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第1章:百花繚乱の罠
1-1(白 蓮視点)
しおりを挟むまず断っておくが、この物語の主人公は、俺ではない。
俺はただの観測者だ。あるいは、彼女という劇薬に侵され、正気を失ったただの影に過ぎない。だが、もし貴公が、この腐り果てた国・瑞蘭がどうやって一度焼き尽くされ、黄金の国へと作り替えられたかを知りたいと願う者がいるのなら……俺の目を通して、彼女が歩んだ覇道の記録を紐解いていこう。
白状しよう。俺はあの時、彼女に惚れたのではない。彼女という底なしの深淵に、自ら身を投じたのだ。
理知だけを頼りに生きてきたはずの俺が、なぜあの日、すべてを捨てて彼女の足元に跪いたのか。なぜ、彼女の指先一つで、国を裏切り、手を血に染める道を選んだのか。
その答えは、あの春の宮廷宴の、忌まわしくも美しい光景の中にすべて埋もれている。
俺の名前は白 蓮。王に仕える忠実な側近。人々は、お守り役と、俺をそう呼んでいた。
***
春の宮廷宴会場。視界に広がるのは、色とりどりの豪華な絹地を纏った貴族たちが騒々しく笑い合う、理性をかなぐり捨てた光景。瑞蘭の中央貴族社会が年に一度、その財力と虚飾を競い合う場。
宴という名がついてはいるが、実態は化かし合いの社交場に過ぎない。酒杯を交わしながら相手の失脚を狙い、もっともらしい文句をあたかも美しい文句として盛り合う。
最も華やかで、最も醜い戦場の最前線に立ちながら、心底どうでもいいと思っている俺がいる。
「白 蓮、お前も飲め。今日はこの国・瑞蘭の繁栄を祝う日だ」
最上段の玉座から、王が上機嫌に黄金の杯を差し出してきた。
王の傍らでは、正一品・賢妃をはじめとする妃たちが、競い合うように艶やかな笑みを振りまいている。彼女たちの背後には影のように二人の侍女が控え、主の権威を飾り立てる装置と化していた。
「お守り役が主君と共に酔うわけには…」
「相変わらず堅苦しい奴だ」
王は苦笑し、自ら杯を飲み干すと、視線を妃たちの末席へと投げた。
「美淑妃は、一段と美貌を醸し出しているな。白 蓮はどう思う?」
「……名門・美家のご息女ですから。瑞蘭の至宝と謳われるのも道理かと」
不意を突かれた問いに、俺の喉がかすかに鳴った。王の視線の先そこには、むせ返るような沈香の香りを振りまく他の妃たちとは一線を画す、静かで穏やかな美淑妃が座していた。
俺はあえて感情を排し、あらかじめ用意されていたような模範解答を口にした。美貌という生々しい言葉を避け、「名門」・「家柄」という記号で彼女を語る。
そうでもしなければ、先ほどから彼女の黒髪に挿された一輪の梅の花に、魂ごと射抜かれそうになっている自分を抑えきれそうになかったからだ。
「相変わらず血筋と理屈でしか女を見ん男だ」
王は満足げに笑い、再び下段の狂騒へと意識を戻した。
この国において、妃の美醜を論じるのは王の特権だ。だが、わざわざお守り役である俺に、それも名門の誉れ高い賢妃たちの前で、末席に座す彼女の美貌を問いかけるとは。
王は、彼女の何を見ている?あるいは、俺が彼女に向けている、自分でも気づかぬほど微かな視線の熱さを、王は既に見抜いているというのか。
名門・美家の至宝。完璧な立ち居振る舞い。王が美貌と称えたあの横顔を見ていると、今にも吸い込まれそうな錯覚に陥る。
他の妃たちが放つ、王の寵愛を求める飢えた香りに比べ、彼女の周りだけが、死者の国のような静寂に包まれているからだ。
死者の国。……もちろん、俺が実際にそれを見てきたわけではない。
だが、そこには生者が抱く醜い熱も、明日の地位を案じる浅ましい焦燥も、誰かを呪う生臭い執着もない。ただ、すべてが静止した永遠の安らぎだけがある場所なのだと、俺は想像している。
彼女の傍らに立つと、まるで現世の喧騒が遠くへ退き、魂が芯から冷やされていくような感覚を覚える。
それは、瑞蘭という腐った生に執着する者たちにとって、最も不吉で、それでいて最も抗い難く美しい救い。それこそが、美淑という存在そのものだった。
最上段の玉座から視線を下ろせば、そこには残酷なまでに峻別された階級の縮図が広がっている。俺たちが立つ最上段から一段降りた回廊には、義禁府や司憲府といった国の中枢を担う官僚たちが、油断なく互いの出方を伺っている。
さらにその下、中庭に近い場所には、歌舞を奏でる掌楽院や、民の病を診るはずの活人署の面々。そして最下層――石畳の上に直接這いつくばるようにして控えているのは、この宴中は声を出すことさえ許されない侍女や下男、下女たちだ。
瑞蘭の全階層を一堂に集めた、父王の代以来という大規模な宴。上に行くほどに虚飾の香りが研ぎ澄まされ、下に行くほどに澱んだ熱気と、生身の人間が放つ汗の匂いが渦巻いている。
身分という名の下に、人間を家畜のように区分けし、それを繁栄と呼んで悦に浸る主君と貴族たち。
……ああ、やはり救いようがない。この場所は、腐りきっている。
だが、その時だった。
最下段、給仕のために忙しなく動いていた下男の一人が、ふと動きを止め、空を仰いだ。続いて、掌楽院の楽師たちが奏でる音色が、ほんのわずかだが揺らいた。
俺は手に持った茶の表面を見つめた。黄金の杯に注がれた酒に酔いしれている連中には、まだ見えていないらしい。空の色が、不自然なほど急速に、深い瑠璃色へと変色し始めていることに。
春の陽光が、まるで誰かの手によって握りつぶされるように、急速にその力を失っていく。
「白 蓮、どうした。顔色が悪いぞ」
王が怪訝そうに俺を覗き込む。その背後で、賢妃たちが「あら、風が冷たくなってまいりましたわね」と、呑気に袖を重ね合わせた。
(違う。風ではない……)
俺は本能的に、末席の美淑妃へと視線を走らせた。そこには、騒ぎ出した階層下の者たちを冷ややかに見下ろして座る姿が目に入った。
他の貴族が纏う色鮮やかな絹地とは一線を画す、濃密な深紅の絹地を纏い、その上に施された金糸の刺繍は、まるで血の海から浮かび上がった黄金の龍だ。
暗転し始めた世の中で、黒髪に挿された清らかな色の一輪の梅の花が、暗転し始めた世界の中で、怪物のような白さを放ち始めていた。
(一輪の梅の花…、何を耐え、何を守ろうとしているのか)
風華団が空を気にしながら舞を披露する中、美淑妃が、静かに口を開いた。
「もうすぐ、太陽が欠けます」
――その一言が、すべての始まりだった。
貴族たちは嘲笑した。誰もが「あり得ない」と肩を揺らし、口々に言う。だか、次の瞬間、嘲笑は悲鳴へと、優越感は家畜のような怯えへと塗り替えられた。空が鉛色に染まり、太陽が何者かに喰らわれていく。
「……見ろ、太陽が欠けていくぞ!」
「不吉だ、国が滅ぶ前兆だ!」
下段にいた下男や下女たちは、理解を絶する恐怖に呑まれていた。泣き叫び、混乱し、逃げる道すら見失って互いを踏みつけている。そして、この国の絶対的な太陽であるはずの王ですら、その威光を失い、震える手で玉座の肘掛けに縋り付いていた。
その時だ。
美淑妃が、取り乱す王の隣へそっと立ち、その場に跪いた。ガチガチと震える王の手に、自分の白い手を、まるで幼子をあやすように優しく重ねたのだ。
「王様。――三、二、一」
その直後、美淑妃は指をパチンと鳴らし、光を呼び戻した。
いつ始まり、いつ終わるかを、指先の脈動と同じくらい正確に把握していたのだ。爆発するように太陽の縁から白銀の光が溢れ出し、ダイヤモンドのような輝きが彼女を神々しく照らし出した。
「奇跡だ……!」
誰かが叫び、人々は雪崩を打つように彼女に向かって額を地面に擦り付けた。美淑妃は、ひれ伏す貴族たちの群れを、まるで道端の石ころでも見るかのような慈悲深い冷徹さで見下ろした。
「私と共に、この景色を見たいと思いませんか?」
……ああ、その時だ。俺の胸の中にあった、退屈という名の空洞が、真っ赤な炎で焼き尽くされたのは。
誰もが美淑妃を恐れ、ひれ伏す中で、俺だけは歓喜に震えていた。この腐り果てた瑞蘭を焼き尽くし、新しく塗り替える聖女なのだと。
美淑妃をただの王の女として腐らせてたまるものか。俺は決めたのだ。王という古びた心臓を抉り出し、この国の真の主・女王として玉座に据えるための、鋭い針になることを。
たとえその道が、王への叛逆という名の地獄に繋がっていたとしても。
気づけば、宴は終わっていた。誰もが俺を無視して退出する中、ただ一人、彼女だけが俺の方へと歩み寄ってくる。
「白 蓮殿、儚いものだからこそ、守りたくなるのでしょう?」
美淑妃は小さく笑った。試すような、それでいてすべてを見透かしたような瞳。
俺が何を考え、何を求めていたか、すべて理解した上でこの言葉を投げかけている。 その確信が、俺の鼓動を狂わせていく。
俺は美淑妃の前に跪き、その深紅の裾に口づけを落とした。
美淑妃は、跪く俺の顎を扇でくいと持ち上げた。その口元には、獲物を定める蜘蛛のような、妖艶な笑みが浮かんでいる。
「王は、あなたのように私を見てはくださらない。」
王の側室。兄とも慕う王の女。王にしてみれば、正二品という、この後宮で五本の指に入る高位の彼女は政治の道具に過ぎないのだろう。
だが、王が彼女を見ないのなら、俺が、俺の瞳が、美淑妃のすべてを焼き付けるだけだ。
俺は美淑の右手をそっと取り、その白い肌に誓いの口づけを落とした。俺の眼差しはもう、一生、彼女から離れることはない。
天の動きを冷徹に計算し、その自然現象に自分の意思という名の物語を上書きした怪物。
俺は、この御方の影となり、王と美淑妃の間を取り持つフリをしながら、叛逆の準備を整えるために。
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