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第五章
四、記憶の欠片
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――――姉さん。
そう呼ばれ、郁子は瞬いた。けれど、特に何を言うわけでもなく、ただふう、と大きく息を吐く。
「思い出したのね……」
郁子は、真正面から上島を見た。上島にとって、郁子は戸籍上の母親だ。
ついこの前まで、本当に血の繋がりがあるとは思っていなかった。しかし、上島は『朔』に戻ったことで、記憶を取り戻していた。
「ええ……思い出しました。何もかも。貴方が俺の実の姉だということも、あの桜の木の下で首を吊ったのが、俺たちの母親であるということも……」
上島が記憶を取り戻したのは、霊媒に失敗した後のことだった。霊媒に失敗して、半死半生の目にあっていたあのとき。上島は、幻に苦しめられながらも、記憶を取り戻したのだ。
「しかし、何故記憶が戻ったのか、俺にはよく分かりません。何故今になって……」
一寸間を置いて、郁子は話し始めた
「貴方は、元々『朔』だったの。生まれたときからね。けれど、『朔』は寿命が短い。そのことを、お母様はいつも心配していたわ……」
郁子の口から、お母様という言葉が出たことに、上島は驚いた。郁子が自分の家族に関する話をしたことは殆どなかったのだ。
「あの桜の木で、お母様が首を吊ったことはもう知っているわね。幼い頃の貴方は、そのときお母様と一緒に居たの。貴方は――お母様が首を吊る一部始終を見てしまった。まだ幼かったから、何が起こったか分からずに……」
郁子は目を伏せた。
「けれど、貴方は昔から聡かった。段々と、お母様が何をしたか感づいてしまったのね。人が首を吊る場面を目の当たりにして、正気ではいられない。貴方は、半ば気が狂ったようになってしまった。そして、相次いでお父様が事故で亡くなったわ。そのことは覚えてる?」
「いいえ……父の記憶は全くありません……」
「お母様が亡くなって、お父様も様子がおかしかった。何かに引き寄せられるように亡くなった。私はそう感じていたの。残されたのは、貴方と、私だけ」
郁子は息を吐いた。
「心細くて仕方なかったわ。当時、私は二十三歳。大学を卒業したての頃だった。幼い貴方を抱えて、私に何が出来るんだろうと、途方に暮れたわ。就職先は決まってないわけじゃなかった。けれど、正気を保っていられない貴方を抱えて、私の稼ぎだけでは生きていけなかった」
上島は、苦労など一つもしたことがないような郁子にも、そんな葛藤があったのかと、内心で驚く。
「そんなとき出会ったのが、私の今の夫。彼は、私を支えてくれた。両親を相次いで亡くし、弟である貴方まであんなことになって、私もどうにかなりそうだった。けれど、夫は全てを受け入れてくれた。――そして、貴方を養子にすることを承諾してくれたの」
郁子は、真直ぐに上島を見つめた。
「貴方は、お母様の首吊り以来、精神を病んでいた。人と関わるのを極端に嫌って、部屋から出てこなくなってしまった。言葉も忘れてしまったように、何も喋らない。見かねた私たちは、貴方を病ませている記憶を封印してはと考えるようになったわ」
上島の靴底の下で、ぱき、と音がした。枝を踏みつけてしまったようだ。
「でも、それ以上に、貴方が『朔』であるということが、一番の不安だった。『朔』の言い伝えは知っているでしょう?」
「百年か二百年に一人の確率で生まれ、しかし寿命は怖ろしく短い。――そうですよね?」
「そう。私は、貴方まで失ってしまうのではないかと心配だった。両親は助けられなかったけれど、今一緒に居る貴方だけは何とか助けられるはず。私は必死だった。
貴方を助けられなければ、私は本当に独りになってしまう、と怯えていたわ。夫が居ても、血を分けた家族がいなくなることは、また別の恐怖だった。どうすれば、貴方を『朔』の属性でなく出来るか。それだけで頭が一杯だった」
郁子は、髪をかき上げた。
「そんなとき、夫が霊媒師の人から話を聞いてきてくれたの。属性を『朔』から外せる方法はないか。どんな手段を使ってもいい、見込みのない方法でもいいと。あのとき、私たちはやれることなら何でもやった」
上島は、呆然とした。自分の過去に――こんなことが起こっていたとは。
「そして、霊媒師の人たち――当時の華山家総本山の当主様が話してくれたの」
――――勇朔くんを、朔の属性から離す手段が、一つだけあります。
――――どんな方法でも構いません! あの子が無事でさえあれば……。
――――危険が伴う方法ではありません。しかし、勇朔くん自身も、勇朔くんの周りの方々も、非常に辛い思いをするでしょう。
――――それは、どのような方法なのですか?
――――彼の記憶を、消すのです。記憶は、呪術における対価として支払うことが出来る、唯一のものです。しかし、『朔』の力は並大抵ではありませんから、相当の年数の記憶が必要だ。もしかすると、家族の記憶すらも、消さねばならないやもしれません。
――――記憶、を…………。
――――しかも、このようなことは前代未聞です。今までの『朔』は、皆自分の運命を受け入れていた。勇朔くんに、そう仰られた方が良いのではないかと思いますが。
――――そんな……! 母親が目の前で首を吊り、父親が事故で亡くなったあの子に、そんなことを言えというのですか! 「貴方は寿命が短いから、もうすぐ死ぬかもしれないの」と? ……そんな残酷なこと、出来るはずがありません。ただでさえ、今精神を病んでいるあの子に、そんなこと……!
――――それに、あの子は私の唯一の肉親です。血を分けた姉弟です。絶対にあの子を死なせやしません。あの子の未来が開けるのなら、あの子自身の記憶も差し出しましょう。あの子は、記憶があるせいで、今のような状態になっているのです。いっそ記憶をなくしたほうが、良いことなのかもしれません。
――――そう仰るなら、その通りに致しましょう。けれど、勇朔くんは、空洞の長い人生を歩むことを強いられるかもしれませんよ。長きに亘る虚無は、充実した短い人生よりも、余程辛いことです。それを、貴方自身も、よく分かって下さい。
――――空洞の人生でなくすればいいのでしょう。私の夫なら、何不自由ない生活をさせてあげられます。着るものにも、食べ物にも困りません。良い学習環境を作って、良い学校へ通わせることも出来るでしょう。私たちも、あの子には誠心誠意優しく、愛情を持って受け入れます。あの子の幸せな人生を、私たちは作り上げてみせます。
――――……分かりました。勇朔くんの記憶を消しましょう。そして、彼の属性を『朔』ではなく、サンユエにしようと思います。『朔』の力は強大ですから、完璧に霊媒能力を消すことは不可能です。普通の霊媒師と同じような力にすること、それが精一杯です。けれど、寿命が短くなるのは、食い止めることが出来ます。
――――有難うございます! あの子のためにも、是非お願いします! 私にはあの子が必要なんです……!
――――長きに亘る虚無を、勇朔くんが自身で乗り越え、未来を切り開く力があることを、願っています……。
「そして、貴方の記憶は消された。貴方の力は強大で、丸々今まで生きてきた分の、全ての記憶を失うことになったわ。貴方の記憶で残っていたのは、学習したことだけ。それはわざと残したんじゃなくて、自然に残るものなの。呪術で対価として支払うものは、記憶。つまり思い出と呼ばれるもの。貴方はその一切合財を失うことになった」
郁子は、辛そうに眉根を寄せた。上島は、想像を超える話に、感情が追いついていかない。夢の中のような、ふわふわした心地だった。
「勿論、私のことも忘れていた。辛かったけど、私は構わなかった。貴方が元気になって、話も出来るようになった。何不自由ない生活を送らせることが出来た。学校だって、名門に合格した。人より恵まれた暮らしをさせられたことで、私はとても満足だったわ。貴方は、母のことも父のことも忘れてしまっていたけれど、記憶を失う前の状態に比べれば、何のことはなかった。貴方が元気に暮らしていることが、何よりの支えだったから」
郁子の瞳は潤んでいた。
――――泣いているのか? 豪放磊落な郁子さんが。
「私は間違ってなかった。ずっとそう思い続けてきたの。夫も賛成してくれていたし、これが最善の方法だと信じて疑わなかった。当主様が言っていた、『空洞の長き人生』にも、あまり耳を貸さなかったわ。勇朔の人生は、空洞なんかじゃない。こんなに人並み以上の生活が送れているじゃないかって。言い訳をするわけじゃないけれど、あのとき、私は本当に必死だったのよ」
「けれど、何故、姉さんは俺に言ったんですか? 蓮北小学校で事件が起こったときに、『あれは――――貴方の事件』だと……。桜の木の事件は、母さんのことに直接関係しています。俺が興味を持ったら、こんなふうに、今のように記憶を思い出すことだって考えられたでしょう。なのに、何故わざわざ俺が調べるように仕向けたんですか?」
郁子は、視線を下げた。
「分からなくなったのよ。私のやったことが、本当に正しかったのか……」
郁子は、上島が今までに見たことのないような、哀しげな表情で俯いた。
「履歴書……書いたでしょう」
「履歴書――ですか?」
上島には何のことだか全く分からない。上島は既に三十二歳、履歴書の一枚や二枚は書いていて当然だろう。
「あれは……貴方が大学を卒業するときだったわね。丁度、貴方が就職活動をしようとしているときだったかしら。私、あのときたまたま用事があって、貴方の部屋に入ったの。きちんと片付いていて、整理整頓されていた。入っていくと、ふと、机の脇にあるゴミ箱が見えたの。
中のゴミは、全部丸めて捨てられた履歴書だった。三十枚から五十枚はあったわ。最初は、こんなにいっぱい、何が捨ててあるんだろうっていう、興味本位だった、けれど、どれを見ても、中身は全部履歴書なの。しかも書き損じじゃないのよ。写真まできっちり貼って、全部の欄にしっかり書いてあるの。ただ、一箇所を除いては……」
上島は、思い出した。精神的に疲れていた、あの大学時代だ。自分が何者なのか分からなくて、焦燥が募っていた。自分の経歴が嘘だと分かっていたから、書けなかったのだ。
「空いていた欄は、幼稚園と小学校の名前を書く欄。そこだけが、全て空白だった。中には何とか書こうとしたらしいものもあったけど、消しゴムで滅茶苦茶に消されていた。
それは、貴方の記憶がない時代。そう気付いたとき、私、貴方の部屋で泣いたわ。両親を失って以来、流したことのなかった涙だった……。それで、私は考え直したの。私のやって来たことは、本当に正しかったのか、って……。そのときやっと、当主様が言った『空洞の長き人生』の意味が分かった。私は、貴方に、空洞の人生を歩ませていたんだって。周りだけは綺麗に飾り付けてね」
「姉さん……そんなことはありません。俺は、充分に良くして貰いました。そのことは本当に感謝しています」
それは上島の本音だった。記憶がもし取り戻せるとしても、他の家族を持つことを躊躇していた。それでも、郁子は首を横に振る。
「ずっと、ずっと謝りたかった。勇朔の人生を、ここまで変えてしまったこと。貴方を悩ませ続けたこと。本当に、ごめんなさい」
「姉さん!! 謝らなくていい!!」
上島は、悲鳴のような声を上げた。郁子がしたことは、上島のためを思ってこそだ。喜びこそすれ、謝られることはない。
「姉さんは、いつも俺のことを考えてくれていた。両親が帰らぬ人となったときも、俺が精神を病んだときも……。いつだって、姉さんは俺のことを大事にしてくれていた。そんな大切なこと、ようやく思い出したんだ……」
郁子は、瞳に涙を浮かべている。朝露のような、透明な水のようだった。
「けれど、私は、どうすることもしなかった。貴方の苦悩に気付きながら、何もしなかった。貴方に真実を思い出させることが怖かった。真実を知れば、貴方の寿命は必然的に短くなる。そんなことが分かっていて、貴方に真実を教える勇気がなかった。――――だから、私は賭けをしたの」
「賭け?」
「貴方の記憶に関することを、さりげなく匂わせるの。それも機会がなければ出来なかったことだけど――偶然にも、あの桜の木の事件が大きくクローズアップされていたので、あれを使った。私の言ったことに興味を持って、貴方が調べれば、貴方は『朔』に戻ることを選んだということ、貴方が興味を示さなければ、貴方は今のままでいることを選んだということ、と自分を納得させようとしたの。
貴方は、意外にも、あの事件に興味を持った。そして霊媒をした。絶対に敵わない幽鬼だと分かっているはずなのに、何故――と、何度貴方を止めようと思ったかしれないわ。死んでしまうかもしれない……。けれど、耐えた。私が変えてしまった、貴方の人生を、元に戻すのだと、信じて。そして、その結果――貴方は思い出した。『朔』の属性に戻って……」
郁子は、人差し指で、桜の花に触れた。
「今も、自分に問い続けているわ。本当にこれで良かったのかって。貴方は、空洞の人生から抜け出したかもしれない……。でも、貴方は……っ……貴方の寿命は……!」
郁子は顔を覆った。痛々しいその姿。原因が自分であると思うと、上島は居たたまれなくなった。
そう呼ばれ、郁子は瞬いた。けれど、特に何を言うわけでもなく、ただふう、と大きく息を吐く。
「思い出したのね……」
郁子は、真正面から上島を見た。上島にとって、郁子は戸籍上の母親だ。
ついこの前まで、本当に血の繋がりがあるとは思っていなかった。しかし、上島は『朔』に戻ったことで、記憶を取り戻していた。
「ええ……思い出しました。何もかも。貴方が俺の実の姉だということも、あの桜の木の下で首を吊ったのが、俺たちの母親であるということも……」
上島が記憶を取り戻したのは、霊媒に失敗した後のことだった。霊媒に失敗して、半死半生の目にあっていたあのとき。上島は、幻に苦しめられながらも、記憶を取り戻したのだ。
「しかし、何故記憶が戻ったのか、俺にはよく分かりません。何故今になって……」
一寸間を置いて、郁子は話し始めた
「貴方は、元々『朔』だったの。生まれたときからね。けれど、『朔』は寿命が短い。そのことを、お母様はいつも心配していたわ……」
郁子の口から、お母様という言葉が出たことに、上島は驚いた。郁子が自分の家族に関する話をしたことは殆どなかったのだ。
「あの桜の木で、お母様が首を吊ったことはもう知っているわね。幼い頃の貴方は、そのときお母様と一緒に居たの。貴方は――お母様が首を吊る一部始終を見てしまった。まだ幼かったから、何が起こったか分からずに……」
郁子は目を伏せた。
「けれど、貴方は昔から聡かった。段々と、お母様が何をしたか感づいてしまったのね。人が首を吊る場面を目の当たりにして、正気ではいられない。貴方は、半ば気が狂ったようになってしまった。そして、相次いでお父様が事故で亡くなったわ。そのことは覚えてる?」
「いいえ……父の記憶は全くありません……」
「お母様が亡くなって、お父様も様子がおかしかった。何かに引き寄せられるように亡くなった。私はそう感じていたの。残されたのは、貴方と、私だけ」
郁子は息を吐いた。
「心細くて仕方なかったわ。当時、私は二十三歳。大学を卒業したての頃だった。幼い貴方を抱えて、私に何が出来るんだろうと、途方に暮れたわ。就職先は決まってないわけじゃなかった。けれど、正気を保っていられない貴方を抱えて、私の稼ぎだけでは生きていけなかった」
上島は、苦労など一つもしたことがないような郁子にも、そんな葛藤があったのかと、内心で驚く。
「そんなとき出会ったのが、私の今の夫。彼は、私を支えてくれた。両親を相次いで亡くし、弟である貴方まであんなことになって、私もどうにかなりそうだった。けれど、夫は全てを受け入れてくれた。――そして、貴方を養子にすることを承諾してくれたの」
郁子は、真直ぐに上島を見つめた。
「貴方は、お母様の首吊り以来、精神を病んでいた。人と関わるのを極端に嫌って、部屋から出てこなくなってしまった。言葉も忘れてしまったように、何も喋らない。見かねた私たちは、貴方を病ませている記憶を封印してはと考えるようになったわ」
上島の靴底の下で、ぱき、と音がした。枝を踏みつけてしまったようだ。
「でも、それ以上に、貴方が『朔』であるということが、一番の不安だった。『朔』の言い伝えは知っているでしょう?」
「百年か二百年に一人の確率で生まれ、しかし寿命は怖ろしく短い。――そうですよね?」
「そう。私は、貴方まで失ってしまうのではないかと心配だった。両親は助けられなかったけれど、今一緒に居る貴方だけは何とか助けられるはず。私は必死だった。
貴方を助けられなければ、私は本当に独りになってしまう、と怯えていたわ。夫が居ても、血を分けた家族がいなくなることは、また別の恐怖だった。どうすれば、貴方を『朔』の属性でなく出来るか。それだけで頭が一杯だった」
郁子は、髪をかき上げた。
「そんなとき、夫が霊媒師の人から話を聞いてきてくれたの。属性を『朔』から外せる方法はないか。どんな手段を使ってもいい、見込みのない方法でもいいと。あのとき、私たちはやれることなら何でもやった」
上島は、呆然とした。自分の過去に――こんなことが起こっていたとは。
「そして、霊媒師の人たち――当時の華山家総本山の当主様が話してくれたの」
――――勇朔くんを、朔の属性から離す手段が、一つだけあります。
――――どんな方法でも構いません! あの子が無事でさえあれば……。
――――危険が伴う方法ではありません。しかし、勇朔くん自身も、勇朔くんの周りの方々も、非常に辛い思いをするでしょう。
――――それは、どのような方法なのですか?
――――彼の記憶を、消すのです。記憶は、呪術における対価として支払うことが出来る、唯一のものです。しかし、『朔』の力は並大抵ではありませんから、相当の年数の記憶が必要だ。もしかすると、家族の記憶すらも、消さねばならないやもしれません。
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――――しかも、このようなことは前代未聞です。今までの『朔』は、皆自分の運命を受け入れていた。勇朔くんに、そう仰られた方が良いのではないかと思いますが。
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――――そう仰るなら、その通りに致しましょう。けれど、勇朔くんは、空洞の長い人生を歩むことを強いられるかもしれませんよ。長きに亘る虚無は、充実した短い人生よりも、余程辛いことです。それを、貴方自身も、よく分かって下さい。
――――空洞の人生でなくすればいいのでしょう。私の夫なら、何不自由ない生活をさせてあげられます。着るものにも、食べ物にも困りません。良い学習環境を作って、良い学校へ通わせることも出来るでしょう。私たちも、あの子には誠心誠意優しく、愛情を持って受け入れます。あの子の幸せな人生を、私たちは作り上げてみせます。
――――……分かりました。勇朔くんの記憶を消しましょう。そして、彼の属性を『朔』ではなく、サンユエにしようと思います。『朔』の力は強大ですから、完璧に霊媒能力を消すことは不可能です。普通の霊媒師と同じような力にすること、それが精一杯です。けれど、寿命が短くなるのは、食い止めることが出来ます。
――――有難うございます! あの子のためにも、是非お願いします! 私にはあの子が必要なんです……!
――――長きに亘る虚無を、勇朔くんが自身で乗り越え、未来を切り開く力があることを、願っています……。
「そして、貴方の記憶は消された。貴方の力は強大で、丸々今まで生きてきた分の、全ての記憶を失うことになったわ。貴方の記憶で残っていたのは、学習したことだけ。それはわざと残したんじゃなくて、自然に残るものなの。呪術で対価として支払うものは、記憶。つまり思い出と呼ばれるもの。貴方はその一切合財を失うことになった」
郁子は、辛そうに眉根を寄せた。上島は、想像を超える話に、感情が追いついていかない。夢の中のような、ふわふわした心地だった。
「勿論、私のことも忘れていた。辛かったけど、私は構わなかった。貴方が元気になって、話も出来るようになった。何不自由ない生活を送らせることが出来た。学校だって、名門に合格した。人より恵まれた暮らしをさせられたことで、私はとても満足だったわ。貴方は、母のことも父のことも忘れてしまっていたけれど、記憶を失う前の状態に比べれば、何のことはなかった。貴方が元気に暮らしていることが、何よりの支えだったから」
郁子の瞳は潤んでいた。
――――泣いているのか? 豪放磊落な郁子さんが。
「私は間違ってなかった。ずっとそう思い続けてきたの。夫も賛成してくれていたし、これが最善の方法だと信じて疑わなかった。当主様が言っていた、『空洞の長き人生』にも、あまり耳を貸さなかったわ。勇朔の人生は、空洞なんかじゃない。こんなに人並み以上の生活が送れているじゃないかって。言い訳をするわけじゃないけれど、あのとき、私は本当に必死だったのよ」
「けれど、何故、姉さんは俺に言ったんですか? 蓮北小学校で事件が起こったときに、『あれは――――貴方の事件』だと……。桜の木の事件は、母さんのことに直接関係しています。俺が興味を持ったら、こんなふうに、今のように記憶を思い出すことだって考えられたでしょう。なのに、何故わざわざ俺が調べるように仕向けたんですか?」
郁子は、視線を下げた。
「分からなくなったのよ。私のやったことが、本当に正しかったのか……」
郁子は、上島が今までに見たことのないような、哀しげな表情で俯いた。
「履歴書……書いたでしょう」
「履歴書――ですか?」
上島には何のことだか全く分からない。上島は既に三十二歳、履歴書の一枚や二枚は書いていて当然だろう。
「あれは……貴方が大学を卒業するときだったわね。丁度、貴方が就職活動をしようとしているときだったかしら。私、あのときたまたま用事があって、貴方の部屋に入ったの。きちんと片付いていて、整理整頓されていた。入っていくと、ふと、机の脇にあるゴミ箱が見えたの。
中のゴミは、全部丸めて捨てられた履歴書だった。三十枚から五十枚はあったわ。最初は、こんなにいっぱい、何が捨ててあるんだろうっていう、興味本位だった、けれど、どれを見ても、中身は全部履歴書なの。しかも書き損じじゃないのよ。写真まできっちり貼って、全部の欄にしっかり書いてあるの。ただ、一箇所を除いては……」
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それは、貴方の記憶がない時代。そう気付いたとき、私、貴方の部屋で泣いたわ。両親を失って以来、流したことのなかった涙だった……。それで、私は考え直したの。私のやって来たことは、本当に正しかったのか、って……。そのときやっと、当主様が言った『空洞の長き人生』の意味が分かった。私は、貴方に、空洞の人生を歩ませていたんだって。周りだけは綺麗に飾り付けてね」
「姉さん……そんなことはありません。俺は、充分に良くして貰いました。そのことは本当に感謝しています」
それは上島の本音だった。記憶がもし取り戻せるとしても、他の家族を持つことを躊躇していた。それでも、郁子は首を横に振る。
「ずっと、ずっと謝りたかった。勇朔の人生を、ここまで変えてしまったこと。貴方を悩ませ続けたこと。本当に、ごめんなさい」
「姉さん!! 謝らなくていい!!」
上島は、悲鳴のような声を上げた。郁子がしたことは、上島のためを思ってこそだ。喜びこそすれ、謝られることはない。
「姉さんは、いつも俺のことを考えてくれていた。両親が帰らぬ人となったときも、俺が精神を病んだときも……。いつだって、姉さんは俺のことを大事にしてくれていた。そんな大切なこと、ようやく思い出したんだ……」
郁子は、瞳に涙を浮かべている。朝露のような、透明な水のようだった。
「けれど、私は、どうすることもしなかった。貴方の苦悩に気付きながら、何もしなかった。貴方に真実を思い出させることが怖かった。真実を知れば、貴方の寿命は必然的に短くなる。そんなことが分かっていて、貴方に真実を教える勇気がなかった。――――だから、私は賭けをしたの」
「賭け?」
「貴方の記憶に関することを、さりげなく匂わせるの。それも機会がなければ出来なかったことだけど――偶然にも、あの桜の木の事件が大きくクローズアップされていたので、あれを使った。私の言ったことに興味を持って、貴方が調べれば、貴方は『朔』に戻ることを選んだということ、貴方が興味を示さなければ、貴方は今のままでいることを選んだということ、と自分を納得させようとしたの。
貴方は、意外にも、あの事件に興味を持った。そして霊媒をした。絶対に敵わない幽鬼だと分かっているはずなのに、何故――と、何度貴方を止めようと思ったかしれないわ。死んでしまうかもしれない……。けれど、耐えた。私が変えてしまった、貴方の人生を、元に戻すのだと、信じて。そして、その結果――貴方は思い出した。『朔』の属性に戻って……」
郁子は、人差し指で、桜の花に触れた。
「今も、自分に問い続けているわ。本当にこれで良かったのかって。貴方は、空洞の人生から抜け出したかもしれない……。でも、貴方は……っ……貴方の寿命は……!」
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