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第一章:内侍の禁忌
第1話(1-4):夢かうつつか
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翌朝、夜鷹は自室の寝台で、身体の奥に残る泥水のような冷えを引きずりながら身を起こした。
(……随分と質の悪い目覚めだ)
寒いわけでも、汗をかいているわけでもない。ただ、内臓の一つひとつが、昨夜まで別の水に浸されていたような感覚だけが残っている。
寝台の脇に置いた水差しに手を伸ばす。指先の感覚は正常、陶器の冷たさも分かる。喉を通る水も、きちんと冷たい。
五感は揃っている。ついでに言えば、頭も冴えている。
(つまり、体調不良という線は消える)
それでも、胸の奥に居座るこの冷えだけは、理屈に従おうとしない。まるで、あの宮の空気を呼吸したことで、あちら側の水を、少量だが確実に体内に取り込んでしまったような後味だ。
(夢なら、もう少し手心というものがあってもいいだろうに)
誰にともなく皮肉を吐き捨て、夜鷹は息を整えた。
(さて……これは、王宮が用意した新手の嫌がらせか)
掌を見つめる。
幽世の宮で握りしめていたはずの灯籠の温もりも、冷たい汗の感触も、きれいさっぱり消滅していた。
――その点は実に清々しい。証拠隠滅としては満点だろう。
胸に手を当てれば、心臓は相変わらず律儀に仕事をしていた。どうやら、今日も生者として起きてしまったらしい。
月影貴妃の、目を逸らせば祟られそうなほどの美しさ。あの禁忌の静寂が、私の日常を侵食してくれれば、どれほど面白かったか。
全くもって、残念なことだ。
(もし、私が内侍府に戻り、昨夜の事を誰かに話せば、狂人の戯言として片付けられるのか)
私は自室の椅子に深く腰掛けた。
内侍としての冷静な頭が、昨夜の出来事を手際よく整理し始める。
後宮で生き残るために身につけた、役に立つが決して誇れない習性だ。美徳でもなければ、誇示するものでもない。長く息をしている者ほど身につく、現実逃避という名の自己防衛の一種である。
理解できないものは、まず無害に仕立てる。説明のつかないものは、仮の理屈で封をする。
(正気を保つには必要なことだ)
以前、王の食事の配膳の順序が毎日意味もなく変わったことがあった。疑問に思い、それを問うた。そして、内侍として、その異常を正そうと上司である内侍府の長官に報告した。
すると、長官は私を呼び出し、「これ以上、宮の慣例を穿鑿するな。」と、何の理由も説明せずに圧力をかけた。
膳食を司る宦官たちは「誰の指示かも知らぬまま、そうする決まりだ」と答える。だが、彼らが本当に知らないのか、それとも知っているが、口にすれば首が飛ぶから言わないのか、そのどちらもが、上層部の圧力と合わせて、この宮の狂気の根源だ。
――そして、恐らく、この異常こそが王の病の原因の一つであった。
私は内密に動き、王の健康を損なう食事や行動を避けるよう、密かに助言をしていた。毒見役が王の食事を毒見することは、もちろん形式通り行われる。だが、すぐに溶け出さず、毒見役には無害だが、長時間摂取することで王の体を蝕むように工夫された毒に対しては、私の警告も意味をなさなかった。
(私の責任でもある。完璧だと過信し、見えない悪意の存在を軽視した結果だ)
――「精神を病むのは王だけでよい。そなたは長く息をするのだ」
私は、王からそうした見えない圧と狂気を、真正面から問い詰めるなと仰せつかった。見えない脅威を、理屈で小さく閉じ込め、蓋をする。そうしておけば、とりあえず内侍として、この後宮で今日も生き延びることはできる。
そして、この宮における私自身の責務なのだ。
――では、昨夜の出来事にも、蓋をせねばなるまい。
王命を装った何者かが、惑わせる香でも焚いたのだろう。あるいは、薬と毒の境を踏み越えぬ程度の細工か、幻術めいた集団催眠。命を奪わぬ分だけ、まだ良心的な手口だ。
これこそが、私にとっての仮の理屈だ。説明としては、実に優秀である。内侍としては、これ以上ないほど都合がいい。
――理屈の上ではな。
だが、月影貴妃の振る舞いは、その理屈にいくつも余計な綻びを残している。
幻であれ、幻術であれ、支配する側はもっと簡潔で冷酷でいい。恐怖を与え、従わせ、記憶を曖昧にして追い返せば済む話だ。
それなのに、あの女はそうしなかった。命を奪わず、願いを聞き、対価を取り、そして待つと言った。
後宮で待つという選択をする者は、たいてい、何かを失っているか、何かを欲しているかだ。それは、愛、復讐、権力、あるいはただの解放かもしれない。そして、その欲こそが、後宮で最も人を狂わせる。
最も恐ろしいのは、人の心に巣食う飢餓だ。
鶴頂紅のような即効性の毒は、一服で命を奪い去る。断腸草のように、苦痛を伴いながらゆっくりと死に至らせる毒もある。
だが、何万と人がいるこの宮で、目に見えぬ欲ほど伝染し、秩序を破壊する毒はない。あの女は、その毒を撒くことを選ばず、ただ待っている。
月影貴妃の冷たさの奥に、一瞬だけ覗いたものは同情でも慈悲でもなく、もっと厄介な理解しようとする視線だった。
その瞬間、私の心は不本意にも強く踊った。
そして、桂花という侍女が消えた瞬間に残された、桂花茶の、あの妙に温かい香り。
恨みだけで人は救われない。報いだけで魂は静まらない。
「この侍女に起きた事件の裏側を調べよ」と、あの女は言っているように感じる。
もっとも、誰に言われずとも、毒殺されたばかりの侍女の件を洗い直すのは、内侍としては至極まっとうな仕事だ。
死人よりも生き残った者の方が、よほど厄介な火種になる。疑いを放置すれば、次の毒は必ず用意される。それを摘み取るのが、私の内侍としての役目だ。情報収集と王宮の闇を暴くことは、私の最も得意とする分野である。
記憶だけを都合よく選り分けて幻に仕立てるなど、王宮の誰にそんな手の込んだ芸当ができるというのか。
理性はもっともらしい言い訳を並べ立てるが、肝心なところで、見事に筆が止まる。
──理由は分かっている。
それは、正直に言えば、あの美貌に、もう一度会ってみたいという不純な動機のせいだ。これは、否定のしようもない。
(……まずは確かめるしかないか)
(……随分と質の悪い目覚めだ)
寒いわけでも、汗をかいているわけでもない。ただ、内臓の一つひとつが、昨夜まで別の水に浸されていたような感覚だけが残っている。
寝台の脇に置いた水差しに手を伸ばす。指先の感覚は正常、陶器の冷たさも分かる。喉を通る水も、きちんと冷たい。
五感は揃っている。ついでに言えば、頭も冴えている。
(つまり、体調不良という線は消える)
それでも、胸の奥に居座るこの冷えだけは、理屈に従おうとしない。まるで、あの宮の空気を呼吸したことで、あちら側の水を、少量だが確実に体内に取り込んでしまったような後味だ。
(夢なら、もう少し手心というものがあってもいいだろうに)
誰にともなく皮肉を吐き捨て、夜鷹は息を整えた。
(さて……これは、王宮が用意した新手の嫌がらせか)
掌を見つめる。
幽世の宮で握りしめていたはずの灯籠の温もりも、冷たい汗の感触も、きれいさっぱり消滅していた。
――その点は実に清々しい。証拠隠滅としては満点だろう。
胸に手を当てれば、心臓は相変わらず律儀に仕事をしていた。どうやら、今日も生者として起きてしまったらしい。
月影貴妃の、目を逸らせば祟られそうなほどの美しさ。あの禁忌の静寂が、私の日常を侵食してくれれば、どれほど面白かったか。
全くもって、残念なことだ。
(もし、私が内侍府に戻り、昨夜の事を誰かに話せば、狂人の戯言として片付けられるのか)
私は自室の椅子に深く腰掛けた。
内侍としての冷静な頭が、昨夜の出来事を手際よく整理し始める。
後宮で生き残るために身につけた、役に立つが決して誇れない習性だ。美徳でもなければ、誇示するものでもない。長く息をしている者ほど身につく、現実逃避という名の自己防衛の一種である。
理解できないものは、まず無害に仕立てる。説明のつかないものは、仮の理屈で封をする。
(正気を保つには必要なことだ)
以前、王の食事の配膳の順序が毎日意味もなく変わったことがあった。疑問に思い、それを問うた。そして、内侍として、その異常を正そうと上司である内侍府の長官に報告した。
すると、長官は私を呼び出し、「これ以上、宮の慣例を穿鑿するな。」と、何の理由も説明せずに圧力をかけた。
膳食を司る宦官たちは「誰の指示かも知らぬまま、そうする決まりだ」と答える。だが、彼らが本当に知らないのか、それとも知っているが、口にすれば首が飛ぶから言わないのか、そのどちらもが、上層部の圧力と合わせて、この宮の狂気の根源だ。
――そして、恐らく、この異常こそが王の病の原因の一つであった。
私は内密に動き、王の健康を損なう食事や行動を避けるよう、密かに助言をしていた。毒見役が王の食事を毒見することは、もちろん形式通り行われる。だが、すぐに溶け出さず、毒見役には無害だが、長時間摂取することで王の体を蝕むように工夫された毒に対しては、私の警告も意味をなさなかった。
(私の責任でもある。完璧だと過信し、見えない悪意の存在を軽視した結果だ)
――「精神を病むのは王だけでよい。そなたは長く息をするのだ」
私は、王からそうした見えない圧と狂気を、真正面から問い詰めるなと仰せつかった。見えない脅威を、理屈で小さく閉じ込め、蓋をする。そうしておけば、とりあえず内侍として、この後宮で今日も生き延びることはできる。
そして、この宮における私自身の責務なのだ。
――では、昨夜の出来事にも、蓋をせねばなるまい。
王命を装った何者かが、惑わせる香でも焚いたのだろう。あるいは、薬と毒の境を踏み越えぬ程度の細工か、幻術めいた集団催眠。命を奪わぬ分だけ、まだ良心的な手口だ。
これこそが、私にとっての仮の理屈だ。説明としては、実に優秀である。内侍としては、これ以上ないほど都合がいい。
――理屈の上ではな。
だが、月影貴妃の振る舞いは、その理屈にいくつも余計な綻びを残している。
幻であれ、幻術であれ、支配する側はもっと簡潔で冷酷でいい。恐怖を与え、従わせ、記憶を曖昧にして追い返せば済む話だ。
それなのに、あの女はそうしなかった。命を奪わず、願いを聞き、対価を取り、そして待つと言った。
後宮で待つという選択をする者は、たいてい、何かを失っているか、何かを欲しているかだ。それは、愛、復讐、権力、あるいはただの解放かもしれない。そして、その欲こそが、後宮で最も人を狂わせる。
最も恐ろしいのは、人の心に巣食う飢餓だ。
鶴頂紅のような即効性の毒は、一服で命を奪い去る。断腸草のように、苦痛を伴いながらゆっくりと死に至らせる毒もある。
だが、何万と人がいるこの宮で、目に見えぬ欲ほど伝染し、秩序を破壊する毒はない。あの女は、その毒を撒くことを選ばず、ただ待っている。
月影貴妃の冷たさの奥に、一瞬だけ覗いたものは同情でも慈悲でもなく、もっと厄介な理解しようとする視線だった。
その瞬間、私の心は不本意にも強く踊った。
そして、桂花という侍女が消えた瞬間に残された、桂花茶の、あの妙に温かい香り。
恨みだけで人は救われない。報いだけで魂は静まらない。
「この侍女に起きた事件の裏側を調べよ」と、あの女は言っているように感じる。
もっとも、誰に言われずとも、毒殺されたばかりの侍女の件を洗い直すのは、内侍としては至極まっとうな仕事だ。
死人よりも生き残った者の方が、よほど厄介な火種になる。疑いを放置すれば、次の毒は必ず用意される。それを摘み取るのが、私の内侍としての役目だ。情報収集と王宮の闇を暴くことは、私の最も得意とする分野である。
記憶だけを都合よく選り分けて幻に仕立てるなど、王宮の誰にそんな手の込んだ芸当ができるというのか。
理性はもっともらしい言い訳を並べ立てるが、肝心なところで、見事に筆が止まる。
──理由は分かっている。
それは、正直に言えば、あの美貌に、もう一度会ってみたいという不純な動機のせいだ。これは、否定のしようもない。
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