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第八章

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「……エナメルはね、その技法によって非常に異なる効果をもたらすんだよ。だからこそ、素晴らしい作品が生み出されているとも言えるね」

 薄手の青いセーターと黒のボトムスに身を包むルードンが、うねりを見せる金髪を揺らして、手元の本に視線を落とす。そこには、柔らかいタッチで描かれた図と、技法の名が書かれていた。

 街中にあるルードン宅。その小さな工房。窓は全面がガラス張りで、周囲のこじんまりとした庭が良く見える。工房内の丸テーブルでは、イルティアが講義を受けていた。その彼女が顔を上げる。

 拍子に、紫の髪がスルリと肩口を落ちていった。

「ステンドグラスのようなものもあるのね」
「プリカジュールという技法だね。裏面に金属の下地がないから、そう見えるんだよ。その技法で装身具を作るのは……」

 話を遮るように、背後からノック音が響く。二人が視線を向けると、開け放たれたままの扉に寄り掛かるリュクスがいた。

 ルードンが柔らかく笑う。

「やあ、フォルミス。仕事の依頼かな?」
「いや、今日はティアに話があるんだ」

 目を向けられて、イルティアがルードンを見上げた。

「先生が教えたのね? 黙っててと言ったはずだけど」
「ごめんね。つい、口が滑って」

 苦笑する彼に、イルティアも納得いかない表情を浮かべたものの、すぐに諦めたように笑った。

「なんて、当然よね。先生はリューに紹介してもらったんだもの」

 傍に来るリュクスが、ルードンへと声をかける。

「先生なんて呼ばれてるのか」

 そこをすかさず、立ち上がったイルティアが答えた。

「ええ。何かを教えてくれる師は、皆先生よ」
「俺は? 俺もいろいろと教えた気がするが」
「リューは、リューでしょ?」

 しれっと返される。そのやり取りを見ていたルードンが、クスクス笑った。二人がその声に顔を動かす。すると彼は、誤魔化すように咳払いをした。そしてすぐ、わざとらしい声を上げる。

「ああ! そういえば、このあと別の生徒が来る予定なんだった。その準備をしたいから、ウェンディーズ嬢、続きはまた今度にしようね」
「えっ?! でも時間はまだ……」

 慌てて柱時計を見るが、ルードンが勝手に彼女の荷物を片付け始めてしまう。そう間を空けず、背を押されるようにして、リュクスと共に工房から追い出された。

 イルティアは扉を前にして、しばし呆然とする。少しして、同じく追い出されたリュクスに不満そうな目線を送った。

「まだ、終わりの時間には早かったのよ?」

 けれど、彼は気にすることなく、至って軽く返した。

「すまなかったな」

 少しも堪えない様子に、彼女も不満げなまま息を吐いた。

「もう……」

 そんなイルティアを見ていたリュクスが、間を置いて声をかける。

「余ったなら、その時間を俺にくれないか? 話したいことがあるんだ」
「……」

 その申し出に、わずかな迷いを見せる。けれど、少しして、彼女は柔らかな笑みを浮かべた。

「そうね、暇になったのはリューのせいだもの。その責任は、とってもらわなきゃ」
「そうだな。とりあえずカフェにでも行くか」
「ここからなら、パティスリー・ソレイユが近いわ。カフェも併設されてるの。タルトが美味しいのよ」

 綻ぶ笑みに、リュクスも眩しげに瞳を細める。優しく笑う彼が、そっと手を差し出した。

「そうか。なら、道案内は頼むよ」

 イルティアは、その手に一瞬躊躇って、でもすぐに重ねた。

「ええ」

 そうして、二人はその場を後にした。

*  *  *

 大通りを歩いていると、見えてくる大きな店。屋根は濃い緑で、壁は土壁。そのテコラッタピンクが暖かな雰囲気を出していた。

 中に入ると、存在感のある柱が迎える。焦げ茶の古木。自然の形、そのままが残されている。家屋をイメージしているのか、備えられている家具も素朴で落ち着ける空間となっていた。

 二人は、奥まった席へと案内される。間際、通りに面したオープンテラスへ、視線を流す。そこには、チラホラ人の姿があった。

 席について、リュクスが珈琲を、イルティアがタルトセットを注文する。ほどなくして運ばれてきた柑橘タルトは、みずみずしい果肉がふんだんに使われ、芳醇な香りを漂わせていた。

 イルティアが紅茶に口をつけ、早速とフォークを握る。切り取ったタルトの一欠片を口に運んで、顔を綻ばせた。

「ん、美味しい」

 不意に、視線を感じてイルティアが顔を上げる。リュクスと目が合うと、彼の手元に顔を向けた。

「リューも何か頼めば良かったのに。ここのは本当に美味しいの。甘いものは苦手なの?」
「いや、そういうわけじゃないんだが」

 返答を待たず、イルティアがケーキを小さく切り、フォークに刺して、彼の口元に差し出した。

「一口食べてみて? お勧めは他にもあるけど、このタルトが一番……」

 言いかけて、動きを止める。彼女は、徐々に頬を染めて手を引きかけた。

「ごめんなさい、つい……!」

 けれど直後、リュクスに手首を掴まれ、引き留められる。彼はそのまま、そのフォークを自分の口に持っていく。

 パクリと口に入れて、手を離した。

「確かに、君が勧めるだけのことはあるな」

 柔らかい笑みに、イルティアは瞳を瞬き、染まった頬をそのままに、視線を逸らした。

「……私」
「うん?」

 彼女は、わずかに迷って、小さく首を振る。

「ううん、なんでもないの。それより話したいことって、何かしら? 手紙ではなく、直接会って話さなければいけなかったのでしょう?」

 その問いに、リュクスはカップへ手を伸ばす。口をつけてから、間を空けて問い返した。

「その前に、聞きたいことがある」
「? 何かしら」
「国を出る、というのは本当か?」

 訪れる静寂。店内の騒がしさや、外の喧騒が一際、大きく聞こえる。その中でイルティアは、小さく呟いた。

「ええ、そうよ」
「……」

 彼女は、リュクスを一瞥して続ける。

「隠すつもりはなかったのだけれど……」
「だが、知らせるつもりもなかったと」
「……」

 彼女は、一拍置いて「そうね」と、肯定を示した。リュクスは、再度問い掛ける。

「発つのは、すぐなのか?」
「ええ。ある程度の準備が整ったら」
「行き先は?」
「南の方。父の紹介で、画商の仕事を学ばせてもらうの。まずはそこで、経験を積みたいと思ってる」

 その言葉に、リュクスは間を置いて、再び訊いた。

「だが、君がやりたいのは売る側ではなく、作る側じゃないのか?」
「そうね。でも、作られた物がどうやって人の手に渡るのか見てみたいの。それは必ず……私の力になるはずだから」

 密かな決意が垣間見えて、彼は引き留めようとしていた言葉を呑み込んだ。代わりに、フッと笑みを浮かべる。

「君は、変わらないな」
「え?」
「あの時からずっと……変わらない」

 言いながら、カップの中を見つめる。彼は、思い出すようにそっと目を伏せた。そんな彼に、イルティアが静かに問い掛ける。

「いつのことを言ってるのかしら?」
「俺の邸に来るようになった頃だよ。あの頃から、どこか心の強さは感じてた」

 そう言われて、彼女は悲しげに微笑んだ。

「それなら逆よ。あれから私は、ずいぶん変わったもの。とても我が儘になった。あの頃の方がきっと、今よりずっと……正しく生きていたのかもしれない」

 自嘲気味に言うイルティアに、リュクスは瞳を細めて、やがてフッと笑みを作り同意する。

「そうだな」

 彼は、カップの持ち手に指を絡めて続けた。

「確かにあの頃の君は、当主の妻の模範だった。付き従い、引き立てる。それが正しいと言うなら、そうなるだろうな。だがそれは、本人の望みにもよるんじゃないか?」

 伺うようにイルティアへ視線を向ける。彼女は「そうかしら」と、わずかに顔を逸らした。

 少しして、再びリュクスが口を開く。

「君に会う前、噂に聞いていたんだ。シュヴァーユ家の奥方は人形のように美しいと。直接会って、なるほど、と思ったよ。人形のように変わらない表情、どこか血の通わない雰囲気……」

 彼が、思い出すように瞳を閉じた。

「俺にはそれが、好都合だったけどな」

 開けた瞳に、イルティアが映り込む。彼女は微かに首を傾げた。

「近づくのに、ということかしら」

 リュクスも、小さく頷く。

「ああ。そういう相手は、一度心を掴めば情報を流しやすくなる。自尊心が高ければ、流したことすら隠すだろう。そこらにいる令嬢より、ずっと懐柔しやすい。もし君が、その表面的な正しさのままでいたなら……俺は今頃、新たな仕事に取り掛かっていただろうな」
「あら。それじゃあ、私が仕事を取り上げてしまったみたいじゃない」
「大損失だな」

 その言い草が面白くて、イルティアがクスクスと笑う。リュクスも柔らかく笑って、自身のカップへ視線を落とした。

 ゆるやかに揺れる、琥珀の液体。そこには、ほのかに天井から下がるランプの光が入り込んでいた。

 その光に想いを馳せる。始めの頃の彼女の姿、その表情、それらを思い出しながら、リュクスは続けた。

「昔、聞いたことがあったんだ。表情は心が作る、と」
「心……?」
「そうだ。だから君に初めて会ったとき、すぐに気が付いた。心が動いていないのだ、と。それを動かすことが出来ればと考えたが、今思えば、浅はかなことだったな」
「どうして?」

 その疑問に、リュクスはふわりと微笑み、手を伸ばす。そして、優しく彼女の手へと重ねた。

「俺が動かす必要なんて……なかったんだ。君は君自身の力で心を動かした。そうして更に増した輝きは、眩しいほどに美しかったよ」

 頬をうっすら染めて、イルティアが視線を逸らす。

「自分では分からないけど……でも、そうだとしたら、その切っ掛けは貴方だった」
「そう言ってもらえるなら、嬉しいよ」

 静かに手を離し、背凭れに軽く寄りかかる。彼はカップを持ち上げ、口をつけた。喉を潤し息を吐くと、改まった声を出す。

「ティア。君に、最後の仕事を頼みたい」
「最後の仕事?」
「ああ。君が力を貸してくれた品を、納品したいんだ。そこに君も立ち会ってくれないか?」

 新たな技術を、と求められた依頼。彼の助言者など、傍にいるための口実でしかなかった。

 けれど、こうして終わりを迎えられるなら、あの日々は本物になるのかもしれない。イルティアは微笑んで、力強く頷いた。

「ええ、任せて」
「頼もしいな。じゃあ、後日、君の家に迎えに行くよ」
「そう? ウェンディーズ家は分かるかしら?」
「当然だろ。王都の貴族で知らない家はないさ」

 その言葉に、イルティアがフフッと笑う。

「そうね。有名なパシオンストーンのオーナー様だもの」
「物知りだからな」
「自分で言う?」
「他に誰か言ってくれるのか?」

 クスクス笑う彼女が、「それもそうね」と言って、続けた。

「なら、私が言うわ。だって、貴方も言ってくれたじゃない。博識だって」

 戻ってきた言葉に、リュクスが少し考えて、思い出したように返す。

「そういえば、そうだな。いきなり技術の話を始めた時だったな。あの時は本当に驚いたよ」
「けど、私は嬉しかった。私は、私でいていいんだって、認められたような気がして……嬉しかったの」

 頬を染めたイルティアが続ける。

「ねえ、リュー」
「ん?」

 彼女は、真っ直ぐ彼を見つめた。

「今日は来てくれて有難う」

 リュクスはフッと口角を上げて、茶化すように言う。

「来られるのは困るんじゃなかったのか? ディライトに口止めしていたようだからな」
「ふふっ、そうね。初めは、そうだったわ。けど本当は……来てくれて嬉しかったの」

 消え入りそうな声で言って、すぐに外へ視線を向けた。彼女は、そのまま誤魔化すように話を逸らした。

「助言者として一緒に行くなら、私もパシオンストーンの一員よね? 制服は貸してもらえるのかしら?」

 その問いに、リュクスの動きが止まる。瞳を瞬かせて、難しい顔をする。

「そういえば、そうだな。サイズがあるか確認しておくよ」
「宜しくね。ふふっ、楽しみだわ」

 それから二人は、しばしの間、互いの話に花を咲かせる。外には、柔らかい風に花びらが舞い始めていた。
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