【完結】悪の幹部の息子に転生しました 〜首領様がえっちすぎて直視できません〜

コオリ

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86 誰も知らない場所で

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 優しい風が吹いていた。
 甘く爽やかな花の香りを纏った風だ。
 頬をそっと撫でる感触に、なぜか懐かしさと切なさを覚える。
 低く耳に心地のいい声に名前を呼ばれた気がして、おれは重い瞼をゆっくりと開いた。

「……ここ、は?」

 視界に飛び込んできたのは、あたたかみのある白色の天井と壁、それに光を透かしながらひらひらと穏やかに揺れているカーテンだ。
 顔を横に向けると、外に向かって開かれた窓が見える。
 窓際には小さな鉢植えがいくつも並んでいて、そのうちの一つが薄青色の小さな花を咲かせていた。

 ――ここ、どこだろう。

 目覚めてすぐに抱いた疑問の答えはまだ見つからない。
 何かヒントはないかと、窓とは反対側に視線を向けたおれは、自分の腕に細い管が繋がっているのに気づいて、ひゅっと喉を鳴らした。

「あ……あぁ……ッ」

 慌ててその管を抜こうとしたけど、腕が鉛のように重くて動きづらい。全身もあちこちが痛くて、寝返りを打つこともままならなかった。
 それでも腕に刺さる管をそのままにはしておきたくなくて、必死に身体を動かす。関節の痛みに呻いていると、誰かが部屋に駆け込んでくる足音がした。

「――バン、目が覚めたのか!?」

 声も身体も動きも、何もかもが大きな男の人だった。
 ベッドの上のおれを見て、目をまんまるに見開いたあと、ほっとしたような笑顔を浮かべる。
 近くにあった椅子に、どかりと腰を下ろした。

「……よかったよ。目が覚めて」

 心の底から安堵した声だった。
 しばらくその人の顔を見ていたけど、おれはハッとして腕に刺さった管に手を伸ばす。もうすぐで触れるところだったのに、気づいたその男の人に手首を掴まれてしまった。

「どうした? 点滴が嫌か?」
「っ、離して。これを抜かないとおれ……また、おかしくなる」
「混乱してんのか? これはあいつらが使ってたような怪しい薬じゃない。おかしくなんてならないから安心しろ」
「やっ……嫌だ」
「おい、急に動くなって。お前、十日も眠ってたんだぞ」

 腕を振り払おうとしたら、上から身体を押さえつけられた。そんなに強い力じゃないのに、どうやっても身体が動かない。
 それでも必死に抵抗を続けたけど、結局その人の腕をどけることはできなかった。

「ここはあの〈地下〉じゃない。わかるか?」
「……〈地下〉?」
「なんなら、お前が生まれ育った場所でもない。ここは人間の暮らす世界だからな」
「…………?」
「バン、大丈夫か?」

 その人の言っている言葉の意味が全く理解できない。
 わからないのは、それだけじゃなかった。

「その……バンっていうの、おれの名前?」
「は? お前……自分のことがわからないのか?」
「わからない。自分の名前も、あなたのことも、ここがどこなのかも…………何もわからない」

 おれには、これまでの記憶がなかった。



   ◆◆◆



「バンくんの体内からは十種類以上の薬物が検出されました。そのうえ、致死量の毒も使われた。身体に後遺症が出なかっただけ奇跡ですよ」

 おれの病室にやってきてカルテを見ながらそう淡々と説明したのは、おれを治療してくれたっていうシロガネ先生だ。
 さらさらの黒髪に銀縁眼鏡をかけた、三十代前半くらいの男性のお医者さん。神経質そうに見えるけど口調は優しくて、嫌な感じは全然しない。

「記憶が戻る見込みは? どうなんだ!?」

 ベッドに座って静かに話を聞いていたおれの代わりにそう詰め寄ったのは、おれが目覚めてすぐに病室にやってきた何もかもが大きな男の人――アカゾメさんだった。
 その大きすぎる声に、シロガネさんの眉間に深い皺が寄る。

「今から説明するので、急かさないでいただけますか?」

 シロガネさんはカルテをベッドの上に伏せると、眼鏡をくいっと持ち上げて、レンズ越しにじっとおれの顔を見た。

「あれから、何か思い出しましたか?」
「…………いいえ、何も」
「はっきりとしたものでなくて構いません。目を覚ます前のこと、ぼんやりとでも何かわかりませんか?」

 シロガネさんの二度目の質問にも、おれは首を横に振る。
 記憶がないと気づいたあと、自分でも何か思い出せることはないかって必死で頭の中を探ったけど、記憶の手がかりさえ見つけられていなかった。

「そうですか。やはり、今はなんとも言えませんね。これが一時的なものなのかどうかもですが――記憶喪失の原因が使われた薬や毒の影響なのか、心理的なものが原因なのかも、すぐには判断できません」
「そうか。心理的なものっつうのもあるのか……点滴も嫌がってたもんな。どうして怖いと感じるのかバンはわかってないみたいだったが、どう考えても〈地下〉でのトラウマが原因だろ」
「貴方も同じような目に遭ってきたと聞きましたが」
「まあな。だからこそ、忘れたいって気持ちがわからないでもないんだよ」

 どうやらおれは〈地下〉って呼ばれる場所で酷い目に遭わされたらしい。アカゾメさんは、そのトラウマがおれの記憶喪失の原因じゃないかって思っているみたいだった。
 何も思い出せないおれには、それもわからない。
 二人が話している内容が自分のことなのはわかるけど、まだあまり現実感がなかった。

「しばらくは様子を見るしかありませんね。そもそも怪人の患者を診るのはこれが初めてなので、僕も探りさぐりなんですよ」
「頼む。オレにはここのやつらしか頼れないからよ」

 アカゾメさんはそう言うと、シロガネさんに深々と頭を下げる。ベッドに座ったままだったけど、おれも一緒に頭を下げた。

「バンくん。体調に変化が起こった場合や、何か思い出したことがあれば、どんな些細なことでもいいので話してくださいね」
「はい、わかりました」
「では――僕は一度失礼します」
「オレもちょっと席外すわ」

 病室を出ていく二人の背中を見送る。
 部屋に一人になって心細くなったおれは、目覚めたときからずっとベッド横に置いてあった黒いコートを手元に引き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。
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