冷たい桜

shio

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第二章

三、決意と訣別

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 すっかり日が暮れてしまった神社には、既に夜の帳が下りていた。

 要所要所に電灯があるわけでもない。暗闇の中で、桜だけが夜光の珠のようで、まるで発光しているようだ。

「一人で、って……」

 時間が息を吹き返す。風が強く吹いた。上島はゾクリと背筋を粟立たせる。
 
 ――春は、こんなに寒かっただろうか。

「危険だ! 阿相さんに今日話を聞いてよく分かったよ。君が如何に死線を彷徨うような世界にいるかということ……。私は、今まで知らなかった……」
 恥じ入るように、神楽は俯いた。

「危険でもやる。もう依頼は受けちまったんだ。やるしかない」
「断ることだって……出来るだろう?」

「出来ない」
「勇朔!」
 神楽は焦れたように、勇朔の腕を掴んだ。神楽は優男に見えて、結構力がある。

「何か方法があるはずだ! …そうだ、阿相玄水さんは、君と反対の属性、ユエなんだろう? あの人に頼んで……」

「無駄だ。玄水が俺の頼みなんか聞くか。あいつは誰の頼みも聞かない。とりわけ、玄天側の人間の頼みなんか、真っ平御免だろう」

「…………」

「そういや、言ってなかったっけな。華山家総本山には、派閥がある。一つは、現当主の阿相玄天側。お前の弟、千春くんも勿論玄天側の人間だ。そして俺もな。そしてもう一つは、阿相玄水側だ。玄天と玄水は、異母兄弟なんだ。同じ年齢としのな。

物凄い確率にして、生まれた日も同じらしい。確か、春分の日だった。昼と夜の時間が全く同じになるその日だ。そういう日に生まれた者は、霊的な資質が高いことが多い。

奇遇にして、玄天と玄水は、同じ年の同じ日に生まれたわけだ。時間もそんなに変わらない。とすると、何を持って当主とするか? 分かるか?」

「資質……?」
「そう。だがな、考えてみてくれ。チセイも今日言ったよな。『玄天はもっと年を取った人かと思った』と。おまけに玄天はあの髪の色と目の色だ。そう考えると、俄然玄天は不利になる」

 上島は、異に饒舌だった。まるで、自分のことから話題を逸らそうとしているかのようだ。しかし、華山家総本山の詳細を聞いておかねばと、神楽は話に乗る。

「霊だの何だのを扱うところは、しきたりや伝統に五月蝿い。そういう奴らが、金髪の人間を当主に据えるとは考え難い。

他の者もそう思っていたようで、華山家総本山には、圧倒的に玄水側が多かった。玄水は黒髪の短髪。威厳もあり、霊力も申し分ない。当主に据えられない理由が何一つなかった。

けれど、先代の遺言で全てがひっくり返った。当主には、阿相玄天を据える、と。先代はそれ以上何も明かさず、そのまま亡くなった。

ただ、玄天と玄水が協力して、統率していくように、とは書かれていたが、まあ無理な話だ。玄水にしてみりゃ、座るつもりだった椅子を分捕られたようなもんだしな」

 上島は、大きな桜の木にもたれかかる。

「まあ、そういうわけだ。俺も玄水とは数えるほどしか話したことはないし、決して仲は良くない。玄水も、玄天側の人間とは一切接触しない。今となっちゃ、よくこれだけ住み分けたもんだと思うが。何というか……因果な話だな」

 異母兄弟と言えば、神楽と千春もそうなのだ。神楽と千春は仲良く暮らしているが、もう一方の玄天と玄水は仲がすこぶる悪い。非常に対照的だった。どちらが幸せかそうでないかは分からない。

 けれど、玄水と玄天は、偶々、華山家当主の家に生まれたばっかりに、このような勢力争いに巻き込まれてしまったとも言える。そう考えると、色々な要因が結びついて、このようになったのだ。回る因果は何とも奇妙なものと言える。

「そう、なのか……。けれど、君はどうして、そんなにあの依頼にこだわるんだい。断ってしまえば済む話じゃないか。こんなに危険な……命をかけるほどのものとは、私には思えない」

「――あそこには、俺の記憶がある。十二歳以前の記憶が」
 熱に浮かされた病人が、水を渇望するような虚ろな声だった。

「知りたいのか知りたくないのか、自分でも迷ってるんだ。今の生活をなくしたくない。けれど、知りたい」

「勇朔、阿相さんの言うとおり、私も君を死なせたくない。危険なことは止めて欲しい。――君は君じゃないか。例え十二歳以前の記憶がなくたって、今まで君が生きてきた、二十年間があるじゃないか。君が積み上げてきた歴史があるじゃないか!」

「――ふざけるな!!」

 上島は神楽の手を振りほどいた。辺りがしん、と静まり返る。上島が、神楽にこんなふうに怒鳴ったのは、初めてだった。神楽は呆然と押し黙る。

「俺が、今まで不安でなかったと思うのか? 自分がどこの誰とも知れない奴で、名前すら本当のものではなく、家族のことも覚えていない。中学校のときは、死にたいと思ってたよ。

周りの奴らが、自分の持ってないものを何もかも持ってる気がして妬ましかった、朝目覚めたら、昨日のことすら全て忘れてるんじゃないかと恐怖で眠れなかった、嘘だと分かっている経歴で、履歴書を書くことが出来なかった、この苦しみが、お前に分かるのか!?」

 悲痛な魂の叫びだった。空気を切り裂くような、上島の悲鳴だ。

 今までずっと、気にしないふりで生きてきた。記憶を失ったまま入学した中学校。幸い、小学校で習った知識は覚えていたので、中学を受験することが出来た。

 しかし入学した中学校は、思い描いていた場所とは遥かに違っていた。そこは、温かい場所とは程遠いところだった。テストに過敏なほどに一喜一憂するクラスメイト達。

 自分より成績が上だと見るや否や、途端によそよそしくなる者たちの集う場所だった。自分が上でなければ、登りつめなければ、教室はいつもそういった思いに支配されていたように思う。

 邪魔者は排除せよ、そんな命令をされたかのように、生徒たちは動いていた。落ちこぼれた者を容赦なく踏みつけにし、嘲笑の対象とした。そういった者はより長く苛められた。

 謂わば生徒たちの安定剤代わりだったのだ。「こいつがいるから、まだ自分は堕ちこぼれではない」陳腐な自尊心を、その苛めで満足させていたのだ。苛められた者は、やがて学校に来なくなった。

 そしてひっそりと転校していくのが常であった。私立の名門という校風が悪かったのだろう。学校の評判が下がるような事件があれば、理事会によってすぐに揉み消された。

 上島は、そんな校風に半ばうんざりとしていた。友人をつくる気にもなれない場所だったのだ。だから上島はいつも一人だった。成績次第で離れていく友人など、最初からいないほうが良い。

 高校生になって、その雰囲気も少しはマシにはなった。外部からの生徒がたくさん入ってきたおかげとも言えた。その中に神楽がいた。

 これまで、友人という夢を見させてくれたのは紛れもなく神楽だ。記憶がない、どこの誰かも分からない自分に、構って優しくてくれた。今も、たかが自分のことに、これほどまでに心配し、身を案じてくれている。

 握っていた手があった。神楽がここに居てくれたからこそ、上島はこれまでやってくることが出来たのだ。上島は、神楽と地続きでこの世に存在しているのだ。

 ――――けれど。

 自分という存在が確かでないまま、ここに居るのは嫌だった。

 上島は、神楽が繋ぎとめていてくれた手を放した。

 放した途端、どこに行くのかさえ見当もつかない。もしかしたら地上の楽園から、地獄に連れて行かれるのかもしれなかったし、逆に花咲き乱れる天国に行くことが出来るのかもしれない。

 ――――そんなことは決して期待していなかったが。上島は、何か眩しいものを見るかのような瞳で、微笑んだ。

「今まで側に居てくれて、感謝してる」

 終わりだ。神楽が繋いでいてくれた手を、放した。

 これからどうなるかは分からない。

 もしかすると、この世に居られなくなるのかもしれないが。もしそうなれば、今までよくしてくれた神楽に申し訳がなかった。

 自分が死んでしまうかもしれないということについては、むしろどうでも良かった。所詮、なるようにしかならないのだから。

 そのことよりも、自分が死ぬことで傷つく神楽が居るとすれば、その方が辛い。だから今手を放すのだ。手を放せば、神楽は自由になれる。

 上島には、死ぬことよりも神楽の手を放すことの方が余程辛かった。普通の幸せな生活をくれた神楽は、その意味に気付いているだろうか。

「ゆう、朔……」
 神楽は信じられないという目で上島を見ているに違いなかった。上島は、その姿を見る勇気がなくて、俯きながら踵を返し、華山家を後にした。帰りはタクシーを拾った。

 どんよりとした街の光が、走るタクシーの中に差し込んでいる。

 いっそ何もかも忘れて眠ってしまいたかった。神楽、裏切ったわけじゃない。

 いや、裏切ったと思ってもいい。

 だから、神楽が気に病む必要はないんだ――。

 そう唱えながら、目を閉じる。

 何にしても、これから上島は独りだった。
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