陰陽師・恭仁京上総の憂鬱

藤極京子

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第五章

 四、消えたもの

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 ――呼んでも呼んでも、こちらを振り向いてくれない。
 手を伸ばしても走っても、その身体に触れることも追い付くこともない。
 『――っ!!』
 ――は、僕を置いて行こうとしている。
 『待って! 行かないでっ!』
 ――あの人は……。
 『行かないでっ!!』
 嫌な夢だ。
 目を覚ませば、身体中汗でベトベトして気持ち悪い。息も上がっているのに、夢の内容は全く覚えていなかった。
 ただただ本当に嫌な夢だったとしか。
 『上総、大丈夫?』
 傍らで母の綾乃が心配気な表情で覗き込んできた。
 『――お母さん……』
 びっくりするくらい声が干からびている。
 喉もカラカラだ。
 綾乃は察して水をコップに入れて渡してくれて、一気に飲もうとして噎せてしまう。
 『もう、そんなに焦らなくても水は逃げないわよ』
 背中を擦ってくれる手が思いの外暖かくて、自然と涙が溢れた。
 『大変だったわね……もう大丈夫よ』
 綺麗な着物の袖で涙を拭ってくれた。
 あの後上総は気を失い、高熱で数日寝込んでしまっていた。
 錬太郎達はそんな状態の上総を滋賀の恭仁京家に運び看病をしてくれていたのだが、呪の強力な瘴気に充てられ続けた身体は悲鳴を上げて上総同様皆寝込んでしまっている。
 『上総、おかえりなさい』
 綾乃が目覚めた息子を抱き締めて、一番云いたかった言葉。
 『――ただいま』
 掠れた声で喋ると、何だか笑えた。
 と云うより、やっと母の元に帰って来れて安堵しているのだと、気が緩んだのかもしれない。
 二人が小さく笑い合っていると、大老會の會長がドアをノックをして入ってきた。
 『美舟お姉ちゃん』
 黒い艶のある美しい長髪を靡かせ颯爽と上総の前まで来ると、額に触れた。
 『ふぇ?』
 『熱は下がったようだな』
 相変わらず厳しい口調ではあるが、心配して来てくれたのだろう。
 なんだか嬉しくなって上総が笑うと、眉間に皺を寄せて嫌な顔をした。
 『何を暢気に笑っている? 熱が下がったのならお前はやらなければならないことが山とあるのだぞ』
 『は、はい。すみません』
 叱られてしまい悄気ていると、綾乃が助け船を出してくれた。
 『まだ本調子ではないのよ。そんな状態でお務めを始めたら、人様に迷惑が掛かるわ』
 普段周りに厳しい美舟は、どうした訳か綾乃には反論されたら勝てない。今回もそうだ。一瞬たじろいて息を吐くと、分かった、と小さく答えた。
 『だが、仕事をしない変わりに、事の顛末を教えなければならないな。あれだけ大事おおごとになったのだ。全てを知る義務がある』
 『あ、はい。それはお願いします。先生はどうなったんですか?』
 気を失う寸前に見た健司は、上総の怪我を一身に受け入れ血にまみれていた。
 とても軽い怪我とは云えない状態だった。
 『先生が一番酷い状態だったから……心配なんです。僕の怪我を引き受けてくれたから』
 『――先生?』
 綾乃と美舟が同時に云った。
 二人共眉をひそめ、険しい顔をしている。
 『?』
 『先程から何を云っている。高熱で記憶が混乱しているのか? 先生とは誰だ?』
 『え?』
 『美舟ちゃん、だから云ったでしょ。本調子ではないのよ。もう暫く待って頂戴』
 憐れむような目で上総を見ている。
 ――記憶の混乱? 何を云ってるんだ?
 『――ちょ、ちょっと待って。先生だよ。如月先生! 僕のクラスの副担任で――』
 『上総、いいから横になりなさい。クラスに? 夢を見たのね』
 『え?』
 困惑する上総を綾乃は無理矢理横にさせ、布団を被せる。
 『夢と現の境が分からなくなったのか?』
 『違うよ、先生は恭仁京姶良で! 呪を封印してたじゃないか!』
 『姶良、だと?』
 叫んだ手前、訳が分からなくなってくる。
 『上総、恭仁京姶良は。お前の云う通り呪を封印して、な』
 チラリと綾乃を見てから、美舟は云いづらそうに口を開いた。
 『呪の封印に成功したが、気の触れてしまった
 『!!』
 綾乃は口を一文字にして、涙を堪えている。
 『だから、生きている筈がない』
 断言する美舟が嘘を吐いているようには見えない。証拠に母の綾乃も悲し気に上総を見ていた。
 『な、んで? だって先生は……先生のクセに子供っぽくて、優しくて、僕を心配してくれて……』
 頭がグラグラと揺れる。
 目の前が霞み、二人の姿がボヤけた。
 『じ、じゃぁ……僕は……誰と、話をしていたの……?』
 綾乃も美舟も健司と会話をしているではないか。
 この恭仁京家にも来て大変な目に遭って、健司と壮介の住むマンションにも遊びに行った。
 あれは何だったと云うのか。
 上総が抱いた他人に対する初めての感情は幻だったと云うのか。人を信じる気持ちとか、信頼することとか、全て誰に向けた感情だったのか。
 『上総』
 ――ああ、そうだ……。
 父親と門を挟んで最後の会話をした時、感じた違和感。
 ――お父さんは
 『そう、か……』
 如月健司は上総が三歳の時に死んだ。
 昔の記憶を辿る。
 あの強烈な一日は、上総の中で暫く封印され無かったことにされていた。しかし、それでも切っ掛けを以て思い出された。
 ――そう、切っ掛け。
 切っ掛けは如月健司に出会ったこと。
 微睡む意識の中で、上総はそれでも如月健司の存在を信じている。
 ――呪の影響に違いない。
 呪を封印した健司は二度も記憶を失い、大老會も十年前加担しているのだ。
 それと同様のことが大規模に起きているとしても不思議ではない。しかし人一人の存在をそもそも無かったことにするのは、些か無理があるようにも思えるのだか、実際如月健司はいないものとされ誰も何の疑念も抱かず変わりない日常が流れ
ている。
 『――……』
 考えれば考える程分からない。
 何故存在を消されたのが如月健司なのか。
 何故上総だけが覚えているのか。
 ――ああ、分からない、分からない……。
 自分だけがその存在を知っているのだと思うと不安になってくる。
 本当に僕なのかと。
 その逆なのではないか。
 本当に如月健司は既に存在していなくて、上総だけが偽の記憶を植え付けられてしまっているのではないか。
 『……』
 堂々巡りを始めてしまった。
 これ以上は意味をなさない。
 身体を動かせるようになったら、皆に聞いて廻らなければ。
 ――先生……。
 緊張したままの身体をベットに沈め、夢の世界に思考を飛ばした。
 

    
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