大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

菊池まりな

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第156話 決まった、とは言われなかった

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それは、午後三時を少し過ぎた頃だった。

「平田、少し時間いいか」

課長の声は、いつもより低かった。

嵩は一瞬だけ手を止めてから、頷いた。

「はい」

会議室は使われていて、場所は給湯室の奥。
半分、人目を避けるような位置。

その時点で、ほぼ分かっていた。

「……単刀直入に言う」

課長は、周囲を一度見回してから言った。

「来月付けで、地方支社への異動。
 最終承認待ちだが、覆る可能性は低い」

“ほぼ確定”。

その言葉は使われなかった。

でも、言われなくても十分だった。

「期間は?」

「最低二年。
 戻りは……正直、未定だ」

嵩は、ゆっくり息を吸った。

頭の中は、驚くほど静かだった。

動揺よりも先に、整理が始まっている。

「業務内容は?」

「今の担当を引き継ぎつつ、向こうで立ち上げを任せたい。
 お前なら適任だ」

──評価だ。

紛れもなく。

でも、胸が重くなる。

「正式発表までは、まだ言わないでほしい」

課長はそう言った。

「噂は出るだろうが、本人から漏れるのは避けたい。

 ……私情があるなら、なおさらだ」

その一言で、全てを見抜かれていると分かった。

「……分かりました」

嵩は、それだけ答えた。

席に戻る途中、足取りが自分のものじゃない気がした。

(来月)

頭の中で、何度も反芻する。

朱里の顔が浮かぶ。

昨日の夜、駅前で言われた声。

──「逃げないで、言いたいです」

言われた。

約束した。

でも、この事実を、今すぐ渡すのは違う。

(まだ、心の準備をさせていない)

定時までの数時間は、妙に長かった。

仕事はこなせる。

数字も読める。

会話もできる。

でも、常に一枚、別の現実が重なっている。

定時。

「平田さん」

声をかけられて、振り向く。

朱里だった。

昨日より、少しだけ落ち着いた顔。

でも、その奥にある不安も、嵩には見えてしまう。

「……帰れそう?」

問いは、軽い。

でも、願いが混じっている。

嵩は、頷いた。

「うん。一緒に」

歩き出してから、朱里は言った。

「今日、ちょっと職場の空気、違いましたね」

「……うん」

「人事の話、現実味、ありました」

嵩は、言葉を探した。

嘘はつきたくない。

でも、今、全部を言う準備も整っていない。

「……俺は、今日、少し話を聞いた」

朱里の足が、わずかに止まる。

「少し、ですか」

「正式じゃない。
 でも……近いうちに、ちゃんと話す」

朱里は、黙って歩き続ける。

逃げていない。

でも、耐えている。

それが分かるから、胸が痛む。

「朱里」

初めて、名前で呼んだ。

朱里が、驚いたように顔を上げる。

「決まったら、俺から言う。
 人づてじゃなく、噂でもなく」

「……はい」

「その時、ちゃんと──」

言いかけて、言葉を止めた。

“選択肢”という言葉が、喉に引っかかったから。

代わりに、こう言った。

「一緒に考えたい」

朱里は、少しだけ笑った。

怖さを隠す笑いだった。

「……それなら、待てます」

その一言が、嵩の胸を締めつける。

(待たせてしまう)

ほぼ確定している未来と、

今、隣にある時間。

どちらも、失いたくない。

その夜。

嵩は一人、スマホを見つめていた。

連絡すれば、楽になる。

でも、送らない。

“決定”という言葉を、

まだ朱里に渡したくなかった。

それは逃げじゃない。

準備だと、自分に言い聞かせながら。
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