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第55話 境界の湖
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重く軋む扉を押し開けた瞬間、湿った空気が肌を撫でた。
地下に降りる階段は、まるで土の中を潜るように深く、息を吸うたびに土と鉄錆の匂いが胸に滲み込む。
「……ここ、何なの?」
美奈の声が震えた。
薄明かりの中、春香は古びた壁の刻印に手を触れた。
それは、見覚えのある紋様──紅葉が幼い頃、森の奥で拾ってきた小石に刻まれていたものと、まったく同じだった。
「“祈祷の間”だと……古沢さんが言ってた。昔は“贄の洞”って呼ばれてたらしい」
祐真の声は低く、硬かった。
懐中電灯の光がゆっくりと奥を照らすと、祭壇のような石台が現れ、その上には無数の赤い紙片が散っていた。
それは祈願札。どれも古びて、墨が滲み、判読できない。
「ここで、何をしてたの?」
美奈が問う。
春香は答えられず、ただ胸の奥で鈍く疼く感覚に目を細めた。
──美桜を失ったあの日も、秋の風がこんな匂いを運んできた。
古沢住職の言葉が脳裏によみがえる。
“呼ばれた子は、森に還る。紅葉とはその印だ”。
祭壇の傍らに、奇妙な水溜りがあった。
地下なのに、水が澄みきっている。光を反射して揺らめくその表面には、確かに“森の木々”が映っていた。
「……湖?」
美奈が近寄り、覗き込む。
だがそこに映るのは森だけではなかった。
春香は息を呑む。
水面に、白い浴衣を着た少女が立っていた。
紅葉──。
「く、紅葉……!」
春香が手を伸ばした瞬間、水面が波打ち、冷気が爆ぜた。
次の瞬間、少女の顔が近づく。
その唇が動く。音はない。
だが、美奈には聞こえた。
──“お母さん、わたし、選ばれたの”。
祐真が慌てて春香を引き戻した。
「離れてください!」
春香の足元で、水が膨れ上がり、泡立つように形を変えていく。
人の形──いや、影の群れだった。
無数の小さな手が、湖面の下から伸び、空を掴もうと蠢いていた。
祐真は必死に懐中電灯を向ける。光が当たると、影はゆっくりと退いていった。
「これは……」
「二十年前に、ここで……儀式があったんだ」
祐真は唇を噛んだ。
「失踪した子どもたちは“森の怒りを鎮める贄”として選ばれていた。──美桜ちゃんも、紅葉ちゃんも」
春香の顔から血の気が引いた。
「そんな……うそ……!」
「でも、紅葉は……選ばれる前に、知ってしまったんだと思う。
“誰かが自分を呼んでいる”ことを」
美奈が震える声で言った。
「秋祭りの夜、紅葉、言ってたの。“私たちの声、聞こえてるって。……みんな、まだ森にいる”って」
その瞬間、地下全体が低く唸った。
祭壇の灯がふっと消え、闇の中で水面が不気味に光りだす。
その光は、紅葉の名を呼ぶように脈打ち、春香の足を掴んだ影が、再び動き出した。
「……呼ばれてる……また、あの森が……」
春香の声は、涙とも震えともつかぬ響きで、闇に溶けていった。
地下に降りる階段は、まるで土の中を潜るように深く、息を吸うたびに土と鉄錆の匂いが胸に滲み込む。
「……ここ、何なの?」
美奈の声が震えた。
薄明かりの中、春香は古びた壁の刻印に手を触れた。
それは、見覚えのある紋様──紅葉が幼い頃、森の奥で拾ってきた小石に刻まれていたものと、まったく同じだった。
「“祈祷の間”だと……古沢さんが言ってた。昔は“贄の洞”って呼ばれてたらしい」
祐真の声は低く、硬かった。
懐中電灯の光がゆっくりと奥を照らすと、祭壇のような石台が現れ、その上には無数の赤い紙片が散っていた。
それは祈願札。どれも古びて、墨が滲み、判読できない。
「ここで、何をしてたの?」
美奈が問う。
春香は答えられず、ただ胸の奥で鈍く疼く感覚に目を細めた。
──美桜を失ったあの日も、秋の風がこんな匂いを運んできた。
古沢住職の言葉が脳裏によみがえる。
“呼ばれた子は、森に還る。紅葉とはその印だ”。
祭壇の傍らに、奇妙な水溜りがあった。
地下なのに、水が澄みきっている。光を反射して揺らめくその表面には、確かに“森の木々”が映っていた。
「……湖?」
美奈が近寄り、覗き込む。
だがそこに映るのは森だけではなかった。
春香は息を呑む。
水面に、白い浴衣を着た少女が立っていた。
紅葉──。
「く、紅葉……!」
春香が手を伸ばした瞬間、水面が波打ち、冷気が爆ぜた。
次の瞬間、少女の顔が近づく。
その唇が動く。音はない。
だが、美奈には聞こえた。
──“お母さん、わたし、選ばれたの”。
祐真が慌てて春香を引き戻した。
「離れてください!」
春香の足元で、水が膨れ上がり、泡立つように形を変えていく。
人の形──いや、影の群れだった。
無数の小さな手が、湖面の下から伸び、空を掴もうと蠢いていた。
祐真は必死に懐中電灯を向ける。光が当たると、影はゆっくりと退いていった。
「これは……」
「二十年前に、ここで……儀式があったんだ」
祐真は唇を噛んだ。
「失踪した子どもたちは“森の怒りを鎮める贄”として選ばれていた。──美桜ちゃんも、紅葉ちゃんも」
春香の顔から血の気が引いた。
「そんな……うそ……!」
「でも、紅葉は……選ばれる前に、知ってしまったんだと思う。
“誰かが自分を呼んでいる”ことを」
美奈が震える声で言った。
「秋祭りの夜、紅葉、言ってたの。“私たちの声、聞こえてるって。……みんな、まだ森にいる”って」
その瞬間、地下全体が低く唸った。
祭壇の灯がふっと消え、闇の中で水面が不気味に光りだす。
その光は、紅葉の名を呼ぶように脈打ち、春香の足を掴んだ影が、再び動き出した。
「……呼ばれてる……また、あの森が……」
春香の声は、涙とも震えともつかぬ響きで、闇に溶けていった。
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