美淑妃の花解き後宮録

YOR

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第1章:一輪の紅梅の花

その一

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この国・瑞蘭ずいらんの王宮において、美淑みすく妃の名は二つの意味で囁かれている。

一つは、名門・美家みけの最高傑作。代々、妃たちの教養と礼節を仕込んできた教育者の家系が生んだ、歩く芸術品としての称賛。そしてもう一つは、美淑みすく妃が処方する双華言と星導の予言。それは悩み迷う者たちを救う福音であり、同時に一度縋れば二度と逃れられぬ蜘蛛の糸でもあった。

***

春の月夜。庭園の奥にある梅華宮は、沈香の煙と紅梅の香りに包まれていた。夜風に乗って漂うその香りは、吸い込むだけで頭がぼんやりとするほど濃密だ。

その中に、王弟・蒼 嵐ツァン・ランは跪いていた。

「私の寝所に、一輪の紅梅が置かれていたのだ」

蒼 嵐ツァン・ランとは、王の弟。温室育ちだと聞いている。確かに、震える手で私の裾を掴むその姿は、高貴な血筋を引く男というより、道端で見捨てられた獣に近い。手入れされた柔らかな髪も、一度も剣を握ったことないであろう白い指先も、今の蒼 嵐ツァン・ランにとっては己の脆弱さを強調するだけの飾りに過ぎなかった。

「呪物になるのか?」

蒼 嵐ツァン・ランは、差し出した紅梅の枝を、まるでおぞましい汚物であるかのように見つめている。

不自然に捩れ、先端の蕾が黒ずんだその一枝。代々、妃たちの頭の中に淑女たるべき姿を叩き込んできた美家みけの人間にとって、呪いとは一種の強制的な教育に過ぎない。

恐怖の公式を相手の脳に植え付け、自由な思考を奪う。それは、白い花を一輪、赤く染まった水の花瓶に差すようなもの。花にその気がなくとも、根から吸い上げる水の色が赤ければ、花びらはやがて薄汚れた赤に染まってしまう。

今の蒼 嵐ツァン・ランは、まさしく恐怖という色の水を吸わされ、己の心を見失っている状態なのだ。

誰かがこの枝を歪ませたのは、蒼 嵐ツァン・ランの心に死の予感という色を吸わせるため。ならば、その水を入れ替えてやるのもまた、教育者である私の仕事でもあるのだ。

紅梅。この瑞蘭ずいらんの地には自生しない、遥か東の島国から献上されたばかりの希少な品種だ。まだ凍てつくような寒さが残るこの時期に、無理やり温室で開花を早められたのだろう。

わざわざこの花を選んだ理由は、色にある。

指先で花びらを裏返した。表は燃えるような紅。けれど、その裏側は沈んだ紫。いわゆる紅梅襲こうばいがさねの色彩を宿している。

蒼 嵐ツァン・ラン様、ご説明いたしましょう」

瑞蘭ずいらんの土壌はアルカリが強い。ゆえに、この地の紅梅は他所よりも色が濃く、そして脆い。美淑みすくは、双華言という名の冷徹な辞書がページをめくる。

陽の光を浴びた花が語る忍耐。それは、瑞蘭ずいらんの統治者が民を支配するために植え付けた、都合の良いまやかし。けれど、この花の裏側に潜む紫は、古来より王位の象徴。

表向きは紅、つまり忠誠を装いながら、裏では紫、王座を狙っている。贈り主が、寝所に置いた理由、人が最も無防備になる場所。そこに誰かが入り込み、枕元にこれを残した。それはお前の命など、いつでも寝首を掻けるという明確な脅迫のようなもの。
そして同時に、夜ごとに抱いている独り言を聞き届けたという合図でもあるわけだ。

「あなたの野心は、すべてお見通しだと囁いている」
「誰が?」
「これ以上の推察は」

一介の妃である私には出過ぎたこと。あとは蒼 嵐ツァン・ラン、ご自身で考えてもらわなくて廃位となる。あえて突き放し、背を向けようとしたその時。重々しい金属の擦れる音が庭園に響いた。

「教育者の顔をして、また妙な種を撒いているのか。美淑みすく妃」

現れたのは、禁軍将軍・厳 牙イェン・ガ。彼は、瑞蘭ずいらんの宮廷に似つかわしくない、鉄と馬の汗の匂いを纏っていた。
厳牙イェン・ガという男は、瑞蘭ずいらんの盾であり牙そのものだ。

宮廷の貴人たちが絹の衣をまとい、優雅な言葉で本心を覆い隠す中で、ただ一人、剥き出しの鉄の論理で生きている。潮風と日光に焼かれた肌には、数多の戦場を潜り抜けてきた男特有の、隠しきれない死線の気配と威圧感がこびりついていた。

(……野良犬というよりは、手負いの狼)

美淑みすくは、自分を見下ろす厳牙イェン・ガの視線を真正面から受け止めた。蒼 嵐ツァン・ランのような繊細な若枝とは違い、厳牙イェン・ガのような男は、無理に矯正しようとすれば、その鋭い牙は教育者の喉元を裂くだろう。この手の者には、支配ではなく利害を。感情ではなく不可欠な知恵を提示し、共生する道を選ばせるのが正解だ。

「あんたを淑女扱いするほど、俺は能天気じゃない」

厳牙イェン・ガの声は短く、鉄を叩くような硬さを持っていた。厳牙イェン・ガはそう吐き捨てると、蒼 嵐ツァン・ランには見せなかった、野卑でいてどこか実直な笑みを浮かべていた。

「俺が信じるのは、目の前の事実と、それを解き明かす知恵だけだ」

厳牙イェン・ガは懐から一通の書簡を取り出した。そこには、押し潰されたような紫色の花びらが、乾いた血のようにべったりと張り付いている。

「王弟殿下、夜風は体に障ります。お下がり願いたい。私はこの教育者殿に、一刻を争う鑑定を頼まねばならん花があるのだ」

美淑は、その不気味な色彩を指先でなぞった。厳牙イェン・ガが言うには、百の兵がこれ一輪を握り、笑って事切れたと。

(……笑いながら死ぬ、紫。……陽の言葉は安らぎ、陰の言葉は――)



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