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16.気の毒に、とため息を吐く

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 しかしわざわざ屋上まで登ってやや見下ろす形で覗いたA組の様子は、意気込んでいた浮月さんの期待を少なからず裏切るようなものだった。

「退屈ですね、星田くん」
「……そうだね」

 A組の生徒たちは僕らが予想した以上の勤勉さを見せて、授業を受けていた。とは言えその違和感が完全に抜けたわけでもなく、朝からのぎこちなさを過剰に引きずっていて、誰一人として黒板から目を離すものがいない。そのためか、科目を担当する哀れな数学教師は若干威圧され気味だった。

「いつも通りでないのは確かなのですが」
「目立った行動をするというわけでもないし」
「これで警察や救急車を呼ぶのも変ですよね」
「かと言って、上手いこと騒ぎ立てようにも、どう言葉にすれば良いのかわからない」

 彼らの様子が何だかおかしい。どこか虚ろで人が変わってしまったみたいだ、なんて。

 そんな曖昧な言い方ではたぶん、どんな対策も引き起こせはしない。

 表現とはすなわち伝達の可能性だ。明らかな異変が目の前で起こっていても、その言語化が困難ならば拡散力は生まれず、多人数が団結して対処に当たることは極端に難しくなる。この感染がそういったある種の伝達のしにくさまで織り込み済みで、あえてゆっくりと展開しているなら、感染源にいるはずの何かはたぶん相当に底意地が悪い。

「ちょっとしたホラーテンプレですよ」
「周囲は余程不気味に感じているだろうね」

 気の毒に、と二人でため息を吐く。

 そんな益体もない話をしているうちに、聞き慣れた鐘の音が鳴り渡って本日最後の授業が終わり、ホームルームのためにA組の担任が入ってくる。

 あら、と浮月さんが声を上げた。

「あの人はまだ感染してないみたいですね」

 彼女が指し示した通り、担任教師はどうやら自分だけが取り残されたクラスの急変に怯えている様子だった。間違いなくそのせいだろうけれど、いつもなら頼まれても長引かせるホームルームを、今日ばかりはどうにか異例の早さで終わらせようと試みているらしかった。

「てっきりあの先生も、昨日すでに殺されたものかと思っていたのですが」
「違っていたみたいだね」
「もし私が感染源だったらあの人こそ真っ先に感染させるのですけどね」
「大人だから、だよね」
「そうです。多くの障害を排除するのに役立ちます」と、しかし彼女はそこで首を傾げた。「でも逆にそれがネックになっているのかも」
「簡単に消えると困る?」
「責任ある立場でしょうから」

 担任教師ともなれば放課後に断りなく直帰してしまった場合、生徒らと違って、サボりくらいの認識で許されるものでもないだろうというのが浮月さんの主張だった。ならば機会として狙うべきは担任自身が帰宅するタイミングで、思い返してみれば昨日のその時間帯、襲撃者だったはずの白地さんは僕らの拘束下で伸びていた。

 そうこうしているうちに、当の担任は慣れない短さのホームルームを終え、職員室へと引っ込んで行く。

 さて生徒らがどうするのかと僕らは身構えたけれど、ここでも彼らは予想に反する行動を取る。彼らは集団で固まるでもなく、三々五々に教室から少しずつ出て行くみたいだった。

 それはさながら部活や帰路へと向かういつも通りの光景のようで。

「一昨日が白地さん一人。昨日がA組全員となれば、今日は二年全員を皆殺しにでもするのかと思っていたけれど」

 違ったみたいと言いかけたのを遮って。

「あら、でも。やるみたいですよ」

 そう言って浮月さんが指差したのは隣の教室。B組の窓。そこのホームルーム直後に侵入した五人はA組に残っていた生徒らで、目を凝らして見るとそのうちの一人は白地さんだった。

 彼女たちの突然の訪問に停止したB組の面々は、そのまま惨殺される。

 昨日のつまらない再現を見ているかのようだった。

 一通り殺害すると白地さんらはそれ以上隣のクラスへと続けることもなく、出て行った。次の目標は別にあるような足取りだった。

 身構えた割りに何をすることもできなかった僕らは、互いに顔を見合わせた。

 浮月さんが先に苦笑した。

「星田くんは、どうしてB組だけだったと思います?」
「B組以外、人が残っていなかったからだろうね」

 ぱっと見渡してみても、他のクラスはすでにホームルームを終えていて、最後まで残っていたのがB組だったのだ。

「私もそうだと思います。やはり隠密性を大切にしていて、そのため、遅くまで残っている人間を優先的に削っているのだと思います」
「じゃあ、先に帰った他のA組メンバーは」
「恐らくそれぞれの部活でしょうね。昇降口から出ていったのも数人いましたから、そちらは恐らく帰宅部の皆さんでしょう。基本的には普段通りの放課後を模倣しているみたいです。ただもしかしたら、部活へと行った方々はそれだけで済まさずに、遅くまで残っている生徒を殺したりするのかもしれません」
「何だか本当に学校の怪談っぽくなってきたね」
「これが学校の怪談なら、二三人の消失で満足して成仏して欲しいところですけど」

 と、浮月さんは微笑みを溶かして呟く。

「思ったより派手に動いてきますね」

 僕はその言葉に首を傾げる。

「そうかな、これでも抑えている方じゃない? 結局襲ったのもB組だけだったし」

 一人でクラスを壊滅させられる力があるなら、五人で二年の全クラスを襲ったって良かったはずなのだ。

「担任がある種の足枷なのかもしれません。教師を殺すとその教師が放課後、無断帰宅したということになります。その数が変に多ければ他の学年の教師たちに不審に思われます」
「あぁ、そうか」

 だからこそ担任が職員室へと帰ったあとの隣のクラスを襲ったのだし、最後まで残っていたクラスを選んだのもそのためだろう。

「いえ、ちょっと待ってください。でもそれなら、まず先に二年の教師全員を帰宅時に襲って殺して、次にその教師が受け持つクラスを殺戮するという方が順番として正しいのかもですね」
「つまり本来なら、昨日の時点でうちの学年の教師らを全員殺していたはずだった?」
「とするなら、それも私たちが邪魔したことになります」

 全体的にこちらが後手に回っていた印象だったけど、存外結果的には浮月さんのデタラメな行動力が功を奏しているのかもしれない。とは言え、昨日時点で感染していたのは白地さんのみだったからこそ、その感染拡大は彼女を抑えるだけで止まっていた。だけど今日はもうその手も使えない。

 そんな旨を口に出してみたところ。

「それならもう一度、先手を取れば良いだけの話です」、と。
「……具体的には?」
「もちろん、職員室に先回りです」

 浮月さんはフェンスを押し込むようにして身体を起こした。
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