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77 絶望のはじまり
しおりを挟む――どうして、ここに黒印が……? まさか。
最悪の想像に、鼓動が早鐘を打ち始めた。
これは自分の勘違いだと――ツィーガを信じたい一心で、おれはゆっくりと視線を上げる。
「ツィーガ……」
おそるおそる名前を呼んだ。
ツィーガはおれの目をしばらくじっと見つめたあと、手で口元を覆って身体を震わせる。「っふ、あはははは」と堪えられなかったように笑い始めた。
「こんなに簡単に騙されちゃうなんてね。〈地下〉を警戒しているように見えたのに、僕のことは信用していたの? ここまで簡単なら、演技する必要はなかったかな」
「……っ、ツィーガ……演技って、どういうこと?」
態度と口調ががらっと変わったツィーガから、距離を取るように一歩あとずさる。
今すぐにでも左手首の腕輪を外してしまいたかったけど、どれだけ引っ掻いても、爪が入る隙間も見つからなかった。
「それはもう外れないよ。略式とはいえ、黒印の契約に縛られているからね。バンくん――君は自分から〈地下〉の所有物になることを承諾したんだ」
「してない、そんなこと……」
「したんだよ。そこに黒印がしっかり浮かび上がっているのが何よりの証拠さ。っあははは。君がここまで馬鹿だとは思わなかったよ」
ツィーガがこちらに近づいてくる。
着ていた検査着を破くように脱ぎ捨てると、鎧のような外殻を纏った怪人の姿になった。
怪人化したツィーガを見るのは初めてじゃないけど、こんなにも禍々しい姿になったところは見るのは初めてだ。
震えるおれを見て、ツィーガはにたりと笑った。
「……言ってたことは全部、嘘だったの?」
おれの問いに、ツィーガはわざとらしく首を捻る。
「んー、全部ではないかな。ラーギが〈地下〉で酷い目に遭っているのは本当だからね。助けようなんて思ったことは、これっぽっちもないけど」
「っ……ツィーガ、どうしちゃったんだよ」
おれの知っているツィーガなら、こんな酷いことは絶対に言わない。
笑いながら友人を騙すなんてあり得なかった。
「僕はね、生まれ変わったんだ。今の僕は、偉大なマッド・ビィ様の忠実な僕。あの方のためなら、なんだってやるってだけさ」
ツィーガは恍惚とした表情で両手を広げ、芝居じみた口調で言った。
それを聞いて、おれはハッとする。
――ツィーガは、マッド・ビィに人格と意思を奪われたせいで、こんな別人みたいになっちゃったんじゃ……。
思い出したのは、ラーギ先輩に呪印を刻んだときにシディア様から聞いた話だった。
黒印によって人格と意思を奪われたものは、相手の従順な下僕になってしまう――確か、シディア様はそう話していた。
――もしかして……おれもそうなっちゃうの?
腕輪に刻まれた黒印に視線を向ける。
今はまだ自分の意識のままだけど、この腕輪の契約に同じ内容が含まれていたら、おれもツィーガのようになってしまうんだろうか。
――嫌だ、あんなふうになりたくない。
首を横に振りながら、おれはさらにあとずさる。
「……ツィーガ、お願い……正気に戻って」
「何を言っているの? バンくん。僕はいたって正気だよ。さ、無駄話はこのくらいにしておいて、〈地下〉へ向かおうか」
「い、嫌だ……!!」
「君に拒否権なんてあると思ってるの? バン、ついてこい」
「――っ!」
ツィーガの鋭い口調の命令に、身体が操られたように動き出す。
一刻でも早くここから逃げたいと思っている気持ちとは裏腹に、おれの足はツィーガのすぐ後ろに向かって進んだ。
「や、やだ……助けて、シディア様」
「助けを呼んでも無駄だよ。ここはもう、マッド・ビィ様の領域だからね。君の声は誰にも届かない――助けは絶対に来ないよ」
「う、嘘だ……だって、ここはまだ〈地下〉じゃないって」
「〈地下〉だけがマッド・ビィ様の領域だと思っていたの? 君は浅はかだね。マッド・ビィ様はあの簒奪者ガラディアークよりも強大な力を持ったお方なのだから、領域を奪えるのは当然だろう?」
――領域を奪う? それに、ガラディアーク様が簒奪者って……どういうこと?
ツィーガの言葉の意味を考えたかったけど、おれにそんな時間は残されていなかった。
操られる身体は、〈地下〉に繋がる通気口の入り口に足を踏み入れかけている。ぽっかりと黒い口を開いたそこは、絶望への入り口にしか見えなかった。
嫌だ。
怖い。
逃げたい。
おれの頭に浮かぶのは、そればっかりだ。
「ふふ、嫌そうな顔だね――でも〈地下〉へ行けば、君もすぐにマッド・ビィ様の素晴らしさがわかるようになるよ。自ら身体を差し出し、尽くすことに幸福感を覚え、身も心もあの方に弄ばれる悦びを、これからたくさん味わうことになるんだから」
鳥肌が止まらなかった。
自分が自分じゃないものにされて――それを悦びに感じるようになってしまったら、おれはこれまで築いた大切なものをすべて失ってしまう気がする。
――絶対に嫌だ。
想像しただけで、涙があふれて止まらなかった。
そんなおれを見ても、ツィーガは顔色一つ変えない。ぺろりと舌舐めずりをして、おれの背中に手を添えた。
「――ほら、黙って落ちろ」
冷たい声と共に、ドンッと強い力で突き飛ばされる。
通気口の中は下に向かって傾斜していて、バランスを失ったおれは、絶望にしか繋がっていない真っ暗な穴の中を勢いよく転がり落ちていった。
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