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第1話:雨に濡れた獣の視線 (羽瀬 紬視点)
しおりを挟む冷たい雨が、ビルの谷間を叩きつける夜だった。
街灯の下、手垢で汚れたスマートフォンの画面を見つめる。画面に並ぶのは、闇金業者からの執拗な催促と、病院から届いた未払い入院費の最終通知の文字。
そして父からの、金と罵倒が入り混じった無数のメッセージ。
三年前、高校の卒業を待たずに母が倒れてから、今日まで。昼間のバイトを三つ掛け持ちした。朝から晩まで必死に働いても、手元に残るのは自分と母の最低限の生活費、そして父が残した借金の利息を払うのが精一杯。
母の命を繋ぐための、膨大な医療費の未払い通知は、溜まっていく一方。
私は親戚の家を何軒も回った。けれど、扉は開かれなかった。
「紬ちゃん、可哀想だけど……うちはもう和彦さん(紬の父)とは関わりたくないのよ」
「まだ離婚もできていないんでしょう?世間体もあるし、羽瀬家の借金を背負わされるのは御免だわ」
冷たく閉ざされた門扉の前で、私は自分の羽瀬家の血を憎んだ。
酒に溺れ、金を使い込み、母と私を壊した父。親族からも汚物のように扱われる羽瀬という名前。
二年間、昼夜を問わず働き続けても、母の治療費と父の作った借金、そして今もどこかで飲み歩いている父の影からは逃げられなかった。
そんな時、雨宿りをしていた駅前で声をかけてきたのが、ラウンジ『LUXE』のマネージャーだった。
「君なら、一晩で今のバイトの一ヶ月分は稼げるよ」
渡された名刺は、怪しいスカウトとは違う。深いミッドナイトブルーの厚手の台紙に、鈍く光る銀の箔押し。指先に伝わる、細かな凹凸のある上質なレザータッチの質感。
【LUXE──Executive Manager──佐竹 慎一】
飾り立てない洗練されたロゴと、その肩書き。年齢は三十代半ばだろうか。丁寧に整えられた短髪に、縁のない眼鏡。その奥にある切れ長の瞳は、道ゆく人々を冷ややかに観察しているようでいて、慈しむような柔らかな目だった。
(でも、私と目が合った瞬間だけだった)
彼の着ている三つ揃いのスーツには、シワ一つない。控えめなカフスボタンが街灯を反射して、小さく光っていた。
「この店で輝いてみない?」
最後に残されたのは、二十歳という若さと、それなりの容姿だけ。この扉の向こうに、救いがあるのか、さらなる地獄があるのかはわからない。でも、やるしかない。
「お願いします」
羽瀬 紬、二十歳。今日が、高級ラウンジ『LUXE』での初出勤。
勇気を出して飛び込んだ夜の仕事。キャバクラよりはソフトだと聞いていたけれど、ドレスに着替えさせられ、ハイヒールで立たされた瞬間から、足が震えて仕方なかった。
「……羽瀬さん、こちらです」
マネージャーの声に促され、個室の扉を開ける。そこにいたのは、たった一人の客。
黒のスーツに身を包んだ、長身の男。照明を落とした部屋の中で、ソファに深く腰掛けた彼の姿は、まるで闇に溶け込む獣のようだった。
佐伯 陽一。知らない人はいない、国民的アイドルグループ『SOLARIS』のセンター。
テレビやステージで見る彼は、完璧に磨き上げられた王子様の笑みを振りまく存在だ。今、目の前にいる男は全く別物だった。
高く整った鼻筋、鋭く切り込まれたような眉、薄く引き結ばれた唇。
黒髪は少し長めに伸ばされ、照明の僅かな光を受けて艶やかに濡れたように輝いている。
肌は雪のように白く、頬骨のラインが影を落とすたび、顔立ちの立体感が際立つ。
長身を包む黒のスーツは体にぴったりと沿い、肩幅の広さと腰の細さを強調していた。
でも、一番息を呑むのはその瞳だ。
深い黒の虹彩に、獲物を狙う肉食獣のように静かで、底知れぬ執着を隠した、危険な色を帯びた視線。
テレビで見るよりずっと鋭く、冷たく、息を呑むほど美しい。
いや、美しいだけじゃない。
この男は、触れたものをすべて自分の色に染め上げてしまいそうな、圧倒的な存在感を放っていた。
どうしてこんなVIPが、こんな時間に一人で?疑問を抱く間もなく、マネージャーが去り、扉が閉まった。
二人きり。
「お客様……初めまして、紬と申します。本日は、よろしくお願い、いたします」
声が、途中でかすれてしまった。
最後の「いたします」が小さく震えて、まるで子猫の鳴き声みたいに聞こえたかもしれない。
恥ずかしくて、慌ててうつむく。
精一杯の笑顔を作ろうとした。だけども、唇がうまく上がらない。
引きつったような、ぎこちない表情になっていることは自分でもわかる。
隣に腰を下ろすとき、膝がガクガク震えた。ソファのクッションに座る瞬間は、軽くよろめいてしまった。
「あっ……す、すみません……!」
小さな声で謝って、急いで姿勢を正す。
ドレスの裾を両手でぎゅっと握りしめ、指先が白くなるほど力を込めた。これで震えが伝わらないように、必死で隠しているつもりなのに、きっと全部、この人には見透かされている。
心臓がうるさすぎて、自分の鼓動が部屋中に響いてるんじゃないかと怖くなる。お酒を注ごうとして、手が震えてグラスを軽く鳴らしてしまった。
「……まだ、慣れていなくて……その、初めてで……」
言葉がこぼれ落ちる。
余計なこと言っていることはわかっている。緊張で口が止まらない。視線を上げられない。でも、横顔だけは感じる。この人が、じっと私を見ていること。
静かで、熱い視線で、まるで逃がさないって言っているみたいに。
(だめ、笑顔。お店で教わった通りに……)
必死で顔を上げて、笑みを浮かべようとした。
でも、目が合った瞬間、この人の瞳が、深くて、暗くて、吸い込まれそうで。笑顔なんて、すぐに崩れてしまった。きっと、今の私は、すごくオドオドしている。
夜職なんて初めてで、こんな高級な場所にも、こんな綺麗な人にも、慣れていないのが丸わかりだ。
でも、もう後戻りできない。
ドレスの裾を握る手が、汗ばんでいくのを感じながら、私はただ、震えを隠すことしかできなかった。
雨で少し濡れた髪のまま出勤してしまったせいで、肩口が冷たい。
ドレスの胸元も、雨粒で濡れて肌に張りついているのが自分でもわかる。恥ずかしくて、そっと腕で隠そうとした瞬間、男の視線が、鋭く突き刺さった。
(……何?この目)
ただの客の目じゃない。
まるで獲物を値踏みするような、熱を孕んだ視線。
私の背筋に、ぞくりと電流が走った。
「お嬢ちゃん、雨に濡れたまま?」
低く、甘く響く声。彼は立ち上がると、自分のスーツのジャケットを脱ぎ、私の肩にふわりとかけた。
男の匂いがする、熱を持った生地。
「寒くないか?」
「ありがとう、ございます……」
「名前は?」
「羽瀬……紬、です」
「紬……いい名前だ」
「今日は俺だけだ。他の客は来ない」
さらりと告げられた言葉に、この人は、何でも手に入れられる人なんだと思った。
再び隣に座った彼の膝が、私の膝と触れ合った。近すぎて、心臓が爆発しそうだった。
「震えてるな。怖いか?」
「い、いえ……ただ、本当に、初めてで……」
「初めて?」
「なら、俺が教えてやるよ」
低く、耳元で囁かれたその声は、甘く濡れたウイスキーの香りと一緒に、私の鼓膜を震わせた。
次の瞬間、彼の長い指が、私の濡れた髪に滑り込んできた。
冷たい雨粒を拭うような、優しい動き。
でも、その指先は髪を梳くだけでなく、頭皮に軽く触れ、首筋へとゆっくり降りてきて、まるで逃がさないと宣言するように、私の動きを封じ込める。
彼の視線が、私を真正面から射抜く。
深い黒の瞳に、自分の震える姿が映っているのがわかった。
逃げたいのに、逃げられない。
体が熱くなって、膝が内側に寄ってしまう。
(この人……本当に、教えてくれるの?夜の仕事のことだけじゃ、ない気がする)
甘い、でもどこか獣のような匂いが、すぐ近くで漂う。
彼はゆっくりとグラスを傾け、喉を鳴らしてウイスキーを飲み干した。
その喉仏が上下する様子を、なぜか目が離せなかった。
飲み終えたグラスをテーブルに置く音が、静かな部屋に小さく響く。
そして、彼の視線が再び私に戻ってきたとき、私は確信した。
この人は、私をただのコンパニオンとして見ていない。もっと深く、もっと重く、私の全部を自分のものにしたいと、欲している。
雨音が激しくなる中、私の胸の奥で、何かが静かに、でも確実に目を覚まし始めていた。
これは、もう普通の接客じゃない。
逃げられない、甘く危険な日々の、始まりだ。
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