群青色-まだ名前のない色-

菊池まりな

文字の大きさ
69 / 126

第69話 光を描く場所

しおりを挟む
翌週の放課後。
美術室の窓の外では、沈みかけた陽が桜の若葉を透かしていた。
春の終わりを告げるような風が、カーテンをやさしく揺らしている。

私はその光を見つめながら、いつものように筆を走らせていた。
キャンバスの中心には、まだ名前のない群青。
けれど、前よりもずっと穏やかで、柔らかい色をしている気がした。

「水瀬、少しいいか?」

振り向くと、ドアのところに紺野先生が立っていた。
少し無精ひげを残した顔に、どこか嬉しそうな笑みを浮かべている。
先生は私の絵の前まで来ると、しばらく無言で眺めた。

「……変わったな。」
「え?」
「この絵だ。前よりもずっと“呼吸”をしている。
 おまえの迷いが消えたというか、芯が見えるようになった。」

私は少し頬が熱くなるのを感じた。
「そんな……まだ全然未完成で。」
「未完成だからいいんだよ。完成した作品なんて、この世にひとつもない。
 だから、俺たちは描き続ける。」

先生は机の上から出品要項の紙を取り出し、私の前に置いた。
「──美術コンクール、出してみろ。」
「えっ……これ、県の?」
「そうだ。おまえの絵なら十分に通用する。いや、そういう結果の話じゃない。
 人に見せてみろ。自分の描いた“世界”を。」

私は紙を見つめたまま、しばらく言葉が出なかった。
絵を誰かに見せること。
それは、心の奥を見せることと同じで、怖かった。

だけど、あのとき澪が言ってくれた──「息してる」って言葉が蘇る。
千尋の「伝えたい何かがあるから描くんだよ」という声も。

「……やってみます。」

口にした瞬間、自分でも驚くほど、心がすっと軽くなった。
先生が少し目を細める。
「そうか。水瀬、おまえらしいな。」

その夜、帰り道の途中で、スマホが震えた。
メッセージの送り主は陸だった。

> 『紺野先生から聞いた。すげえじゃん、コンクール出すって。
全力で応援するからな。完成したら見せてくれよ。』



思わず笑ってしまう。
続けて澪からもメッセージが届いた。

> 『やったね、蒼! 絶対見に行く。あたしも、ちょっと誇らしい。』



そして、文芸部の千尋からは短い一文。

> 『“群青色”、どんな言葉をまとっていくのか、楽しみにしてる。』



スマホの光に照らされながら、私は空を見上げた。
暮れかけた群青の空。
まるでキャンバスの続きを、世界が描いてくれているみたいだった。

「……ありがとう、みんな。」

その夜、私はアトリエ代わりの部屋の机に向かい、筆をとった。
静かな部屋に、筆の音と心臓の鼓動だけが響く。
この色の名前を見つけるために。
そして、自分自身を描くために。

──“群青色”は、少しずつ、言葉をまとい始めていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

✿ 私は彼のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい 

設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント100万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀ 結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。 結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。 それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて しなかった。 呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。 それなのに、私と別れたくないなんて信じられない 世迷言を言ってくる夫。 だめだめ、信用できないからね~。 さようなら。 *******.✿..✿.******* ◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才   会社員 ◇ 日比野ひまり 32才 ◇ 石田唯    29才          滉星の同僚 ◇新堂冬也    25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社) 2025.4.11 完結 25649字 

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...