孤独な大賢

橘伊鞠(ろさ)

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それから、五年。
ヴァイスに生きる者にとっては、あまりに短い年月であった。

良く晴れ渡った空の下。白鳩が高く飛ぶ、始まりの朝。
いつも通りに報告書に目を通し、パイプを加えて頬杖をつく。
本の香りに満たされた執務室は清潔で、皺のある口元から「聞いているのかいレオン」という言葉が聞こえて。

聞こえて、くるはずだった。

「ノルテ様……」

先程まで座って外を眺めていた筈の彼女は、床に倒れこんでいた。
散らばった報告書の紙と、煙管の灰。窓からは冷たい風が流れ込んでいて。
朝陽が、彼女の全てを白く、凍り付かせていた。

「ノルテ様……今日は、俺の、昇級の日です」

風に吹かれ、紙がレオンの足元に舞う。

「一級軍師です。俺、とうとう一級軍師になれたんです」

黒く長い髪が少し動く。だがそれは、風によるもので。

「五年ですよ。最短だって……レヒト様が」

手には、まばゆい階級章。八重の花があしらわれた銀の組紐が光る。

「ノルテ様、俺は……」

これ以上、近づけない。この横たわった人が、師であると認めたくない。

「俺の名前、まだ聞いていません……」

ノルテ・ヴァッサミューレは、その日長い人生に幕を下ろした。
奇しくも、双子の兄妹であった、ヴォルフラントと共に。
失う時に咲く花は、リーリエの海岸添いに狂い咲き、黒い花弁を散らす。
国葬は粛々として執り行われ、皆が悲しみに暮れた。
レオンは軍師代表として、白い百合の花を持ち、その墓標に捧げた。
すらりと伸びた背、白く裾の長い軍服。その背中は、もう大人の男性のものであった。

彼の傍らでは、ミリアが声なく涙を流していた。
真珠のように美しい涙が、無機質な石の墓標に痕を残す。ぬぐってもぬぐっても流れ出る涙は止まらず、このままでは哀しみで壊れてしまうのではないかとレオンは思った。

『私が倒れし後、どうかミリアを支えてやってくれないか』

なんてことを言い残していってくれたのか。
レオンはやはり気に入らないと眉根を寄せ、棺を見つめる。
だが、傍らの彼女は言葉を出さない。悲しみを口にしない。
はらはらと零れ落ちる瞳は、しっかりと前を、現実を見つめている。

レオンは、彼女の手を握った。はっとしてミリアがこちらを見る。

「大丈夫です。君も俺も、まだまだやるべきことがたくさんある」

「軍師……」

「俺たちはこれからたくさんこういうことを見るかもしれない。でも、大丈夫。俺はずっとヴァイスの軍師で、君もずっと、ここで生きていくんです。でも疲れたら、お茶をしましょう。俺たちだけじゃなく、みんなで」

「っ……うん……」

「約束です」

「……はい」

レオンは唇を結び、ぐっと前を見据えた。今だけは、彼女を支える男でありたい。
墓石を取り巻く無数の百合の花。白く、見送る為の魂鎮めの色。
別れは終わりではなく、繋ぐためにある。

リーリエの鐘が鳴る。全ての大地に届くように。
今ひと時の別れが、どうか未来に繋がる始まりの時であるようにと。

いずれ自分が出会う、護るべき存在のために。
守るべき、王の為に。

男は、己の中の少年と別離し、前を見た。



   *   *   *


――それから、長い時の後。

「軍師、レオン軍師!」

慌ただしい声が頭上から振ってくる。まだ眠いからと眼が閉じていく。
だが声の主はそれを許さず、思い切り枕を取り上げた。

「ふわっ、ちょ、何デスかミリアさん!!」

「何ですかじゃありませんよ! ヒル様が戻ってきましたよ!」

ミリアは手にレオンの上着を持ち、それを思い切り投げつけた。

「ヒル君が……無事デスか!」

「あの方よりも、そうじゃないんですよ! ちゃんと連れてきてくださったんですよ!」

ミリアは次にレオンのズボンを投げつける。連続で衣服を投げつけられ、レオンはわたわたとそれを拾う。

「連れてきたって、まさか!」

サイドテーブルに置いていた眼鏡をかけると、視界がはっきりする。
いつの間にか目の前に来ていたミリアは、瞳を輝かせていた。
それは、あの時、あの星月夜のリーリエで見たそれと同じ輝きをしていた。

「早くしてください!」

ズボンを履きながら、転びそうになるレオンを置いてミリアは部屋を出る。
姿見に、寝癖が付いただらしない自分が一瞬映ったが、構わず走り出した。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! ミリアさーん!」

散らばった本、まとまりのない報告書の束。インクが染みついた羽根ペンが、無残に転がる。
机の上には、飲みかけのカップが二つ。
月を呼んで、星を孕んで。琥珀の夢を、映していた。



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