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第2章 正体不明のDom
04 合宿準備
しおりを挟む合格通知と一緒に入っていた紙には、合宿オーディションに必要な持ち物が事細かに記載されていた。
食事やアメニティについては、最初からあちらが用意してくれるから不要らしい。その上、こちらが希望すれば着替えや下着まですべて準備してくれると書いてあるあたり、さすがは大手のプロダクションだ。
「……まあ、下着ぐらいは自分で持ってくけど」
合宿所には、乾燥機能付きの洗濯機も設置されているらしい。
それなら洗い替え用を用意するとしても、三着もあれば足りるだろう――そう考えながらも、予備としてあと二着、計五着の下着をカバンの中に詰める。
こういうものをギリギリの数しか持っていかないというのは、どうにも落ち着かない性分だからだ。
「レッスン用のジャージは支給あり……か。やっぱり、撮影のときの見栄えを気にしてるのか?」
この合宿オーディションの光景は、ネットで配信されることが決まっていた。
リアルタイムではないが、ダンスや歌唱のレッスンや審査が逐一、大手動画配信サイトを通じて公開されることになるらしい。
それに関する同意書も、今回の合格通知に同封されていた。
こうやって露出を増やすことで、デビュー前からファンを獲得するのが目的なのだろう。
最近では、たびたび見かける手法だ。
まさか自分が映る側になるとは考えもみなかったが、プロダクションの売り方としては間違っていない。それがどんな結果に繋がるかはまだ想像もつかなかったが、今は面白そうだという気持ちのほうが大きかった。
「……だから、話題性としてSubのおれが選ばれたっていうのは、考えすぎなのか?」
ふと、そんなことが頭をよぎってしまうのは仕方ない。
二次性の中でも、Subに対する風当たりは強い。差別ではなく区別なのだといわれても、当事者として簡単に納得できるものではなかった。
Subを明らかに下に見ている人間は多い――大多数がそうだといっても、言いすぎではないだろう。その状況は昔から全く変わっていない。変えようとしたところで、うまくいかないものだという諦めもあるせいだろう。
もし今回、Subである純嶺がこのオーディションを勝ち抜いたからといって、その状況が大きく変わることは、きっとない。
だからといって、自分が諦めていい理由にはならなかった。
コウに何度怒られても直視できなかった問題だったが、今回のオーディションをきっかけにきちんと向き合おうと決めた。
自分の状況を変えられるのは、自分だけだ。
再び心に傷を負うかもしれないことを怖いと感じる気持ちがないわけではなかったが、一度踏み出すと決めた以上、このオーディションの頂点を目指すという意思を曲げるつもりはなかった。
「――そういえば……これ、どうするかな」
着々と準備を進めていた純嶺だったが、持ち物リストの一点を見つめたまま、動きを止めた。
そこに書かれているのは〈常用している薬〉という項目だ。
Subである純嶺には、毎日服用している薬がある。
Subの欲求を制御する〈抑制剤〉と、不安な気持ちになりにくくする〈安定剤〉だ。どちらもドラッグストアで売られているものを使っていた。
Subは支配が不足することで〈Sub不安症〉と呼ばれる症状を引き起こすことがある。突然起こる酷い鬱のような症状で、場合によっては自死を選択してしまうSubもいるらしい。
今、純嶺が飲んでいる薬はどちらもその症状を緩やかにするためのものだった。
昔は専門のクリニックに通って薬を出してもらっていたが、強い抑制剤を飲んでもステージに立つことが難しいとわかってからは通院すること自体辞めた。
市販薬だけを飲み、定期健診を受けないことがよくないことだとはわかっていたが、それでもクリニックに行く気にはなれなかった。
それらはすべて不安症からくる、緩やかな自傷行為だったのかもしれない。
「……最近、前向きに考えられるようになったのって、もしかして不安症がちょっとよくなったからなのか?」
先日、例の夢を見てから、純嶺のメンタルはわかりやすいほど安定していた。
暗い気持ちになることが減り、マイナス思考も減った気がする。
物事をいいように捉えられないのは自分の性格のせいだと思っていたが、実際は本人も気づかないうちに不安症の症状が進行していたのかもしれない。
――夢の中でも、コマンドって効くのか?
あの少年が「いい子だ」と自分を褒めた声が忘れられない。
実際はただの夢だが、それでもあの少年の声が純嶺の気持ちの安定を図ってくれたのは事実だ。
「……やっぱり、合宿の前にクリニックに行っといたほうがいいんだろうな」
しばらく顔を出していなかったので、後ろめたい気持ちがないわけではない。
今さら何をしにきたと言われてしまうかもしれないが、いつまでも逃げているわけにはいかなかった。それに合宿中のことについても相談もしておきたい。
純嶺は早速財布から診察券を取り出すと、数年ぶりにクリニックに予約の電話を入れた。
◇
「……クリニックより、緊張するな」
クリニックの帰り、純嶺は繁華街に訪れていた。
賑やかな場所があまり得意ではないので、普段はあまり来ない場所だ。
周りの不快な音を遮断するため、耳をすっぽりヘッドホンで覆ったまま、純嶺は目のために立つ雑居ビルに視線を向ける。訝しげに眉を顰め、純嶺が見つめる先にあるのは「Dom/Sub専用プレイルーム」という文字が書かれた銀色のプレート――そう。ここはプロのDomにプレイを依頼できる店だった。
勇気を出して赴いたクリニックだったが、主治医の態度は以前と変わらず、拍子抜けするほどあっさりと受け入れてもらえた。
それが相手を不安にさせない、プロの対応というものなのだろう。
純嶺が長い期間、どこのクリニックにも掛かっていなかったことに気づいていないわけではなさそうだったが、それを指摘してくることもなく、安心して話をすることができた。
ただやはり、不安症の症状が強くなっていることを指摘されてしまった。
医師が言うには、純嶺はステージに立つことができないほどグレアに対する感受性が強いものの、Subとしての欲求は他より低いほうなのだそうだ。
今まで市販薬だけで欲求や不安症の症状を抑えられていたのは、そのおかげもあったらしい。
それならば今回の合宿についても大丈夫だろうと安心しかけた純嶺だったが、それを聞いた主治医はいい顔をしなかった。
『普段と変わらない環境であれば心配しなくていいことでも、環境が変わると悪化するケースがあるからね。一か月も慣れない場所、見知らぬ人間との共同生活――となると、急激に症状が変化する場合もある。簡単には賛成できないな』
それが、医師の見解だった。
だが、純嶺としてもこのオーディションを諦めるつもりはない。
そこで提案されたのが、Domとのプレイで溜まっているSubの欲を一度発散させるという方法だった。
「プレイ、したことないんだよな……」
これまで、軽いプレイすら経験がない。
自分のSub性を意識することはあったが、プレイが必要だと思ったことはなかったからだ。確かに主治医の言ったとおり、純嶺はSubの欲求がかなり低いのだろう。
――やっぱり、無理にしなくてもいいんじゃないか?
決意を固めてここまできたはずなのに、すぐにでも踵を返したくなる。
今までもプレイなしでやってこられたのだから、今回も病院で出してもらった薬だけでどうにかなるかもしれない。
――いや、それじゃだめなんだ。
もし、合宿中で酷い不安症を起こしてしまったら――それこそ、純嶺のダンサーとしての未来は永遠に断たれてしまうことになりかねない。
あのとき、こうしていればなんて――これ以上、後悔はしたくなかった。
「……っ、よし」
勇気を出して、雑居ビルに足を踏み入れる。
エレベータに乗り込み、プレイルームの受付がある五階のボタンを押した。
心臓がうるさいほどに鳴っている。
ネットのレビューは悪くない店だということは確認済みだったが〈プレイルーム〉と呼ばれる店がどんな場所なのか、純嶺にとって未知であることに変わりはない。
チン、とエレベータが到着の音を響かせる。
開いた扉の向こうには、小さなホテルのロビーのような空間が広がっていた。
「いらっしゃいませ」
店内に一歩足を踏み入れた純嶺を、カウンターに立つ男性がにこやかな表情で迎え入れてくれた。
純嶺はぺこりと頭を下げると、緊張を隠せない足取りでカウンターへ近づく。
「ご予約はされていますか?」
「……あ、いや。予約がないと無理か?」
「いえ、この時間は空いているので大丈夫ですよ。初めてのお客様ですね。ではまず、カウンセリングシートにご記入いただけますか?」
男性の穏やかな声色が気持ちを落ち着けてくれる。
差し出されたタブレットを受け取った純嶺が案内されたのは、半個室になるようパーテーションで区切られている席だった。
他の客と顔を合わせなくて済むように、きちんとプライバシーが保たれているようだ。
「わからないことがあれば、机の上にあるボタンを押してお知らせください」
「あ……はい」
男性の背中を見送ってから、タブレットに視線を落とす。
カウンセリングシートと呼ばれていたそれは、希望するプレイなどを記入するもののようだった。質問に対して、チェックを入れて回答していく方式だ。
個人情報を書く欄も存在した。
――これって、ちゃんと書いたほうがいいんだよな。
この店が、きちんと国の認可が下りている店なのは確認済みだ。
ならば個人情報を記入しても問題ないとは思うが、店ですることがすることだけに少し気が引けてしまう。深く考えれば考えるほど書けなくなってしまいそうだったので、純嶺は勢いだけでその項目を埋めた。
「二次性はSub。プレイ経験はなし、と――……あとはプレイについての希望か」
希望といわれても――よくわからない、としか答えられそうにない。
痛いことがNGだということだけは確定していたが、プレイでやりたいことを聞かれてもうまく答えが思い浮かばなかった。
純嶺はしばらく悩んでから、机の上のボタンを押す。すぐに、先ほどの男性が姿を現した。
「ご質問ですか?」
「あの、この欄……よくわからなくて」
「ああ。プレイは初めてなんですね。大丈夫ですよ。そこはプレイパートナーがうまく調整することができますので」
プレイパートナーというのは、この店で相手をしてくれるプロのDomのことだ。
高レビューの認可店は、そんなとこまでしっかりしてくれるらしい。
――さすがはプロ、ってことか。
「じゃあ、任せます」
「かしこまりました。プレイパートナーについて、何かご希望はございますか?」
「プレイパートナーについて……?」
「ええ。たとえば相手の性別とか、性格とか――ですね。完璧にご希望に副うことは難しいかもしれませんが、できる限りお客様のご要望にお応えできるよう、準備させていただきます」
「…………希望、か」
男性に問われ、一応は考えてみたものの、特に希望は思いつかなかった。
そもそもプロのDomという人間がどういうものかも、あまりよくわかっていないのだから、何か思いつくはずもない。
「別に希望はない、かな」
「――じゃあ、俺でもいい?」
「え……?」
後ろから突然、声が割り込んできた。
隣に立っていた受付の男性と、ほぼ同時に振り返る。
純嶺の視線の先、パーテーションに凭れ掛かるように立っていたのは、純嶺と同年代らしき青年だった。
背中ほどまである長い髪を後ろで一つにまとめている。毛先はブロンドに近い色合いだったが、根元は黒いのでブリーチをした髪なのだろう。前髪は上げているが、濃い色のバタフライフレームのサングラスをかけているせいで目元が確認できず、表情はほとんどわからない。
着古したTシャツの上に虎の刺繍が入ったスカジャンを羽織った姿は、どこぞのチンピラが紛れ込んできたのかと思ったが、隣に立つ受付の男性に警戒している様子はない。
――もしかして、こいつもこの店のDomなのか?
プレイパートナーに悩んでいる純嶺に向かって「俺でもいいか」と尋ねてきたということは、そうなのだろう。
だが、このチンピラのような風体の男に対してイエスと答える勇気はない。
しかし、なんと答えるべきかもわからず、純嶺は完全に固まってしまっていた。
「特に希望がないっていうなら、問題ないよな?」
「……あ、えっと、それは」
「ほら、行くぞ」
反論する間もなく、腕を掴まれる。
そのまま、店の奥にあるプレイルームへと連れ込まれた。
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