後宮御用達、月影宮の宿

YOR

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第一章:内侍の禁忌

第1話(1-5)朱炎と白昼の月影宮

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私は、いつもの務めを装い、王の寝室へと向かった。

王宮の中央通りを避け、裏の回廊へと歩を進める。この陰気な道は、昨夜、月影宮へ向かう道と重なっている。その回廊の曲がり角で、不意に声がかかった。

夜鷹よたか。ずいぶん顔色が悪いが。」

振り向くと、昨日も偶然会っている内侍府時代からの悪友――朱炎しゅえんが立っていた。

実は、朱炎しゅえん月影貴妃つきかげきひの美貌に匹敵するほどの美形だ。涼しげな目元と整った顔立ちが、女官たちを騒がせるのも頷ける。内侍である私ですら、その美しさは後宮でも指折りだと認めざるを得ない。

(あまり認めたくないのだが)

そして、朱炎しゅえんとは長い付き合いだ。彼は空気や気配、そして微細な体調の変化に至るまで、全てを見抜く卓越した観察能力に長けている。僅かな衣の着崩れや、装飾品の位置の狂いすら見逃さない。それは、まるで後宮の女官たちも舌を巻くほどの、鋭い勘だった。

「気のせいだ。王の容態を確かめに行く」

「そうか……。この頃、王の周りでは妙な噂が絶えない。お前が密命を受けているのなら、なおさらだ」

「忠告感謝する」

私は表情を変えずに返し、朱炎しゅえんと視線を合わせずに歩を進めた。

(顔色か)

あの宮の冷えを、生者である朱炎しゅえんにも感じ取られたか。それとも、あの女の気配が、私にまだ残っているのか。朱炎しゅえんの観察眼は、時に悪意よりも鋭い。不用意に探りを入れてはならない。


門前には、王の近侍を務める内管、そして身の回りの世話を担う老侍女が二人、まるで石のように立っている。

内管は、私を一瞥しただけで、無言で扉を開けた。形式的な儀礼だ。夜鷹よたかが王の寝室に入ることは、この宮で唯一、誰も口出しできない絶対の務めだからだ。

私は寝室に入り、王の御前へと進んだ。王は、顔を覆うほどの薄い紗をかけ、静かに臥せっている。

私は深々と頭を垂れた。

夜鷹よたかでございます。昨夜の務め、儀礼通り恙なく完了いたしました」

誰も返事をしない。聞こえているかも定かではない。これが今の王宮だ。

私は、王の枕元に目をやった。
王命の巻物は、規定通り、巻かれたままそこに置かれていた。

(ご苦労なことです、陛下)
任務が『完了した』という事実を、宮廷の記録内に完璧に戻した。夢ならば、ここまで周到に後始末をする必要はないでしょうに。王宮の悪意は、もっと雑で、もっと露骨なものだと、貴族の端くれだった私が一番よく知っている。

王命の巻物を確認し、踵を返そうとした、その時だった。

伏せていた王の口元が、わずかに、本当にわずかに動いた。

「……げ……宮へ、行け……」

私は息を止めた。か細く、砂が擦れるような、生気のない声。

「そこにいる者を……連れ戻せ……」

王は、前回と全く同じ言葉を、繰り返した。私が何を見て、何を経験したかなど、一切尋ねない。あるいは、前回の王命を覚えていないのだろうか。王は、ただの伝言役なのだろうか。

(運命だ。あの女に、もう一度会え、という王命という名の誘いか)

私は、静かに膝をつき、王命を受けた。

「承知いたしました」

そして、私は王室を出た。

自室で思案する暇など、私には残されていない。王の言葉は、私にとって、もう逃れられない運命の誘導に他ならないのだ。

猶予はない。同じ王命を繰り返すということは、王の病状が進行しているか、あるいは、私に二度と引き返す機会を与えないということだ。まずは確認だ。あの宮が、白日の下でどうなっているか、この目で見なければ気が済まない。

私は、王命の巻物を持たずに、その足で月影宮へと向かった。

時刻は昼前。当然、満月の夜ではない。この時間ならば、付近で働く侍女や下男、宦官の噂の一つや二つ、耳に入るだろう。

――その時、再び回廊の角で朱炎に阻まれた。

夜鷹よたか。ずいぶんと急いでいるな。王の容態は如何だった?」

「問題ない。用事を思い出しただけだ」

「用事?お前が王命の巻物も持たずに、これほど顔色を変えて駆け出す用事など、この宮には無いだろう」

朱炎しゅえんの目が、私を鋭く貫いた。彼は、私とすれ違ったほんの数秒で、巻物がないことまで確認していたのだ。

「……何が言いたい」

「お前が行く場所は、昨日から噂になっている月影宮だろう。この頃の王の異常な指示は、すべてあそこから発せられていると、内侍府では囁かれている」

「くだらぬ噂だ」

「くだらんか?そのくだらぬ噂の根源に、お前が引きずり込まれているのは確かだ。私は心配しているのだよ、長年の悪友として」

朱炎しゅえんは、涼やかな笑顔の下に、有無を言わせぬ圧力を潜ませていた。

「私も同行する。どうせ、お前は真実を話すつもりはないだろうからな」

夜鷹よたかは、朱炎しゅえんの監視者としての才能を改めて思い知った。ここで彼を振り切れば、余計な疑念を生む。

「……好きにしろ」

私は吐き捨てるように言い、月影宮へ向かう回廊へと足を踏み出した。

(厄介な監視役を背負い込んでしまった)

月影宮へ続く回廊には、昨夜のような闇も、湿った苔の気配もなかった。

隣を歩く朱炎は、この宮を特に気にかける様子もなく、ただの古びた回廊として認識している。彼の視線は、そこにある「古さ」しか捉えていない。

宮へ近づくにつれて、夜鷹は違和感を覚える。時刻は昼前。後宮の裏側とはいえ、この時間は必ずどこかしらで下男が掃き掃除をし、侍女が水汲みに通りかかるのが常だ。だが、回廊は不自然なほど静まり返り、生活の気配がない。

「どうした、夜鷹。顔色がますます悪いぞ」

「……いや、何も」

光に曝された月影宮は、ただ人が寄りつかなくなっただけの、古びた廃宮の姿のままだった。屋根瓦は崩れ、木材は色褪せ、異様な静寂が支配している。

私は、回廊の脇にある給仕の小部屋の前を通り過ぎる。昼食の準備か、そこから微かに女官たちの笑い声と、茶の湯を運ぶ音が聞こえてきた。

――好都合だ。

だが、夜鷹は確信を得る。

(妙だ)
この宮が「廃墟」だというのなら、なぜここで給仕が行われている?王が病に臥せて以来、この宮へは誰も近づかないとされているはずだ。笑い声は、隠された何かがあることを示している。

私は足音を殺し、壁際に立ち、聞こえてくる会話に耳を澄ませた。

「どうした?こんな宮の裏で立ち止まる趣味があったか」

「何でもない。……この宮の噂を聞いていただけだ」

朱炎が、怪訝な目で私を見ている。

(夜鷹は朱炎から視線を逸らし、耳を澄ませ続けた。)

「ねぇ、聞いた?また、月影宮にいた女が消えたんだって」

「あそこは昔から、関わった人間は皆消えるって言われてるじゃない」

「噂じゃ、あそこの主の月影貴妃つきかげきひが、夜な夜な若い血を吸っているんだとか……」

女官たちはすぐに、次の噂話へと話題を移した。

(死因は毒殺だ。後宮内では呪いとして処理されている。愚かだ)

殺人事件より、見えない呪いのほうが、人間は遥かに恐れる。それは千年経っても変わらない民の性だろう。そして、為政者も侍女も民にしてもまた、愛されるよりも恐怖を共有する方が、ずっと統治、操りしやすいものだ。王宮も、里も、その原理で動いているに過ぎないのだ。

私は内衣の乱れを整え、給仕室に背を向けた。

月影宮の門前には、昨夜と同じ二人の門番が、感情を削ぎ落とした顔で立っている。昨夜から、彼らは本当に寝ていないのだろうか?それとも、交代したところで、この門番という役職は、最初から人間として扱われていないということか。無表情の石像を置いておく方が、よほど効率的だ。

「門を開けろ」

門番たちは無言で、昼間の光の中で、夜鷹よたかが声をかけても、二人は微動だにしない。

「内侍の夜鷹よたかだ。王命だ」

王命は、ここにはない。

しばしの沈黙の後、門番の一人が淡々と答えた。

「失礼いたしました。この宮には、長らく誰もおりません。王命であっても、お通しすることはできません」

槍が静かに傾けられ、拒絶が示される。

(……やはり、そうか)

夜鷹よたかは確信した。
この宮は、特定の条件が揃わなければ存在しない。昨夜の出来事は、満月の夜という条件のもとでのみ開かれる、別の時の出来事だったのだ。門番にそれ以上の問答を仕掛けなかった。彼らにとって、昨夜の月影宮は存在しなかった。

――満月の夜まで、ただ待っているわけにはいかない。

私は、朱炎しゅえんの視線をかわしながら、頭の中で次の行動を組み立てた。

あの侍女・桂花が報いを与えたとされる加害者の屋敷。

(まずはそこだ)

侍女の温かい香りが残した手がかりを追う。それが、あの女が私に課した対価ならば、私は応じねばならない。



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