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第三幕*赤く光る狂気と愛を求めた半魔
03
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「少し休憩しましょうか」
その声が聞こえるまで、エランは無心で掃除を続けていた。
いや、雑念を払うことに必死だったので無心とは違う。ただひたすらに目の前の椅子を磨くことだけを考えていた。
ずっと曲げっぱなしだった体を伸ばすと、背骨がぱきりと音を鳴らす。
下ばかりを向いていた首も随分と凝り固まっていたようで、ぐるりと回すとこちらからも小気味のいい音がした。
―――そういえば、あの角は重くないのだろうか。
ふと、同じように下を向いて作業をしていた老人のことが気になった。
シュカリの頭には大きな二本の巻き角がある。
大きさや形状からして、その角は随分と重たそうに見えた。
「その角…………あ、いや」
気が緩んでしまっていたのか、考えていたことがぽろりと勝手に口から零れる。
すぐに気づいて誤魔化したが、エランの声はシュカリの耳に届いてしまったあとだったらしい。
老人が首を傾げてエランの方を見上げている。
その顔に笑顔は浮かんでいなかった。
「私の角が、どうかなさいましたか?」
「いや……その…………」
シュカリの声は心なしか、冷たいように聞こえた。
今までの優しい声色と違うそれに、エランは少し焦りを覚えた。どうやら角については触れない方がよかったらしい。
エランも触れるつもりなどなかった。うっかり口から出てしまっだけなのだ。
だが、一度口に出してしまった言葉は取り消せない。
必死で取り繕う方法を考えるが、全く何も思いつかなかった。
「その、……何でしょうか?」
沈黙を続けるエランに、シュカリがさらに声の温度を下げた。
何でもない、などと言って信じてもらえる状況ではなさそうだった。
「…………重くはないのか、と思って」
口に出してみると、自分の疑問が滑稽で馬鹿げていることは明確だった。
だが、これ以上黙ったまま、シュカリの冷たい声を聞かされるのも耐えられなかった。
エランは小さく早口でそう言ったあと、怒られた子供のように下を向く。
俯いた頭は暫く上げられそうになかった。
暫しの沈黙のあと、ぷっと聞きなれない音が聞こえた。
何の音かと視線だけを上げて確認する。
すると、何故かシュカリが体を小刻みに震わせていた。
小柄な体をさらに小さく折って―――どうやら笑っているようだ。
さっきの音はシュカリが噴き出した声だったらしい。
「何を言われるのかと思えば、そんなこと……っ、ふふ、失礼いたしました。はは、すみません。まさかそんなことを言われるとは、想像もしていなかったので」
「…………」
シュカリはそういうと、更に体を震わせた。
必死で笑うのを堪えようとしているが、うまくいかないようだ。
あまりの笑われように、エランはどんな顔をしていいのかわからない。一緒に笑えばいいのかもしれないが、それも難しい。
居たたまれないような何とも言えない気持ちに、眉間に勝手に皺が寄る。
―――どうしたら、いいんだ。
シュカリの笑いはなかなか治まらないようだ。
そんなシュカリをじっと見ているわけにもいかず、エランは視線を彷徨わせる。
居心地の悪さにここから逃げ出したい気持ちにすらなる。
ひとしきり笑ってようやく落ち着いたのか、シュカリが「すみません」と言って、笑いを収めた。
小さく咳払いをして、エランの方を見る。
優しい笑顔だった。
「―――重いと思ったことはありませんよ。例えるなら、そうですね。エランくんは自分の腕が重いと感じたことはありますか?」
「…………ない」
「そうでしょう? 私もそうです。この角は生まれついたものですので、あまり重さを意識したことはありません」
「そう、なのか……」
まさか、そんな丁寧に返されるとは思っていなかった。
さっきまでの笑いようからいって、軽く流されるのだと思っていたのに。
自分の聞いたことだというのに、その回答に対してうまい返しもできなかった。
困ったような表情でいつも以上に不愛想な相槌を打つエランに、シュカリはふふと笑いを漏らす。
「エランくんは本当に可愛らしいですね」
その言葉にエランはぎゅっと眉を顰めた。
それは反射的なもので、エラン本人も気づいていない。
だが、シュカリはエランの表情の変化に気づいたらしく、おや? と言葉を零した。
「……もしかしてそう言われるのはお嫌いでしたか?」
「…………」
シュカリの言う通りだった。
確かに、エランは「可愛い」と言われるのが苦手だ。
そんな風に話しかけてきた相手に良い思い出などほとんどない。いや、あるのは悪い思い出ばかりだ。
今でこそ、自分を馬鹿にしてくる相手に対抗するだけの力を得たが、冒険者になりたての頃は本当に酷かった。
お嬢ちゃん、お姫さんなど嬉しくもないあだ名で呼ばれ、思い出しくもないような酷い扱いを受けそうになったことが何度もある。
そういう相手は決まって最初にエランを「可愛い顔だ」と褒めるのだ。
「……まぁ、確かにその容姿ならば、色々と苦労がおありだったのかとは思いますが……今のは、そうですね。容姿ではなく、その性格のことだったのですが」
「……性格が、可愛い?」
その声が聞こえるまで、エランは無心で掃除を続けていた。
いや、雑念を払うことに必死だったので無心とは違う。ただひたすらに目の前の椅子を磨くことだけを考えていた。
ずっと曲げっぱなしだった体を伸ばすと、背骨がぱきりと音を鳴らす。
下ばかりを向いていた首も随分と凝り固まっていたようで、ぐるりと回すとこちらからも小気味のいい音がした。
―――そういえば、あの角は重くないのだろうか。
ふと、同じように下を向いて作業をしていた老人のことが気になった。
シュカリの頭には大きな二本の巻き角がある。
大きさや形状からして、その角は随分と重たそうに見えた。
「その角…………あ、いや」
気が緩んでしまっていたのか、考えていたことがぽろりと勝手に口から零れる。
すぐに気づいて誤魔化したが、エランの声はシュカリの耳に届いてしまったあとだったらしい。
老人が首を傾げてエランの方を見上げている。
その顔に笑顔は浮かんでいなかった。
「私の角が、どうかなさいましたか?」
「いや……その…………」
シュカリの声は心なしか、冷たいように聞こえた。
今までの優しい声色と違うそれに、エランは少し焦りを覚えた。どうやら角については触れない方がよかったらしい。
エランも触れるつもりなどなかった。うっかり口から出てしまっだけなのだ。
だが、一度口に出してしまった言葉は取り消せない。
必死で取り繕う方法を考えるが、全く何も思いつかなかった。
「その、……何でしょうか?」
沈黙を続けるエランに、シュカリがさらに声の温度を下げた。
何でもない、などと言って信じてもらえる状況ではなさそうだった。
「…………重くはないのか、と思って」
口に出してみると、自分の疑問が滑稽で馬鹿げていることは明確だった。
だが、これ以上黙ったまま、シュカリの冷たい声を聞かされるのも耐えられなかった。
エランは小さく早口でそう言ったあと、怒られた子供のように下を向く。
俯いた頭は暫く上げられそうになかった。
暫しの沈黙のあと、ぷっと聞きなれない音が聞こえた。
何の音かと視線だけを上げて確認する。
すると、何故かシュカリが体を小刻みに震わせていた。
小柄な体をさらに小さく折って―――どうやら笑っているようだ。
さっきの音はシュカリが噴き出した声だったらしい。
「何を言われるのかと思えば、そんなこと……っ、ふふ、失礼いたしました。はは、すみません。まさかそんなことを言われるとは、想像もしていなかったので」
「…………」
シュカリはそういうと、更に体を震わせた。
必死で笑うのを堪えようとしているが、うまくいかないようだ。
あまりの笑われように、エランはどんな顔をしていいのかわからない。一緒に笑えばいいのかもしれないが、それも難しい。
居たたまれないような何とも言えない気持ちに、眉間に勝手に皺が寄る。
―――どうしたら、いいんだ。
シュカリの笑いはなかなか治まらないようだ。
そんなシュカリをじっと見ているわけにもいかず、エランは視線を彷徨わせる。
居心地の悪さにここから逃げ出したい気持ちにすらなる。
ひとしきり笑ってようやく落ち着いたのか、シュカリが「すみません」と言って、笑いを収めた。
小さく咳払いをして、エランの方を見る。
優しい笑顔だった。
「―――重いと思ったことはありませんよ。例えるなら、そうですね。エランくんは自分の腕が重いと感じたことはありますか?」
「…………ない」
「そうでしょう? 私もそうです。この角は生まれついたものですので、あまり重さを意識したことはありません」
「そう、なのか……」
まさか、そんな丁寧に返されるとは思っていなかった。
さっきまでの笑いようからいって、軽く流されるのだと思っていたのに。
自分の聞いたことだというのに、その回答に対してうまい返しもできなかった。
困ったような表情でいつも以上に不愛想な相槌を打つエランに、シュカリはふふと笑いを漏らす。
「エランくんは本当に可愛らしいですね」
その言葉にエランはぎゅっと眉を顰めた。
それは反射的なもので、エラン本人も気づいていない。
だが、シュカリはエランの表情の変化に気づいたらしく、おや? と言葉を零した。
「……もしかしてそう言われるのはお嫌いでしたか?」
「…………」
シュカリの言う通りだった。
確かに、エランは「可愛い」と言われるのが苦手だ。
そんな風に話しかけてきた相手に良い思い出などほとんどない。いや、あるのは悪い思い出ばかりだ。
今でこそ、自分を馬鹿にしてくる相手に対抗するだけの力を得たが、冒険者になりたての頃は本当に酷かった。
お嬢ちゃん、お姫さんなど嬉しくもないあだ名で呼ばれ、思い出しくもないような酷い扱いを受けそうになったことが何度もある。
そういう相手は決まって最初にエランを「可愛い顔だ」と褒めるのだ。
「……まぁ、確かにその容姿ならば、色々と苦労がおありだったのかとは思いますが……今のは、そうですね。容姿ではなく、その性格のことだったのですが」
「……性格が、可愛い?」
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