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第162話 言われていないことほど、よく伝わる
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午後のオフィスは、いつも通りのはずだった。
キーボードの音。
電話の呼び出し音。
コピー機の低い唸り。
なのに──朱里には、全部が少しだけ遠かった。
(……何も言われてない)
(誰にも、何も)
それなのに。
自席に戻る途中、視線を感じる。
誰かが見ている、というより
誰もが、見ないようにしている感じ。
「中谷先輩」
声をかけてきたのは、瑠奈だった。
いつもより、ほんの少しだけ声量が抑えめ。
「この資料、確認お願いしてもいいですか?」
「……うん、いいよ」
受け取りながら、瑠奈の目を見る。
探るようでも、疑うようでもない。
でも、いつもより“距離を測る目”。
「ありがとうございます」
そう言って戻っていく背中が、妙に真っ直ぐだった。
(……勘のいい後輩って、怖い)
席に着くと、隣の部署の会話が耳に入る。
「平田さん、午後外出だっけ?」
「いや、今日はずっと社内のはず」
──嵩の名前が出るだけで、心臓が反応する。
(ダメだ、仕事、仕事)
画面に視線を戻す。
数字を追う。
文章を読む。
……読んでいるはずなのに、頭に入ってこない。
その時。
「中谷さん」
今度は、美鈴だった。
立ったまま、感情の見えない顔。
「少し、いい?」
「……はい」
応接室、ではなかった。
給湯室の前。
誰も長居しない、でも完全な密室でもない場所。
「さっきの会議室」
核心を、いきなり突いてくる。
「平田さんと、二人だったわね」
否定しようと思えば、できた。
でも──しなかった。
「……はい」
美鈴は、それ以上聞かない。
「転勤の話?」
朱里は、一瞬だけ迷ってから頷いた。
「……告げられました」
美鈴は小さく息を吐いた。
「そう」
それだけ。
同情も、驚きも、慰めもない。
でも、その“そう”には
もう知っていた人の重さがあった。
「周り、気づいてるわよ」
朱里の肩が、ぴくっと揺れる。
「言ってないのに?」
「言わないからよ」
美鈴は淡々と続ける。
「言葉がない時ほど、人は観察する」
「距離、声のトーン、タイミング」
「職場は、そういう変化に敏感」
朱里は、唇を噛んだ。
「……じゃあ、もう噂に?」
「まだ」
「でも、時間の問題」
断言だった。
「だから」
美鈴は、朱里をまっすぐ見た。
「あなたがどうするか、決めるまで」
「曖昧な態度は取らないこと」
厳しい言葉。
でも、責めてはいない。
「揺れるなら、揺れていい」
「でも、隠すために笑うのはやめなさい」
朱里の胸に、ずしっと落ちる。
(……見抜かれてる)
「あなたは今」
「何も間違えてない」
そう言ってから、美鈴は付け足した。
「ただし」
「覚悟は、これからよ」
それだけ言って、美鈴は戻っていった。
朱里は、その場に一人残る。
給湯室の明かりが、やけに白い。
(空気、変わったんだ)
誰かが責めたわけじゃない。
誰かが聞いてきたわけでもない。
でも──
もう、何もなかった頃には戻れない。
デスクに戻る途中。
嵩と、すれ違った。
一瞬だけ目が合う。
言葉は、ない。
でも。
“伝えたあとの目”だった。
朱里は、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。
(……逃げないって、こういうことか)
職場の空気は、確かに一段変わった。
それでも。
朱里は、席に着き、画面を開く。
今はまだ、答えは出ていない。
でも──
知ったまま、ここにいる。
それだけで、昨日の自分とは違っていた。
キーボードの音。
電話の呼び出し音。
コピー機の低い唸り。
なのに──朱里には、全部が少しだけ遠かった。
(……何も言われてない)
(誰にも、何も)
それなのに。
自席に戻る途中、視線を感じる。
誰かが見ている、というより
誰もが、見ないようにしている感じ。
「中谷先輩」
声をかけてきたのは、瑠奈だった。
いつもより、ほんの少しだけ声量が抑えめ。
「この資料、確認お願いしてもいいですか?」
「……うん、いいよ」
受け取りながら、瑠奈の目を見る。
探るようでも、疑うようでもない。
でも、いつもより“距離を測る目”。
「ありがとうございます」
そう言って戻っていく背中が、妙に真っ直ぐだった。
(……勘のいい後輩って、怖い)
席に着くと、隣の部署の会話が耳に入る。
「平田さん、午後外出だっけ?」
「いや、今日はずっと社内のはず」
──嵩の名前が出るだけで、心臓が反応する。
(ダメだ、仕事、仕事)
画面に視線を戻す。
数字を追う。
文章を読む。
……読んでいるはずなのに、頭に入ってこない。
その時。
「中谷さん」
今度は、美鈴だった。
立ったまま、感情の見えない顔。
「少し、いい?」
「……はい」
応接室、ではなかった。
給湯室の前。
誰も長居しない、でも完全な密室でもない場所。
「さっきの会議室」
核心を、いきなり突いてくる。
「平田さんと、二人だったわね」
否定しようと思えば、できた。
でも──しなかった。
「……はい」
美鈴は、それ以上聞かない。
「転勤の話?」
朱里は、一瞬だけ迷ってから頷いた。
「……告げられました」
美鈴は小さく息を吐いた。
「そう」
それだけ。
同情も、驚きも、慰めもない。
でも、その“そう”には
もう知っていた人の重さがあった。
「周り、気づいてるわよ」
朱里の肩が、ぴくっと揺れる。
「言ってないのに?」
「言わないからよ」
美鈴は淡々と続ける。
「言葉がない時ほど、人は観察する」
「距離、声のトーン、タイミング」
「職場は、そういう変化に敏感」
朱里は、唇を噛んだ。
「……じゃあ、もう噂に?」
「まだ」
「でも、時間の問題」
断言だった。
「だから」
美鈴は、朱里をまっすぐ見た。
「あなたがどうするか、決めるまで」
「曖昧な態度は取らないこと」
厳しい言葉。
でも、責めてはいない。
「揺れるなら、揺れていい」
「でも、隠すために笑うのはやめなさい」
朱里の胸に、ずしっと落ちる。
(……見抜かれてる)
「あなたは今」
「何も間違えてない」
そう言ってから、美鈴は付け足した。
「ただし」
「覚悟は、これからよ」
それだけ言って、美鈴は戻っていった。
朱里は、その場に一人残る。
給湯室の明かりが、やけに白い。
(空気、変わったんだ)
誰かが責めたわけじゃない。
誰かが聞いてきたわけでもない。
でも──
もう、何もなかった頃には戻れない。
デスクに戻る途中。
嵩と、すれ違った。
一瞬だけ目が合う。
言葉は、ない。
でも。
“伝えたあとの目”だった。
朱里は、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。
(……逃げないって、こういうことか)
職場の空気は、確かに一段変わった。
それでも。
朱里は、席に着き、画面を開く。
今はまだ、答えは出ていない。
でも──
知ったまま、ここにいる。
それだけで、昨日の自分とは違っていた。
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