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第1章:一輪の紅梅の花
その二
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美淑は、差し出された書簡に張り付くその不気味な色彩を、指先で静かになぞった。
瑞蘭の禁軍将軍が、夜の帳を突いて妃の寝所にまで持ち込んだ謎。
美淑は花びらを軽く擦ると、それをそっと顔に近づけ、深く息を吸い込んだ。美家が教え込む鑑定の鉄則。目は欺けても、鼻は欺けないということだ。
熟れすぎた果実が泥にまみれて腐り落ちる直前のような、ねっとりとした甘い香りがした。ただの花であれば、枯れゆく際には草木特有の、乾いた土のような匂いがするはず。これほど不自然に甘く、鼻の奥にまとわりつくような腐敗の匂いがするのは、あらかじめ特殊な薬液に浸され、成分が凝縮されている証に他ならない。
(……摘み取ったままの花ではないということ)
もしくは、この瑞蘭の土壌はアルカリが強く、紅梅のような繊細な花を育てるには不向きな土地である。この土壌の特性を知り、それを逆に利用して花を特殊な薬剤を注ぎ込んで無理やり管理した者がいるということだ。
だとすると、悪趣味な真似ができる庭師が、この王宮内に潜んでいるということだ。何故その庭師は、これほど手間のかかる手法を選んだのか。
単に王弟を害するだけなら、もっと簡便な毒はいくらでもある。わざわざ不向きな土地で紅梅を育て、特殊な薬液で組織を焼き、甘い腐敗臭を放たせる。それは、効率的な暗殺などではなく、もっと別の例えば、不可能な環境で美しく咲き、そして崩れていく様を見せつけるという、歪んだ嗜好が込められているのではないか。
(その庭師は芸術だと言いたいのか)
美淑の声には、冷徹な分析の中に、微かな愉悦さえ混じっていた。自分と同じく、花を言葉として扱う者がもう一人、この王宮のどこかにいる。
この花の組織を焼き、香りを凝縮させるには、大量の薬剤と、それを絶えず扱い、洗い流せるだけの水場が必要になるはず。瑞蘭の王宮内で、外部の目を盗んでそれだけの作業ができる場所があるとしたら。
「厳牙殿、後宮内の水場に、心当たりは?」
「北の離宮にある廃された温室がある」
厳牙の声が、確信を持って低く響く。そこには現在使われていない古い調剤所が併設されていると聞いたことがある。大量の薬液を調合し、不要な液剤を流し捨てるには、これ以上ないほど好都合な場所だ。
美淑は扇で口元を隠し、静かに厳牙へ命じた。
「排水溝の色、枯れた他の花」
その場所の排水溝の色。紅梅をあれほど毒々しく染め上げた薬液。それを捨てたとしても、必ず痕跡が残る。犯人は目に見える場所こそ掃除しているだろうが、石の隙間にこびりついて取れない汚れまで消し去ることは不可能に近い。そこまで覗き込む者などいないと、その庭師は高を括っているはずだ。
枯れ果てた他の花が捨てられていないか。芸術家を気取る庭師なら、最高傑作を作り出す前に、必ず数多の失敗作を捨てているはず。もしそれが見つかれば、王弟殿下を狙ったのが誰なのか、その趣味嗜好から逆引きできるはずだ。
厳牙は美淑が去った扉をひと睨みすると、弾かれたように北の離宮へと駆け出していった。
***
それから数日が経過した。雨上がりの湿った空気が漂う午後、美淑の私室でもある梅華宮に再び厳牙が現れた。その手には、泥と薬液に汚れた布包みが握られている。
「……指摘の通りだった」
厳牙は、温室の卓上に布包みを広げた。中から現れたのはどす黒い紫色の沈殿物がこびりついた石片と、見る影もなく腐り果てた不自然なまでに青い花びらだった。
この不自然な紫の色。本来の紅梅にはあり得ないこの色彩は、強い薬剤で花本来の色素を壊し、後天的に染め上げた証拠。
そして、花びらを青色に染めるには、おそらくだが紅梅の赤を一度、強アルカリの溶液で破壊し、そこに鉄や銅などの金属粉を混ぜた薬液を吸わせる。
じっくり時間をかけて。
布を染める際の媒染と同じ技法を、生きている花に施したのであろう。組織を内側から焼きながら、無理やり色を定着させる。これほどの配合を試すには、相応の知識と、何より実験を繰り返すための水場が必要だったということだ。
「ただの暗殺ではなく色彩の実験でしょう」
「美淑妃、ただの実験?」
「青い花を好む……例えば、北の離宮を管理する部署や、染料の利権を握る一族などを洗えば、自ずと答えは出るでしょう」
美淑は、泥に汚れた石片を憐れむように見つめた。実験と言ったが、花を生きた人間として例えると、組織を内側から焼きながら色を定着させる。……この強引な美しさを愛でる庭師は、きっと同じように残酷な手つきをするのであろう。
その言葉を受け、厳牙は即座に裏付け調査に動いた。北の調剤所・廃温室を包囲した禁軍の手によって、現場で薬剤を調合していた老庭師が捕縛された。さらに、背後で糸を引いていたのは、染料の専売権を狙う工部の役人たちであることも判明した。
王弟の寝所に不気味な花を置き呪いの噂を流すことで、王宮内を混乱させようとした大罪だ。事の重大さから、犯人たちは即座に義禁府へと送られ、厳しい尋問にかけられることとなった。
「美淑妃、どうやら彼らは、宮中を混乱させようしていたようだ」
「たかが花一輪で」
美淑はため息を吐いた。たかが一輪、されど一輪だが、王弟殿下が呪いで病に伏せったとなれば、周囲の者たちはどう動くか、殿下の警護責任を問い、禁軍の力を削ごうとする者。不吉な離宮を封鎖し、そこに眠る利権をどさくさに紛れて書き換える者。……あるいは、殿下の看病という名目で、息のかかった娘を送り込みたい者もいるであろう。
美淑は扇をぱちりと閉じ、皮肉げな笑みを浮かべた。
「水が濁れば、泥の中に隠していた欲を掴みやすくなりますもの。この庭師と役人たちは、その濁りを作るための石を投げ込んだに過ぎない」
「……相変わらず、食えないお人だ。美淑妃は」
紅梅に端を発した不敬な嫌がらせ。その陰謀は、美淑が示したわずかな痕跡から、完全に解き明かされたのである。
だが、美淑の視線はすぐに、厳牙が持ってきたもう一つの、未だ解けぬ戦場の紫の花。百の兵がこれ一輪を握りしめ、幸福な笑みを浮かべたまま事切れたという正体について。
こちらは、先ほどの男の手業とは、格が違うのだ。
瑞蘭の禁軍将軍が、夜の帳を突いて妃の寝所にまで持ち込んだ謎。
美淑は花びらを軽く擦ると、それをそっと顔に近づけ、深く息を吸い込んだ。美家が教え込む鑑定の鉄則。目は欺けても、鼻は欺けないということだ。
熟れすぎた果実が泥にまみれて腐り落ちる直前のような、ねっとりとした甘い香りがした。ただの花であれば、枯れゆく際には草木特有の、乾いた土のような匂いがするはず。これほど不自然に甘く、鼻の奥にまとわりつくような腐敗の匂いがするのは、あらかじめ特殊な薬液に浸され、成分が凝縮されている証に他ならない。
(……摘み取ったままの花ではないということ)
もしくは、この瑞蘭の土壌はアルカリが強く、紅梅のような繊細な花を育てるには不向きな土地である。この土壌の特性を知り、それを逆に利用して花を特殊な薬剤を注ぎ込んで無理やり管理した者がいるということだ。
だとすると、悪趣味な真似ができる庭師が、この王宮内に潜んでいるということだ。何故その庭師は、これほど手間のかかる手法を選んだのか。
単に王弟を害するだけなら、もっと簡便な毒はいくらでもある。わざわざ不向きな土地で紅梅を育て、特殊な薬液で組織を焼き、甘い腐敗臭を放たせる。それは、効率的な暗殺などではなく、もっと別の例えば、不可能な環境で美しく咲き、そして崩れていく様を見せつけるという、歪んだ嗜好が込められているのではないか。
(その庭師は芸術だと言いたいのか)
美淑の声には、冷徹な分析の中に、微かな愉悦さえ混じっていた。自分と同じく、花を言葉として扱う者がもう一人、この王宮のどこかにいる。
この花の組織を焼き、香りを凝縮させるには、大量の薬剤と、それを絶えず扱い、洗い流せるだけの水場が必要になるはず。瑞蘭の王宮内で、外部の目を盗んでそれだけの作業ができる場所があるとしたら。
「厳牙殿、後宮内の水場に、心当たりは?」
「北の離宮にある廃された温室がある」
厳牙の声が、確信を持って低く響く。そこには現在使われていない古い調剤所が併設されていると聞いたことがある。大量の薬液を調合し、不要な液剤を流し捨てるには、これ以上ないほど好都合な場所だ。
美淑は扇で口元を隠し、静かに厳牙へ命じた。
「排水溝の色、枯れた他の花」
その場所の排水溝の色。紅梅をあれほど毒々しく染め上げた薬液。それを捨てたとしても、必ず痕跡が残る。犯人は目に見える場所こそ掃除しているだろうが、石の隙間にこびりついて取れない汚れまで消し去ることは不可能に近い。そこまで覗き込む者などいないと、その庭師は高を括っているはずだ。
枯れ果てた他の花が捨てられていないか。芸術家を気取る庭師なら、最高傑作を作り出す前に、必ず数多の失敗作を捨てているはず。もしそれが見つかれば、王弟殿下を狙ったのが誰なのか、その趣味嗜好から逆引きできるはずだ。
厳牙は美淑が去った扉をひと睨みすると、弾かれたように北の離宮へと駆け出していった。
***
それから数日が経過した。雨上がりの湿った空気が漂う午後、美淑の私室でもある梅華宮に再び厳牙が現れた。その手には、泥と薬液に汚れた布包みが握られている。
「……指摘の通りだった」
厳牙は、温室の卓上に布包みを広げた。中から現れたのはどす黒い紫色の沈殿物がこびりついた石片と、見る影もなく腐り果てた不自然なまでに青い花びらだった。
この不自然な紫の色。本来の紅梅にはあり得ないこの色彩は、強い薬剤で花本来の色素を壊し、後天的に染め上げた証拠。
そして、花びらを青色に染めるには、おそらくだが紅梅の赤を一度、強アルカリの溶液で破壊し、そこに鉄や銅などの金属粉を混ぜた薬液を吸わせる。
じっくり時間をかけて。
布を染める際の媒染と同じ技法を、生きている花に施したのであろう。組織を内側から焼きながら、無理やり色を定着させる。これほどの配合を試すには、相応の知識と、何より実験を繰り返すための水場が必要だったということだ。
「ただの暗殺ではなく色彩の実験でしょう」
「美淑妃、ただの実験?」
「青い花を好む……例えば、北の離宮を管理する部署や、染料の利権を握る一族などを洗えば、自ずと答えは出るでしょう」
美淑は、泥に汚れた石片を憐れむように見つめた。実験と言ったが、花を生きた人間として例えると、組織を内側から焼きながら色を定着させる。……この強引な美しさを愛でる庭師は、きっと同じように残酷な手つきをするのであろう。
その言葉を受け、厳牙は即座に裏付け調査に動いた。北の調剤所・廃温室を包囲した禁軍の手によって、現場で薬剤を調合していた老庭師が捕縛された。さらに、背後で糸を引いていたのは、染料の専売権を狙う工部の役人たちであることも判明した。
王弟の寝所に不気味な花を置き呪いの噂を流すことで、王宮内を混乱させようとした大罪だ。事の重大さから、犯人たちは即座に義禁府へと送られ、厳しい尋問にかけられることとなった。
「美淑妃、どうやら彼らは、宮中を混乱させようしていたようだ」
「たかが花一輪で」
美淑はため息を吐いた。たかが一輪、されど一輪だが、王弟殿下が呪いで病に伏せったとなれば、周囲の者たちはどう動くか、殿下の警護責任を問い、禁軍の力を削ごうとする者。不吉な離宮を封鎖し、そこに眠る利権をどさくさに紛れて書き換える者。……あるいは、殿下の看病という名目で、息のかかった娘を送り込みたい者もいるであろう。
美淑は扇をぱちりと閉じ、皮肉げな笑みを浮かべた。
「水が濁れば、泥の中に隠していた欲を掴みやすくなりますもの。この庭師と役人たちは、その濁りを作るための石を投げ込んだに過ぎない」
「……相変わらず、食えないお人だ。美淑妃は」
紅梅に端を発した不敬な嫌がらせ。その陰謀は、美淑が示したわずかな痕跡から、完全に解き明かされたのである。
だが、美淑の視線はすぐに、厳牙が持ってきたもう一つの、未だ解けぬ戦場の紫の花。百の兵がこれ一輪を握りしめ、幸福な笑みを浮かべたまま事切れたという正体について。
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