離れて後悔するのは、あなたの方

翠月るるな

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後日談

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「また岡本グループが事業撤廃か。ここ最近続いてるな」

 ビルの高層の休憩所で、スマートフォンの記事欄を見ていたスーツの男性が言う。隣で缶コーヒーを飲んでいた男性が応えた。

「ああ。なんか横領とかあったらしいじゃん? しかもその理由が副社長の不倫とか」
「それで会社が傾くってヤバイな。どんだけやらかしたんだって話」
「そうだよな。そういえば、その会社の営業が今日来るらしいよ」
「え、そうなの? 俺、午後は時間あるから見に行こうかな」
「いや、ただの平なんだろうから見る価値ないだろ」

 スマートフォンをしまいながら、男性は「それもそうか」と納得した様子で返す。隣の男性は立ち上がり、飲み終えた缶コーヒーをゴミ箱に捨てて「そろそろ行こう」と声をかけた。

 二人は業務の話をしながら歩いていく。廊下を進んでいくと、その突き当たりで、片方が来客に当たってしまった。

「あ、すみません」
「いえ。こちらこそ失礼しました」

 パタンっと落ちた名刺入れ。そこから飛び出た名刺に『岡本省吾』の名がある。だが役職は何もない。ぶつかった社員が手を伸ばし掛けるのを見て、慌てた省吾は急いで拾い上げ、軽く頭を下げて逃げ出すようにそこから離れた。

 いつもビシッと決まっていた髪も、どこか跳ねていて、昔の面影はさほどない。そんな省吾は顔がカッと熱くなるのを感じた。

「……っ」

 いまだに慣れることが出来ない。副社長にまで上り詰めた自分がまっさらな名刺を持つなど、恥ずかしくて唇を噛み締める。

 凛子と離婚してから、転げるように不運が続く。

 彼女が回収したと言っていた損失の補填。それは、自分が秋名に送っていた金だった。今となってはそれで良かったのだが、発覚した直後は頭にきたりもした。勝手に口座を使いやがって、と。

 しかも何故か、凛子がいなくなったあとは、プロジェクトがいくつか頓挫してしまう。それは単純に、凛子の次の就職先を聞いて同じように退職してしまった社員が多かったこともあるが、凛子のサポート無しに省吾だけでは仕事を処理しきれなかったのも一因だった。

 そのせいで、壮士から役職剥奪を受けて一からやり直すことになる。勘当されなかっただけ感謝しろ、と、ひとまず会社に留まることは許されたのだが。

 一社員として奔走するものの、思ってた以上に上手くいかない。だがそうして自分の足で走り回るようになって、凛子の存在の大きさに気づいた。

 仕事のやりやすさ一つ取っても、全く違う。思えば上司部下の関係が長かったのだから、それも当然なのかもしれない。

 何より家に帰ったときが一番堪えた。誰もいない暗い室内。息子の夜泣きですら今は恋しい。街で同じくらいの歳の子を見掛けると、目で追うようになってしまった。

 自分の愚かさ故に手放したものの大きさを感じて、後悔ばかりを抱えた省吾は、溜め息をつく。胸ポケットからパスケースを取り出すと、中に入れてある凛子と亮の写真を眺めた。

 彼は再びポケットに戻すと歩き出す。事前に指示されていた会議室に向かった。


*  *  *


 白いさざ波が波間に走る。穏やかな水音と、降り注ぐ日の光に照らされ凛子は眩しげに目を細めた。

 そんな母に地面をよたよた歩く亮が手を伸ばす。

「あーう! まんま!」
「あらあら、呼ぶのがずいぶん上手くなったわねえ」

 隣にいた母が、凛子に代わって亮を抱き上げる。亮は尚も手を伸ばし、彼女はその手を握ってニコッと笑みを見せた。

「最近特に言葉が出るようになったよね」
「お父さんがずっと声をかけてるからじゃない?」
「そうかも」

 同意して凛子がフフッと笑う。再び視線を動かし、眺める海は穏やかに揺れていた。

 少し前まで岡本グループから逃げるように、海外で過ごしていた凛子だったが、やはり子育てをする上で両親の近くにいたいと数日前帰ってきた。

 両親はすでに改修した田舎の家に移り住んでおり、凛子もそこで一緒に過ごすことになる。都心からはだいぶ離れているが、リモートワークが出来るため不便はなかった。

 散歩がてら、と買い物に出ていたが、前方の父に気付き母が片手を上げる。父も同じように応えて、駆け寄ってきた。

「これから雨が降りそうだって雨雲追跡アプリで言ってたから、傘を持ってきたよ」

 差し出されて母が怪訝に眉根を寄せる。

「まだこんなに晴れてるじゃない」
「いや、だが降ってからじゃ遅いと思って」

 そう言って見上げる空は雲一つない青空。母のジト目を受けながら、父は頭をかいた。

「ちょっと早かったみたいだね」
「ちょっとじゃないわよね」

 二人のやり取りに凛子は自然と笑ってしまう。クスクス笑う娘に、二人は顔を見合わせたものの、同じように笑ってしまった。

 一息ついて空を見上げる。煌々と照らす太陽にまた目を細めた。

 三人が家に帰ってくると、タイミングよく凛子のスマートフォンが鳴る。亮を二人に任せて、彼女は通話ボタンをスライドさせ耳に当てた。

 聞きなれた声がする。

『お久しぶりです。藤波です』
「お久しぶりです。どうしました?」

 諸々の処理が終わり、弁護士から連絡が入るのはずいぶん久しく思う。凛子が聞くと、彼は言い淀みながら答える。

『お相手の方が……東郷さんが面会を依頼してきました』
「私と、ですか?」
『そうですね。直接謝りたいそうです。もちろん、こちらで断ることは出来ますが一応お聞きしました。どうしますか?』
「……」

 彼女と顔を合わせたのは数ヶ月前のこと。今さら会いたくはない。けれど、なぜ今そんなことを言ったのか興味が出てくる。生活に余裕があったから、そんなことを思えたのかもしれない。

 凛子は間を置いて「会います」と答えた。

『……わかりました。では面会場所はこちらで用意します。準備が出来次第、またご連絡致します』
「お願いします」

 淡々と答えて、「失礼します」と通話を終わらせる。切った直後、大きな溜め息を吐き出した。やはり断るべきだっただろうか、と一瞬頭を掠める。それに気づいた母が、ビニール袋の食材を取り出す手を止めた。

「悪い話だったの?」
「ううん、たいしたことじゃないの。人に会わなきゃいけなくなっちゃっただけ」
「車出そうか?」

 父の言葉に首を振る。凛子は「電車で行くから大丈夫」と答えた。
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