弥咲が言葉を言う前に、襟首を掴んで歩き出す。どこからそんな力が湧くのだろう。引き摺られるように引っ張られていくと弥咲は抵抗しようとしても、力が入らず、足が地面に引っかかり上手く歩けない。
だぁん! 家屋の壁に背中をぶつけると、男の顔が目前まで迫っていた。口を開くのも億劫なのか、何も言わずに弥咲を見下ろしてくる。舌打ちをしながら、腰のベルトに差した軍刀の柄を撫でていた。
「脅しですか? 先程のアレ……憲兵である貴方ならお分かりでしょう?」
男は答えない。ただ不機嫌そうに舌を鳴らすだけだ。弥咲は先程の衝撃で頭痛が消えていた。今この状況は命の危機ではあるが、それよりも何故“妹の天唯”や“桐との約束”を忘れていたのか。その事の方が重要だった。あの硝子細工の世界は一体なんだったのだろうか。しかし太陽の位置を見る限り、遠くから聞こえる新聞屋の売り文句を聞く限り、間に合っていると思う。
――くちゃ。
耳に寒気が走っていく。この音は聞いたことがある。
世界が上下になった光景が目の前で起こる。男の腹から子供の腕が骨を折りながら裂き割って現れる。溢れ出る鮮血や内蔵は重力に沿って落ちていき、肉塊が煉瓦造りの道路にべしゃりと嫌な音をたてて落ちた。
弥咲は男の腕を叩き落とした弾みで、逃げ出す。背後を振り返ると男が子供の手で、内臓を引き千切られながらも、懐に忍ばせていた拳銃を震える残された手で取り出していた。
――銃声。
脳髄に響く音が聞こえた。銃弾が左肩に突き刺さったのだ。貫通している。しかし、不思議と熱さや痛みは感じない。
「な、なんなんだアイツ! アイツをどうにか捕まえないとっ!」
痛みを感じない事に恐怖を覚えた。肩に穴が空いたというのにどうしてこんなにも冷静な思考が出来るのだろう。弥咲は肩から血を流しながら走り出す。遠くの新聞屋の声へ走っても走っても近づくことはない。何故かは分からないが、あの場所から離れなければならない。その一心で走り続ける。
目の前をよく見ると左通路で金木犀の樹木が一本倒れている。その樹木の前に金木犀の黄色に恥じない極彩色の塊がいた。現実離れした色、その美しさに見惚れてしまいそうになるが、その横にいる異形の存在が現実に引き戻す。人の形をした巨大な怪物は全身に棘が生えており、鋭い爪は血で染まって光る。その怪物は牙を見せ付けながら舌舐めずりをしていた。さっきからなんなんだ。
足を止めた瞬間に、背後から水膨れの子供の腕が抱きつくように伸びてきた。やばい。これは本当にやばい。避けようにも足に腸が。どうして、何が起きたのか理解できないまま――
「お前のその瞳は凄く汚い色だな?」
乾いた夏の声と共に耳元で水風船が破裂する音が鼓膜へ刺さる。汗と血の匂いに混じって微かな尿の匂い。視界の端で捉えられた男は上半身が裂かれている。水溜まりに飛び込んだ時のように、人体が地面に落ちて、ぐちゃっと中身が飛び出した。その中に入っていたのは、艶やかとは言えない変色したもの。デタラメに作られた脳味噌、眼球、舌、胃袋、太い植物の蔦、子供の腕が転がっている。
間髪言わずに棘の生えた化け物も破裂し、内容物を上塗りしていくが清涼。一転。極彩色の布が弥咲の目の前に出される。
「汚い瞳をした人、これ、肩つかいなよ」
「…………え?」
「……発音違う? 私この国の人じゃないから聞き苦しいかも」
その言葉を聞き、ようやく気付いた。彼女が日本人ではないことに。そして彼女の着ている服が異国のものであるということに。
地面に落ちている極彩色の塊を広いに行く唐紅の少女を弥咲はじっと観察をする。
筋肉質な肢体は少女特有の華奢な線で描かれているが、粗末で簡素に作られた麻布一枚で胸や恥部を隠している。腰に二つ括り付けられた紐で止められているだけの代物。手足に無骨な鎖が付けられた枷がついている――彼女は奴隷少女だ。明らかに違法な人身売買行為であり、よく見れば彼女の首にも枷が付けられうっ血も見られる。そんな彼女が何故、この帝都の街中にいるのか? の目の前にいるのは紛れもなく、現実である。
顔は先程の出来事で目に焼き付いてしまった。少女は人目を嫌でも引いてしまう容姿をしている――緑から黄色の緩やかなグラーデーションの瞳。なんて綺麗な瞳だったんだろう。まるで春宵のような花や芽の息吹が月の美しさで色づくようであった。人を惑わす蜃気楼を具現化したような子だ。
それに……髪の色もそう、癖っ毛でザクザクな唐紅色の長髪だが、風で舞う度にその空間に炎の揺らめきが散っている。異国の模様が描かれた黄色の極彩色の着物とよく似合っているが
どこかしらチグハグな印象を受ける。
「その汚い色の瞳で見ないで」
「…………あの、助けてくれてありがとうございます」
頭をさっと地面へ下げる弥咲。少女は長い髪を手で払いながら呆れたように溜め息をつく。少女の足は血に染まっており地面には小さな足跡が、ついていき何か迷っているように見える。倒れた金木犀の樹木の前にあった極彩色の塊を大事そうに拾い上げると、少女は弥咲の元へと駆け寄った。銃弾で打たれた肩を少し触ると、眉間にシワを寄せた少女の顔が弥咲の瞳に映る。見るなと言われるが、つい見てしまう。というか――。
「私の瞳って汚いですか?」
肩にぎゅっと布が縛られる。まるでこれが回答だと言わんばかりに。
「汚い。とても悪い嫌な瞳をしている。生まれつき何か持ってる力だけど、誰かに歪まされている感じ」
こちらを見つめるとすぐに顔を逸らして口を尖らせる。その仕草が妹の天唯とそっくりで弥咲は涙を零す。目の前の男が急に泣いてしまい、少女はぎょっと目を見開く。口をあわあわとさせ落ち着きが無くなり始めた。天笠弥咲は彼女に向かって震える声で問いかける。この子なら助けてくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら。
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でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
竜華族の愛に囚われて
澤谷弥(さわたに わたる)
キャラ文芸
近代化が進む中、竜華族が竜結界を築き魑魅魍魎から守る世界。
五芒星の中心に朝廷を据え、木竜、火竜、土竜、金竜、水竜という五柱が結界を維持し続けている。
これらの竜を世話する役割を担う一族が竜華族である。
赤沼泉美は、異能を持たない竜華族であるため、赤沼伯爵家で虐げられ、女中以下の生活を送っていた。
新月の夜、異能の暴走で苦しむ姉、百合を助けるため、母、雅代の命令で月光草を求めて竜尾山に入ったが、魔魅に襲われ絶体絶命。しかし、火宮公爵子息の臣哉に救われた。
そんな泉美が気になる臣哉は、彼女の出自について調べ始めるのだが――。
※某サイトの短編コン用に書いたやつ。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
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