孤独な大賢

橘伊鞠(ろさ)

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言っている意味が、よく分からなかった。
怒濤の如く過ぎていった濃い夜の終わりに、涼しげな潮騒が響いている。
知らない内に進んでいた物語の事実を突き付けられた俺は、ただ受け入れることが、精一杯で。
いつもはよく回るこの頭の中に、壊れたネジが音を立てて落ちていく。
それは、規則正しく動いていた俺の機能の一部を強く擦り、次にどうするかと判断する気力を失わせた。
そんな傷、共有なんてしたくない。見せてほしくもなかった。
……けど、ようやく理解出来た気がした。

彼女がどうして、あんなにも穏やかだったのかということを。
分かっていたから、その悲しみを、ずっと隠してくれていたのだ。

「そうさ、あいつは長くない」

愛用のパイプをくわえ、ノルテは鬱とした煙をその肺へと吸い込んだ。
古い建築用式で建てられたリーリエの城の客室は、白くぼやけて、陽を受けている。

「それでも五年は持つ筈だ。まあ、長命のあたしたちにとっちゃ、五年なんて短いけどね……」

小皺の見える目元に、疑問に満ちた感情を乗せてノルテは言う。
レオンは手慰みに本を開き、おそるおそる問いかけた。

「重い、病ですか」

「いや。自然な老衰さ。ああ見えて古株だよ」

「老衰……?」

「どっちにしろ……それをあんたに話す必要は無いと思うんだけどね。あんたをよっぽど見込んだか……。ヴォルフラントの考えてることはさっぱり分からない」

「ノルテ様でも、分からないことがあるんですか」

部屋の隅にある古い本棚をいじりながら、レオンは振り返る。
ふっと軽く微笑んだノルテは、パイプを灰皿の縁に置いた。はっきりと喋りやすくなった口許に、手の甲を当てる。

「私なら、話さない。そう思ったのさ」

「……けど、自分の死期なんて普通分からないんじゃないですか?」

レオンがそう言うと、それもそうか、とノルテは笑う。
しかし、どこか歪な笑顔の端はすぐに薄れ、ノルテは沈むように頬杖をついた。

「そうすると……軍師なんて、実は一番何も分かってない愚か者なのかもしれないねえ」

それは、ノルテが初めて見せた弱音だった。
彼女自身、何気なく溢した言葉だったのだろうが、レオンはひどく驚いた。
急に老けこんで見えたその輪郭に、言い知れぬ不安が沸き起こる。

黙りこんでしまっては、駄目だ。

詰まりそうになった喉から、言葉を無理矢理引き出した。

「やめてください!」

レオンの大きな声に、ノルテは弾くようにして顔を上げた。
本を選んでいた筈の少年の手は、固く握りしめられ、細かに震えている。
今まで、どんな事でも感情の均衡を崩さなかった弟子の、怯えたような表情に、ノルテは動きを止めた。

「レオン……?」

「……ノルテ様が愚か者なら、俺はっ……俺はどうすればいいんですか!? ヴォルフラント様の命が短いと聞いたのは今朝です。けど、ミリアさんは……ミリアさんはっ! ずっと知っていたんでしょう……!? 結婚するんでしょう……!?」

少年は、まるで今までずっと抑えていたものを吐き出すかのように震えていた。
銀灰の細い瞳が懸命に見開かれ、感情に負けまいと言葉を纏めようとする様が痛ましい。

「……レオン……お前……」

「ヴァイスの民のことなんて、ほんとはどうでも良かった……。けど、この前から、なんでこんな……。こんなに色々見せられたって、俺には何も出来ないっていうのに……」

「……レオン」

ノルテが急ぐように立ち上がり、レオンに歩み寄る。
長いローブの裾がシュッと音を立て、レオンの足元にかかった。
そっと頬を包み、その顔を覗きこむ。
孤独に満ち、冷えるばかりであったその双眸は、生き生きとした感情の波に支配されていた。

「俺はこんなこと知りたくなかった……無理ですよ……っ……こんなっ……。知らないよこんなの……!」

ミリアがいつも優しく穏やかでいる理由も。
あの兄妹が、どうしてあんなに反発していたのかも。
自分に辛く当たってきた兄弟子たちも、もしかしたら、自分の知らないところで何かがあって。
知っていたつもりだった。理解していた筈だった。
人が死ぬと悲しいとか、一人きりは寂しいとか。
こうすればその悲しみは取り除けるでしょう、解決するでしょう。
簡単じゃないですか。情報が溢れてるこの世界では、答えはそこら中に転がっている。
殺し合いが正当化された戦争だって、戦略さえあれば終わる。

じゃあ、その中で生きていくには、達観していればいい。
くるくるとよく回るこの頭で、ただ静かに、指揮を振るってさえいればいいんだから。

他人の感情なんて、分からないままでよかった。

レオンの瞳が、透き通る。
涙が揺れて、たまらず溢れだす。感情の波に押され、ぽろぽろと。
優しく頬を伝うその雫に、少年の心はゆっくりと温度を取り戻す。
少年は、心を取り戻したのだ。

「……そうかい。あんた、ずっと考えてたんだね。あんた自身に足りないものが何かって、とっくに理解してたんだね」

大きく袖を広げたノルテの腕が、レオンの両側から回される。
香も何もつけていないノルテは、古い本のように、不思議な香りがした。
遠い記憶を、そっと思い出させてくれるような――。

「この国にいれば、きっと、あんたの産まれてきた本当の意味が分かると思ったんだ。あんなところで育ったんじゃ、きっとあんたは、この世界の悲しみも喜びも、なんにも知らないままで生きていくことになる。……そんなの、見てられなかったんだよ」

「……あんな……ところ……?」

「それは知らなくていい。いずれ知るだろうし、今はまだ、前だけを見ておくんだ」

「ノルテ様……」

懺悔にも似たその言葉に、レオンの涙が最後の一滴を流す。
胸の中で、弾けた感情の光りに、レオンは息を飲んだ。

「ノルテ様が、俺を此処に連れてきてくださったんですか」

問いかけると、ノルテは困惑したように笑った。
そして優しくレオンの頭を撫で、頷いた。

「……そうさ。私は間違っちゃいなかったねえ。こんな立派な子に育ってくれたんだから」

その、漆黒の瞳はまるで、何もかも許してくれるような深さで。
何と例えればいいのだろう。
この、無条件で差し出される暖かい手の先に見えるそれは、一体何なのか。

何をしても、そこに貴方がいるというだけで、恐れることはないと勇気を出せるよな。
そんな気持ちにさせてくれる、貴方は。

俺の、何なんだろう。

レオンに触れた手は、確かに暖かく、尽きることの無い愛情に満ちていた。
だが、その手の甲は、時の経過を物語る波に蝕まれ、既に白く、儚く……。
少年は、それに気付くことはなかった。

最期まで。
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