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第参章
九、壊れた関係
しおりを挟む上総と左京は壮介のマンションに到着した。
インターホンを鳴らしても応答はない。
『まだ帰って来てないのかな』
『立花壮介は車で来ております、我々より後に戻ることは無いでしょう』
左京は苛立ちを隠しきれていない。
『上総様はここに。私は周辺を見て参ります』
黒い翼を広げ、空を翔んで行った。
『……先生……』
――どうか、無事で……。
ショックだ。
信じられない。
錬太郎の言葉が本当ならば、彼はずっと上総だけでなく幼馴染みを何十年と騙して一緒にいたことになる。
上総は両手を握り、混乱する頭を落ち着かせようと必死だった。
何かの間違えであってほしい。
ここに、このマンションに何喰わぬ顔で戻って来てほしい。
『先生……』
――だが上総の願いも虚しく、二人がマンションに戻って来ることはなかった。
『……』
気分が落ち着いている、と目覚める瞬間思った。
体調も別段悪くはない。
何故だろう、と思いながら目を開けると、見知らぬ和室にいた。
甘い香が焚かれ、それが健司をリラックスさせてくれているのだろう。
『あれ?』
結局壮介は恭仁京家に戻ったのか、と首を傾げてノソリと立ち上がると、自分が真っ白な着物の寝間着を着ていることに気付く。
部屋を見回すも、誰もいない十畳は軽く越えている広い和室に一人だけ。
『こんな広い部屋……恭仁京の所に戻ったのか?』
上総達の説得に壮介は応じたに違いない。
健司は内心安堵して障子をそっと開けた。
寝ている間に結界を張り直したかと思ったが、張っていないようだ。
足取りもしっかりしている。
頭の中も気分もびっくりするくらいクリアだ。
全快してるも同然の健司のすることは、もはや家の探検だけ、と廊下を出てすぐに違和感を感じた。
恭仁京の家は廊下に出ると丁度目の前に美しい日本庭園が広がっているが、今ある筈の庭園は無く灰色の壁だけがあった。
『?』
廊下は左右に長く延び、等間隔に燭台が暗い廊下を蝋燭で灯している。
廊下の奥が暗過ぎて見えない。
急に不安に陥った。
廊下に素足を踏み出すと、ピシャリと冷たい。
『寒い……』
薄い生地の寝間着一枚では、肌寒い。腕を擦りながら素足で廊下を進んだ。
『オヤオヤオヤ、勝手にお部屋を出られては困りますなぁ』
背後で声がして、健司は短い悲鳴を上げた。
『驚かせてしまいましたかな』
好好爺という言葉がよく似合う、杖を突いた老人がいた。その傍らに壮介もいる。
『壮介!』
『健、具合は平気か?』
『うん、今は何ともない』
良かった、と壮介は久し振りの笑顔を見せる。
『お前、丸一日寝てたんだぞ』
『そうなのか?』
『でも、起き上がれるようで安心したよ』
くしゃり、と寝癖だらけの健司の頭を撫でる。
『廊下で立ち話ではお身体が冷えてしまいますぞ。お部屋に戻りましょう』
『ここは、私が信頼している方のお屋敷なんだ』
部屋に戻ると壮介は健司に羽織を着せて云った。
『信頼?』
ホッホッホッと笑う老人を見ると、戸惑う健司の手に皺だらけの手を重ねてきた。
『貴方様には、これからとても大切なお仕事をしてもらわなければなりません』
『大切なお仕事?』
『それでは頼みましたぞ、立花殿』
『ああ、必ず』
老人が立ち去ると、突然壮介は健司を抱き締めた。
『健、全てはお前のためだ。絶体お前を助けてやるからな』
『壮介?』
目をパチクリさせて、健司は壮介の異変に困惑している。
『――これから呪を外に出す』
『は?』
『全て出せば、お前が苦しむことはなくなる。恭仁京家や大老會に追い掛け回されることも無くなる』
『な、何を云っているんだ。そんなことすれば、俺も恭仁京もただでは済まないだろ?』
『大丈夫だ。あの御方に任せれば全てが上手くいく。お前は呪から解放され、呪をあの御方が飼い慣らしてくれる』
『急にどうしたんだ、あの御方って誰だ?』
健司の肩に顔を埋めて壮介は深呼吸をする。
『だから、健。少し……少しだけ、辛いのを我慢してくれ』
『え?』
背後で蠢く複数の人間の気配がする。
『!?』
しかし、壮介に抱き締められたままで身動きが取れない。
『そ、壮介、誰かがいる!』
『大丈夫だ、心配いらない』
『壮――』
真言が聞こえ出した。
『オン・ソハハンバ・シュダサラバタラマ・ソワハンバ・シュドカン・オン・タタギャト・ドハンバヤ・ソワカ』
ビリビリと身体を電気が走る。
『ひぃっ!?』
どんどん強くなる電流に身体全体を大きく痙攣させ、悲鳴を上げた。
『あああっ!』
『大丈夫、大丈夫だ』
『嫌だぁぁぁ!! そ、壮……けぇぇぇっ!!』
『よしよし、私はここにいる。安心しろ』
『オン・ソハハンバ・シュダサラバタラマ・ソワハンバ・シュドカン・オン・タタギャト・ドハンバヤ・ソワカ』
『ああああああああっ!!』
『何も怖くない。お前のためなんだからな?』
『四縦五横禹為除道蚩尤、避兵令吾周遍天下帰還、故嚮吾者死留吾者亡、急急如律令』
『……――かはっ……』
『まだ出ないか。健、頑張れ』
『ううう……』
髪の毛を撫でてやる。
『立花様』
健司の背後の一人が声を掛けた。
苦しみしがみつく健司の背を、壮介はいとおしげに擦る。
『もっと強い術を掛けろ』
『しかし……』
健司は息も絶え絶えで目の焦点も合っていない。
『構わん』
『壮……介……やめ、ろ……』
汗で濡れた髪の毛を壮介は鷲掴み、低く呻く健司の白い顔を見た。
瞳に光は無い。
息を荒げ、壮介にされるがままだ。
『何を拒んでいるんだ、健?』
『そ……すけ……』
『何だ?』
『お、前……ま……ちが……』
壮介は笑った。
『お前が姶良であることは、とうの昔から知っていた』
『な……』
幼稚園で壮介は健司と出逢った。
それからずっと一緒にいる。
『私はな、両親にお前のことをずっと聞かされ育ったんだ』
幼馴染みから親友になった。
ケンカも沢山した。
沢山笑って沢山悪戯もして、怒られる時も一緒だった。
『ど、して……』
――壮介……。
親友、なのだ。
――壮介……。
『六徳会の創始者は私の父だ』
『!!』
『それ澄める天清、濁るは地清、陰陽交わって、万物と称す。悉く皆神仏性あり。故に人倫を選び、神仏となる。ここには八葉の台に台座し、二八宿星を三界とす。行者謹んで敬いて申す。火も焼くこと能わず。水も唯消すこと能わず。ノウマク・サンマンダ・バサラダン・センダンマカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カン・マン』
真言の低い声が健司を支配する。
――嫌だ、壮介、苦しい、壮介、痛い、壮介、痛い、壮介、痛い、壮介、痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ……!!
『ああああああああああああああああああああああああああああああっ!!』
再び強烈な電流が流れ、目玉が飛び出してしまいそうになる程に目をひんむく。
腹の底のどす黒い塊が蠢き、身体中を這いずり回り内臓を圧迫するせいで嘔吐した。
――気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……。
『がはっ! ごほっ! げほっ!!』
背中から黒い巨大な塊が、食い破るように産まれる。
『がああぁぁ!!』
呪が姿を見せると一気に部屋に瘴気が充満して、一人二人と真言を詠唱していた男達が倒れていく。
『健、ほら大きな呪だ。こんなおぞましいのがお前の中にいたんだな』
『ああああ……』
うっとりと、健司から産まれる呪を壮介は見詰める。
――ああ……。
長い尾を引き摺り、人間の魂のような姿を見せた。
――折角恭仁京が頑張ったのに……。
黒い呪は意思があるのだろうか、虚ろな瞳の健司の前に移動すると暫く動かず見てくる。
『見えるか? なんて禍々しく美しい呪なんだろうな』
――駄目だ、俺の中に戻るんだ……。
壮介は呪がちゃんと見えるように健司を抱き直した。
――戻って来い……戻って来るんだ……。
宙に向かって手を伸ばし黒い塊を掴もうとするが、腕の力は瞬く間に失い、だらりと垂れ下がってしまう。
首も頭の重さに耐えられず、ガクリと項垂れる。
意識はある。が、声を発する力も身体を動かす力も外に出た呪が持って行ってしまった。
『無駄だ。呼吸するのも辛いだろ?』
壮介の手が健司の口元と鼻を押さえる。
『!?』
『六徳会にはな、呪が出てしまった如月健司には用済みだ、力を取り戻す前に息の根を止めろ、そう命令されている』
手が震えている。
『健……お前のためなんだ……』
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