後宮塗り替え絵巻~背徳と覇道の美淑の物語~

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第1章:百花繚乱の罠

1-2(美淑妃視点)

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後宮の朝は、鼻を突く香の匂いから始まる。女たちは夜明けとともに目を覚まし、己の価値をその煙に託すのだ。

麝香じゃこうは王の情欲を誘う媚薬として。白檀びゃくだんは清らかな妻であることを示す無害な装いとして。沈香じんこうは己の家門が従順であることを示す政治的な札として。

この場所では、目に見えぬ香りこそが、妃たちの序列を決定づける唯一の言語だった。誰もが、王という太陽にその身を焼かれまいと、必死に自分を粉飾する香りの壁を築いているのだ。

鏡の前で身支度を整えながら、私は窓から流れ込むその混濁した香りを冷ややかに無視した。

私に言わせれば、そんなものは祈りと同じだ。明日、雨が降るかどうかを神に乞う暇があるなら、湿った土の匂いを嗅ぎ、雲の動きを測ればいい。

不確定な王の情愛に縋り、実体のない煙に己の命運を託すなど、愚考の極み。どれほど濃密な香りを纏おうとも、私が呼び寄せる日食という圧倒的な闇の前では、一瞬でかき消される羽虫の羽ばたきに過ぎない。

己の不安を覆い隠すための安っぽい膜のようなものだ。

女たちが目に見える香りに一喜一憂している間、私が見つめていたのは、頭上に広がる冷徹な星々の運行だった。何万年と変わることのない天の理に比べれば。

王の移ろいやすい心も、女の湿った嫉妬も。私にとっては、ただの解き明かせる数式でしかなかった。

美淑みすく様、準備が整いました」

侍女の明 鈴ミン・リンが差し出してきたのは、香りなど一切つけていない、一輪の梅の花。私はそれを手に取り、鏡の中の自分を見つめて静かに唇を動かした。

「ええ。邪魔な変数を一つ、消しに行きましょうか」

私を末席に縛り付けているこの退屈な身分も、王の忠臣として私を疑いの目で見ている白 蓮バイ・リェンの理性も。今日、太陽が欠けるその瞬間に、すべてを闇へと葬り去るのだ。

誰にも踏み込めぬ神聖という檻の中に、王も、この国も、閉じ込めてしまえばいいのだ。

指先一つで、世界はどうにでも書き換えられる。天には意志など存在しないものだ。あるのは冷徹な運行と、それを読み解く知性だ。

太陽を隠すのも、あるいは光を戻すのも、すべてはこの私、美淑みすくの指先が導き出した必然に過ぎない。

戦場である春の宮廷宴へと足を踏み出した。

***

回廊を歩きながら、私はこれから上演される演劇を、頭の中で何度も繰り返し味わっていた。

数式が弾き出したのは、今日、この時間に起こる日食の刻限。太陽が何分、何秒欠け、いつ光が戻るのか。

無知な群衆を恐怖に突き落とし、それを私の指先一つで救済してみせる。絶望を知った羊たちは、容易に私の信徒へと成り下がるだろう。

そして、最大の狙いはあの男。王の側近であり、この国の理性そのものである男、白 蓮バイ・リェン

「王は、私を見てはくださらない」

わざと震わせた声、潤ませた瞳。それらすべてが、彼という最も鋭い針を釣り上げるための餌だった。

案の定、男は私の術中に嵌まった。私の足元に膝を折り、魂を差し出すような眼差しで右手に口づけを落としたあの瞬間。彼という変数は、私の掌の中に完全に落ちたのだ。

宴が終わり、自室に戻り、重厚な扉が閉まった瞬間。私の顔から、あの慈悲深い聖女の微笑みが、音もなく剥がれ落ちた。

控えていた明 鈴ミン・リンが、心得た動作で私の肩から重い上衣を脱がせ、代わりに軽い羽織をかけてくれた。

「お疲れ様でございました、美淑みすく様。実に見事な聖女でございました」
白 蓮バイ・リェン殿以外にも目星をつけているが」
白 蓮バイ・リェン殿の手を取られた時の慈悲深さですから、他の目星たちも容易に落とせます」

明 鈴ミン・リンが差し出した温かい茶を一口啜り、私は鏡の前へと歩み寄る。鏡の中にいるのは、先ほどまで貴族たちを平伏させていた救世主などではない。冷え切った野心をその瞳の奥に沈めた、一人の狩猟者だ。

「予定より早く針が手に入った。」
「……あの男、白 蓮バイ・リェン殿ですね」

明 鈴ミン・リンは私の髪から一輪の梅の花を抜き取り、器に生け直しながら、小さく笑った。

「梅華屋敷にいらした頃から、その兆しはございましたもの。……賢明すぎたのですよ、あの方は」

かつて調査のために屋敷を訪れた白 蓮バイ・リェンが、私が導き出した天象の数式を前に、言葉を失い立ち尽くしていた。世界の理を解き明かしたその紙片に、彼は己の信仰も、王への忠誠さえも、吸い込まれるように奪われてしまったのだ。

今の彼には、私の示す地獄を喜んで歩く忠犬の道しか残されていない。

「絶望を知る賢者ほど、一度狂えばこれ以上ない道具になる」

私は水盤に指を浸し、白 蓮バイ・リェンが口づけを落とした右手の熱を冷ややかに洗い流した。だが、水の中に沈めた指先が、まだ微かに熱を帯びているような錯覚を覚える。

美淑みすく様?」

明 鈴ミン・リンの怪訝そうな声に、私は我に返った。指先に残った余計な温度を振り払うように、私は静かに水盤から手を上げた。

白 蓮バイ・リェン。あの男、私の計算を僅かに上回る温度を持っていた。忠誠でも、下卑た情欲でもない。もっと純粋で、破壊的なまでの狂信。

(……誤算か。あそこまで底知れない淵を、彼は自ら抱えていたというのか)

道具として手に入れたはずの「針」が、私の予想を超えて鋭く、熱く、私自身を突き刺そうとしている。その計算不可能な熱量に、冷徹な心臓が、ほんの僅かだが不規則な鼓動を刻んだ。

私は濡れた指先を拭うこともせず、窓の外に広がる無機質な夜空を見上げた。幼い頃から、私にとって星空は安らぎだった。人は裏切り、感情は揺らぐ。だが、天体の運行だけは私を決して裏切らない。

「数式だけが、救ってくれる」

ポツリと漏れた独白は、明 鈴ミン・リンにも聞こえぬほど小さかった。数式という絶対的な味方以外、誰も信じられなかった。信じる必要もなかった。孤独であることこそが、この世を観測するための条件だった。

だが。もしも、あの男の熱が、私の孤独さえも焼き尽くすほどのものだとしたら。
私を火傷させるほどの針だとしたら。
「……面白い」

錆びつくどころか、どこまで使い物になるか、試したくなるのが私、美淑みすくだ。

あの時彼に投げかけた言葉、「王は、私を見てはくださらない」

半分は事実で、半分は餌として投げた。白 蓮バイ・リェンは、私を縛り付けていた倫理という名の鎖を引き千切り、自ら飛び込んできた。

「さて、明 鈴ミン・リン。折角手に入れた鋭い針だ。錆びつく前に」
美淑みすく様、まずはこの後宮に蔓延る邪魔な枯れ枝ですね」
「流石、私の侍女だ」

私は濡れた指先を拭うこともせず、文机に向かい、一枚の薄い紙に筆を走らせた。

標的は、正一品・賢妃ひょんび。名門の血筋を盾に、私の出自を嘲笑う、傲慢な女。

「……白 蓮バイ・リェン殿。あなたがどこまで無慈悲な針になれるか」
美淑みすく様、白 蓮バイ・リェン殿に文を渡しますか?」

明 鈴ミン・リンの問いに、私は短く頷いた。そして、書き上げたばかりの薄い紙を、先ほど髪から抜いた「一輪の梅の花」と共に折り畳む。

「ええ。これを彼に渡して」

私は明 鈴ミン・リンの耳元で、どこか愉しげに囁いた。

美淑みすく様、承知いたしました」

闇の中に、蜘蛛が獲物を絡めとる時のような、静かな笑みが溶けていった。



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