紅葉-くれは-

菊池まりな

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第86話 森が呼んでいる

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夜が深くなるにつれて、森の匂いが濃くなっていった。湿った土と、どこか焦げたような匂い。春香は懐中電灯を握り直しながら、後ろを振り返る。
 すぐ後ろに、祐真がいる。彼は懐中電灯を下向きに構え、足跡を確かめるように歩いていた。そのさらに後ろ、美奈が小さく息を呑みながらついてくる。

「……春香さん、こんな夜更けに森へ入るなんて、本当に大丈夫なんですか」
「もう、引き返せないわ。あの『影』を見たでしょう? 紅葉が、まだどこかにいるかもしれないの」

 春香の声には焦りと決意が入り混じっていた。
 森の奥で、木々が不気味にざわめく。まるで彼らの足音を追うように、風が尾を引いた。

 やがて、祐真が足を止める。
「……見てください。ここ、誰かが最近、出入りしている形跡があります」

 懐中電灯の光が照らしたのは、ぬかるみに刻まれた靴跡だった。
 しかも──それは、子どもの小さな足跡と、大人のものが並んでいた。

「こんな夜中に……子ども?」
 美奈の声が震える。
 春香の胸に、鋭い痛みが走った。
 ──まさか、美桜?

 息を飲む彼女の前で、祐真がしゃがみ込み、足跡を指先でなぞる。
「新しい。少なくとも数時間以内ですね。ここから奥に向かってます」

「行きましょう」
 春香はためらわず言った。

 しかし、一歩踏み出した瞬間、耳の奥で“鈴の音”が微かに響いた。
 チリ……ン、と、森の闇の中から。
 懐中電灯を左右に振っても、何も見えない。だが、確かに聞こえた。

「今の……紅葉の……?」
 美奈の唇が震えた。あの鈴の音は、紅葉が最後につけていた髪飾りの音と同じだった。

 春香は、祐真を見た。祐真は眉をひそめ、無言でうなずく。
 ──もう、戻れない。

 三人は、音のする方へ歩き出した。
 森はますます深くなり、空の月が枝の隙間から細く覗く。
 風のないはずの夜に、木々の葉が揺れ、かすかに囁いた。

 「かえして……」

 誰かの声が、春香の背後で囁いた。
 振り返ると、そこには誰もいない。
 ただ、足元の土が、ぽたりと濡れていた。
 雨でもない。露でもない。
 それは、涙のように見えた。

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