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五十八、収奪
しおりを挟む「――そこまですることはないだろう。アスアド」
気付けば、今にも僕に触れそうなアスアドの手首を、直前でアルががっちりと掴んでいた。
「アル……っ!」
安堵で瞳に涙の膜が張る。
アスアドはアルよりも何倍も細い。
僕よりアスアドの方が背は高いが、体格は似たり寄ったりだ。
アスアドはどこか引き攣った笑みを、アルに向けた。
「アル。私は二人きりにするようお願いしたはずだけれどね?」
アルは眉根を寄せて嘆息する。
「今日は顔合わせだけだと伝えたはずだが。それに、現状、柚の警護を担当しているのは、俺だ。従って、柚に危害が及ぶことを見過ごすことは出来ない」
アスアドはくすくすと、可笑しそうに含み笑う。
「危険って。ただ私の後宮に入って貰うにあたって、男か女か、確かめようとしただけだよ。こればっかりは、私が確かめないと、要らぬ事故が起こり得るからね。ただの検査だよ。それとも、君はそれすらも行わず、男女三百人が暮らす私の後宮に柚を放り込めと?」
「そうは言っていない。ただ、柚とはつい先ほど顔を合わせたばかりだろう。信頼関係の出来ていない相手に、いきなり下半身を見せろと言われる柚の気持ちを考えてもみろ。誰もが、それほど淡泊なわけじゃない」
アスアドは、些か面倒そうに両肩を竦めた。
「中国の後宮では、入内したその日に、素っ裸にして危険物を所持していないか、女性であるか確認が行われていたそうだけれどね」
「時期尚早だと言っているんだ。それに、中国の後宮は大昔の話だろう。現代じゃない。柚はまだ、お前のことも後宮のことも知らぬのだからな」
「ふぅん。アルに私が諫められるとはねぇ……。まったく珍しいこともあるものだ」
「お前が無茶をし過ぎるからだ」
話の内容から、どうやらアルはアスアドと旧知の仲のようにも見える。
「――そんなにこの子が大事かい?」
アスアドはひやりとするような、今までとは打って変わった、氷のような声音を響かせた。
「アスアド……?」
アルはその言葉を聞き逃さなかったらしい。
困惑したような表情で、アスアドを見つめている。
アスアドは、まるで能面のように、笑顔を顔に張り付けた。
「なら、柚に、実際に私の後宮に来て貰えば良いんじゃないかな。特別に招いた客として、後宮とは別の場所に部屋を用意する。元々、柚は私の花嫁だ。今日顔合わせは済んだ。何もおかしいことはない。――そうだろう? アル」
「それは――……っ」
アルが言い淀む。
確かに、アスアドの言うことは、花嫁を迎えるにあたり妥当な提案のように思われた。
固まっている僕に、イスハークが助け船を出す。
「お待ちください。アスアド様。柚様の御意志が何よりも大切でございます。本日は、お顔を拝見されるのみのご予定でございます。今一度、お時間をいただきたく、どうか――」
拱手するイスハークを、アスアドは冷たく見下ろした。
「イスハーク。下がっていなさい。君が幾ら優秀な文官と言えども、主人のやり取りに口を挟むものではないよ」
そうまで言われてしまえば、イスハークの立つ瀬がない。
「申し訳――ございません……」
アスアドは周囲の空気にも一切惑わされずに、微笑した。
「――私は、私の花嫁を連れ帰る。元々そうなるはずだったんだ。異論はないね」
アルは苦虫を噛み潰したような顔つきをして、地面を睨んでいる。
「さあ、柚。行こうか」
アスアドは満面の笑みで、僕へと手を差し出した。
あれほど焦がれたアスアド・アズィーズの迎えだ。
それだというのに、僕は一片の喜びも見出すことが出来なかった。
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