紅葉-くれは-

菊池まりな

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第82話 封印の鏡

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闇を裂くように走る懐中電灯の光。
 森の中を逃げる三人の足音が、湿った土を叩く。
 背後から追ってくるのは、確かに“人の形”をしていた何か。
 だが、振り返る勇気を誰も持てなかった。

 春香の手を引きながら祐真が叫ぶ。
 「こっちです! この先に旧神社跡がある!」
 息を切らしながらも、祐真の目は鋭く森の奥を見据えていた。
 あの祠を見たのは、子供の頃──たった一度だけ。
 橘美桜が消えた日の夕方、同じ森の奥で。

 ──“呼ばれて”いた。
 その時の冷たい風の匂いが、今も記憶の奥底にこびりついている。

 倒れかけた鳥居をくぐり抜けた瞬間、世界が急に静まり返った。
 音が消えた。
 風も止まり、鈴虫の声さえ途絶える。
 まるでここだけが、別の時間に閉ざされたようだった。

 崩れた石段の上に、小さな祠がある。
 苔に覆われた扉は半ば壊れ、その奥に――黒く光る“鏡”が鎮座していた。
 大人の顔ほどの大きさ。
 縁は朱塗りの木で、だが長年の風雨に剥げ落ち、血のような赤錆が浮かんでいる。

 「……これが、封印の鏡……?」
 美奈の声が震えた。
 春香は無言でうなずく。
 「私が……二十年前、これを使ったの。
 この鏡に映った“願い”は叶う。けれど、代わりに──」

 その続きを言い切る前に、祐真が低く呟いた。
 「代わりに、誰かが奪われるんですね」

 春香はうつむいたまま、頷いた。
 「美桜を返してほしくて……あの夜、鏡を覗いたの。
 鏡には、確かにあの子の姿が映った。
 でも……次の瞬間、美桜の姿と一緒に、村の子が一人……消えたの」

 「……それが、祐真さんじゃないんですか?」
 美奈が息を呑んで問うた。
 祐真は首を横に振りながら、目を伏せる。
 「俺はその時……何かを見て、記憶を失ったんです。
 ただ、覚えてるんです。鏡の中の子供たちの顔。
 ……俺が助けられなかった子たちの顔を」

 祐真の懐中電灯が、祠の奥を照らす。
 鏡の表面に、何かが“浮かんでいた”。
 小さな手形が無数に押され、まるで中から外に出ようとしているように見える。
 手形のひとつが、ゆっくりと“動いた”。

 「……祐真……お兄ちゃん」
 低い声が、鏡の中から響いた。
 祐真の顔が凍りつく。
 「……まさか……」
 「覚えてる? あの夜、私を置いていったの」

 声は確かに、幼い女の子のものだった。
 春香が息を呑む。
 「美桜……?」
 祐真は、目の奥が熱くなるのを感じた。
 「俺は……助けたかった……! でも、あの時──!」

 その瞬間、鏡の表面が波打った。
 黒い水面のように揺れ、無数の影が浮かび上がる。
 その中に、赤い着物を着た少女の姿。
 ──紅葉だった。

 紅葉は鏡の向こうで、ゆっくりと微笑んでいた。
 「お母さん……返したよ」
 春香の心臓が止まるような痛みとともに、彼女の身体が祠の方へ吸い寄せられる。

「春香さん!」
 祐真が叫び、腕を掴んだ。
 だが鏡から伸びた“何か”が、春香の足首を絡め取る。
 白く細い腕──それは紅葉のものに見えた。
 「お母さん、もう大丈夫。今度は私が行く番」

 祐真が銃を抜こうとした瞬間、鏡の中から“鈴の音”が鳴った。
 チリ……ン。
 音と同時に、祠全体が悲鳴を上げるように軋んだ。

 美奈が泣き叫ぶ。
 「紅葉ちゃん、やめて! 戻ってきて!」
 紅葉の目が、一瞬だけ美奈を見た。
 涙のような光が頬を伝い、そして──その姿は闇に溶けた。

 鏡が、静かに割れた。
 祠の中に、風が吹き抜ける。
 鈴の音だけが、長く長く、夜の森に響いていた。

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