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16巻
16-1
1
――時は少し遡る。
ケリュネオン奥地にある吹雪止まぬ魔の山で、温泉郷が驚愕のスピードで建設されている最中の事だ。
クズノハ商会の幹部である巴は、温泉の工事の進捗を確かめた後、用事を片付けるために席を外した。
彼女の行き先はリミアにある湖。
巴も、そして彼女の主――深澄真も以前訪れた、森の中の静かな湖だった。
名をメイリス湖という。
リミアを守護する上位竜リュカが住まう場所だ。
先ほどまでの楽しげな様子など一切感じさせない巴は、腰の刀を抜いて一閃する。
その直後、実に不思議な光景が眼前に現れた。
巴の刀が走った軌跡の部分に目を向けるとメイリス湖の中央に島が見えるが、それ以外のどこから見ても湖に島などない。
再び巴が刀を振るった。
うっすら輝く軌跡は裂け目のように広がり、巴はその中に入っていく。
彼女が中に消えてしばらくすると……裂け目はなくなり、メイリス湖に静寂が戻った。
「流石に自らの領域に侵入されれば警戒はする、か。もっとも、ソフィアとランサー如きにも効果を為さなかったものが儂に通ずる事など、ありえんがな。さて……」
竜殺しソフィアと上位竜ランサー。かつてここでリュカを屠り、その力を奪った者の名だ。
周囲を見渡した巴は、大きく息を吸う。
「リュカーー!! 出て参れー!!」
刀を納めた巴が、大声でこの空間の主である上位竜の名を呼ぶ。
しかし返事はなく、水辺から何者かの気配が現れた。
「む……眷属か。余計な手間を省きとうて、わざわざ大声を出してやったんじゃがなあ」
そこにいたのはゲル状の魔物だった。真がクズノハ商会の代表ライドウとして、リミアの勇者音無響と共にここを訪れた際にも、案内を務めた魔物だ。
「リュカを連れて参れ。上位竜同士の用件ゆえ、眷属の出る幕ではない」
「……」
巴の言葉に反応し、ゲルが不規則に震える。しかし、リュカを呼んでくる気配は見られない。
「やれやれ。面倒だが……仕方あるまいな」
巴は嘆息を一つ。
次いで、刀の柄に手を置き、わずかに目を細める。
直後、小さな竜がふわふわと宙に浮きながら湖面を進んで、巴に近づいて来た。
転生したてのリュカだ。
翼を使っている様子はなく、魔術で飛んでいる。
「何用ですか、蜃――いえ、巴」
「止めに出てくるなら最初から下らん様子見などするな。面倒臭い」
巴はリュカを視界に入れると、刀に手をかけたまま文句を言った。
納刀する気配は、ない。
「無礼な訪問の用件は何か、と私は聞いたのですが?」
「相変わらず、生真面目じゃのう」
「貴方は、随分と変わったようですね。怠惰と気紛れ、惰眠の象徴だった霧の竜とは、とても思えません」
「色々あっての」
「それは興味深いですね」
「……」
「……」
巴とリュカの間に不穏な空気が流れる。
「さて、用件じゃったな。リュカ、どういう理由かは知らぬがお前、以前の記憶を持っておるな?」
「……何を根拠に言っているのか。我ら上位竜の中でも記憶を保ったまま転生する秘儀を有しているのは、白の砂漠にいるグロントだけですよ、巴」
「うむ。じゃからルトと儂も安心しておった。ソフィアなんぞにやられおったお前達じゃが、まあ何事もなく転生して新たに生きておればそれでよいとな。気にも留めておらなんだよ」
巴の言葉からは、彼女と〝万色〟の上位竜ルトが今回の転生の件で何やら動いているという事が窺え、リュカはわずかに警戒を強めた。
彼女から見て、今回のルトの暴走は度が過ぎている。極めて危険な兆しだ。
「ならば問題ないでしょう。眷属の者達から聞かされましたが、あの者に敗れた事は確かに不覚。謗りも甘んじて受けましょう」
「……じゃがのう、リュカ。ちと気になる事があって〝夜纏〟――ドマの奴の卵から記憶を読んでみたら、しっかりソフィアに殺された記憶を残しておってのう」
巴の言葉を受け、リュカの口元がわずかに歪む。
「っ。かつてない事態ですね。そのような能力のない彼が前の記憶を残して転生するなど」
「アズマも生まれたばかりじゃったが、確かめたところ記憶を保っておった。ならばお前だけがいつも通りの転生をしたと考えるのは不自然じゃな、リュカ?」
〝夜纏〟ドマ、〝紅璃〟アズマ、そして〝瀑布〟リュカ……いずれも一度ソフィアに討たれて転生した上位竜である。
「巴、いい加減になさい。たとえ前の記憶を持っていたとしても、それが貴方の来訪にどう影響するというのですか」
「そうでなくば、お前の若――我が主への警戒が説明できんのじゃよ。今、儂に記憶を見せまいと防いでおる理由もな」
「ライドウへの警戒? 一体何を」
「若の記憶の中で、お前は若を明らかに過剰に警戒しておった。分からんか? それが、〝儂がアズマとドマの記憶を調べる切っ掛け〟なんじゃよ。全てはお前の態度から生まれた疑問よ」
静かに言葉を続ける巴。
一方、リュカは巴が口にした〝若の記憶の中で〟という言葉に、明らかに驚きを示した。しかしその変化はすぐに消え、表情に自信が戻る。
「ふふっ、若の記憶? ライドウに支配される身である貴方が、主である彼の記憶など見られるわけがないでしょう。ハッタリはやめなさい」
「……儂らの関係は少々特殊でな? 若は儂に惜しげもなく記憶を晒してくださるのじゃ。まあ、ここまで話をしている時点で最早確認の意味もない、か」
二人の間に流れる空気がわずかに変わる。
否、巴が変えた。
「記憶を、他者に惜しげもなく見せる? そんな馬鹿なヒトがいるわけがありません。それに私が見た限り、ライドウは他人に記憶を覗かれる事をよしとする精神を有してはいません」
「ふっ、お前に若の何が分かるか。あの二人を見て、それでも響に期待するような者に理解できようはずがない」
主の、ライドウの記憶を見なければ口にできないはずの言葉が次々に巴から出てくる事実に、リュカがたじろぐ。
「……まさか、本当に従者に記憶を見せる主人など、そんな馬鹿げた存在が」
リュカは主人と言ったが、ヒューマンや人間に限らずある程度の知性を持っている種族の個であれば、他者に――しかも従僕としている存在に、記憶を見られる事をよしとするわけがない。
少なくともリュカはそう思っている。
だからこそ信じられなかった。
しかし事実、巴はまるでライドウと自分の会話を見てきたように知っている。
リュカとしては、ライドウ個人にさほどの警戒心を抱かせたつもりはない。アレは腹芸を得意とする人物ではないし、客観的に体験を話す特技なども持ち合わせていないはずだ。
はず、ハズ、筈。
リュカは自身が願望を前提として思考している事に気付く。
巴が言っているように、ライドウが記憶を晒しているという説明が一番しっくりと来る――そんな恐ろしい事実にも。
「誤算じゃったなあ。裏で動くつもりが、あっさりと露見してしまった。リュカ、もう分かっておろうな? 儂の目的はお前の命、じゃよ」
「上位竜同士が殺しあう? ライドウにそこまで狂わされましたか、巴」
リュカの言葉に、巴は喉元で笑う。
彼女には珍しい獰猛な笑いだった。
「かもしれんのう。あの方は実に麻薬じみた魅力をお持ちじゃ」
「どう考えても、その言葉が当てはまるのは勇者のいずれかであると思いますが?」
「誰の目にも良いもの、大勢から賞賛を受ける者はその実、誰一人熱狂させる事ができぬ、とも考えられる。より最大公約数を求めた結果は無難なものにまとまる事もある。その反例としての考え方かもしれんがな。うちの若は万人受けはせんが、ほんの一部の者を魂の底から熱狂させる、そういう方なんじゃよ」
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「アズマは儂、ドマはルトが……じゃがな。とりあえず今度の転生では、記憶は引き継がれておらん。前回は死に方がイレギュラーじゃったから、と儂らは見ておる」
「よくも平然と……ライドウが女神以上にこの世界にとって危険だと、こんな簡単な事さえ分かりませんか、ルトも、貴方も」
巴は無言で太刀をリュカに向ける。
一気に空気が張り詰めていく。
「私の領域で亜空は展開させませんよ。ソフィアの時の不覚は繰り返しません」
「哀れじゃなあ。亜空など、元々使う気はないわ。残念じゃが、儂と今のお前では勝負も成立せん。こんなもの、不愉快な雑事でしかないわ」
そう言うなり、巴は魔力を纏うリュカとは異なる方向に刀を振るった。
その一撃で、巴に攻撃を仕掛けたゲルが、真っ二つになる。
音もなく、素早いモーションの変化だったにもかかわらず、巴は視線を逸らす事なくそれを――獲物を捕食する瞬間のクリオネに酷似した姿に変わったゲルを、斬って捨てた。
以前の、力任せに刀を扱っていた巴の姿はもうない。
少なくとも刀の扱いを知っている体運びだった。
開戦だ。
「この!」
リュカの声に反応して、湖から輝く水柱が無数に立ち上る。己が構成する空間で、しかも得意な属性の術ともなれば、リュカには詠唱など不要だった。
渦巻く多数の水柱が自在にうねって多彩な軌道を描き、巴に襲い掛かる。
無詠唱による威力の減衰など、欠片も見えない。
しかし、巴は微塵も焦った様子はなくその状況を見つめ――何を考えたのか、刀を鞘に収めた。
「耐性があるから耐えられるとでも!?」
「……」
巴はそのまま動く事すらなく、次々に水柱に貫かれていく。
宙に持ち上げられた彼女はそこでも荒れ狂う水に襲われていた。
「っ!?」
その光景を見ていたリュカが、突然息を呑む。
無理もない。
いきなり目の前から何もかもが消え去ったのだ。
リュカが湖の水で大技を放つその直前まで、時間が巻き戻ったかのように。
――ただ、巴の姿はあるべき場所になかった。一瞬でそれに気付いたリュカが、彼女の姿を追う。
「遅いのう」
「ば、かなっ」
上空から聞こえた声に、リュカは思わず呻く。
しかし、適切な対処ができない。
上から降ってくる巴は、既に腰の刀に手をかけた後だった。
まるで間に合わない。
「――っ」
目に追えぬ高速の斬撃。
巴が最近励んでいる居合いの太刀だ。
やや高く浮いた自分の体を上から下に通り過ぎていく巴の姿が、リュカにはいやにゆっくりと感じられた。
そしてまた、巴を見失う。
湖面に落ちた音も、様子もなかった。
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「蜃、そこにっ!?」
リュカはつい、かつての名で巴を呼び、次いで己の身に起きた事を知った。
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原因が、首を刎ねられたからだと気付いた時にはもちろん手遅れで――
リュカの頭が静かに湖に落ちていった。
「もう終わりかの」
「……まさか」
巴の問いに答え、リュカの頭が言葉を紡ぐ。
一瞬で湖面が凍りつき、少し遅れてふわりと湖面に降りた胴体が、氷の上に転がった己の頭を手にした。
「まるでアンデッドじゃな」
巴は驚きもせず、頭を元の位置に戻して繋げるリュカを見て苦笑した。
「この場で戦う以上、この程度の状況は読んでいたでしょうに」
「無論じゃ。逆にお主は儂の手の内がまるで読めんようじゃがな」
「……確かに。戦士として戦うかと思えば術を用い、そして防ぐでも食らうでもないあのやりよう……幻術ですか」
「その通り」
「幻術と分かれば、対処など容易い。幻と分かる幻に意味などありませんよ?」
「さて、どうかのう。どこまで幻術であったかも見切れないそのザマでは、な」
巴は腰を落とし、突然その場で居合いを放った。
遠目でも辛うじて抜き手が追えるだけの凄まじい速さに、リュカが表情を硬くする。
「なんの真似です?」
「すぐに分かる」
「……不愉かっ、あ?」
突然、リュカは肩口に鋭い熱さを覚えた。
視界が真っ赤に染まる。
吹き上げた血のせいだ。
誰の?
言うまでもなく、リュカ自身のものだ。
斬られた。
彼女がその事実に気付くまでに数秒を要した。
「儂の手下に持たせた刀には〝マーキング〟という能力があってな。条件を満たした相手なら、距離も射程も無視して自在に斬れる。……もっとも、魔力の消費も馬鹿にならんが、それでも刀一本でやっていくつもりなら有用じゃ。面白そうじゃったから、儂の刀にも付与させた」
「まるで曲芸ですね」
リュカの傷が瞬く間に癒えていく。ここは彼女の支配する――全てを最も優位に展開させられるはずの場所。
事実、首を刎ねられても、あからさまな重傷を負わされても、彼女はそのダメージに動じていない。
しかし、痛みを感じていないのは巴の妙技の副作用、というわけではない。リュカは上位竜きっての回復魔術の使い手だ。
「治癒の術、回復にかけては上位竜でも並ぶものがいない、か。名も腕も一応は錆び付いてはおらんな」
「こんな攻撃で、私を殺せると?」
「ほんの試し斬りと、儂の修業の成果を確かめたかっただけじゃよ。もう、終いにしよう」
言うが早いか、巴の姿が合わせ鏡のように増えていく。地の利などまるで無視した巴の暴力が加速していく。
横一列に並んだ全ての巴が、静かに詠唱を始めた。
「また幻術ですか! 何をする気かは知りませんが、やらせません!」
リュカは増えた巴を次々に魔術で消していく。
しかし、消したそばから巴の姿はさらに増えていき、まるで状況が変化しない。
「ここまで大規模の幻術など、どうしてここで! ……まさか、気付かぬうちに亜空に引き込まれているとでも……」
「そのような姑息な真似はせん」
「そこですか!」
リュカは巴の声がした方向に、即座に高めた力を乗せて全力のブレスを見舞う。
以前、魔族領でルトが放ったそれと比べると微々たる威力だが、小さな体から撃たれたものとしては相当なブレスだった。
図体だけの中位竜レベルなら一瞬で氷塵となって消し飛んでいただろう。
リュカのブレスは巴を捉えたように見え――しかし急速に薄れて消え去った。
当然、巴は無事だ。
「一体、貴方は何を仕掛けているのですか……」
「恐らくは覚えている事もかなわぬじゃろうが……有幻無実。それがお前を殺した術じゃ」
「殺した? 何を」
「これで、気付けるか?」
巴がリュカに腕を向けると、風が吹いた。
なんの魔力も籠もっていない、正真正銘、ただの風だった。
「風? これで何が――!?」
「……」
「体が、霧に!?」
「夢幻と現とは、果たしてどこにその境界線があるんじゃろうなあ」
巴が独り言めいた呟きをこぼした。
風に流されるまま、リュカの体が少しずつ薄れ、手足、翼から崩れて消えていく。
リュカがそう感じた通り、風に押し流される霧、それに映った幻を見ているかの如き、奇妙な光景だった。
「幻術などで!」
リュカは今起こっている事象を即座に幻と断じた。
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魔術が発動すらしない。おかしい。
「無駄じゃ。己自身が一瞬でもそう疑ってしまった時、お前のその身は真の幻と成り果てた。最早消えゆくのみ、じゃよ」
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明らかに上位竜すら超え、世の理を逸脱した能力だ。
「ならば、攻撃を幻にするのは認めるのか? まあ、好きに解釈せい。頭だけになっても恐怖に顔を歪めぬのは立派じゃったぞ」
「待ちなさい、どこに行くのですか!」
「終わったでな、お主より余程大事な〝温泉〟が待っとる。それに、夕食に遅れては若にいらぬ心配をさせるしのう。お前や他の上位竜などの事で、あの方の心を乱しとうない」
「蜃、巴! ま、て……」
死ぬ。
リュカは確信した。
幻術がどうこうどころか、どのような技をいつ食らったのかも分からないが、このままではあと十秒もしないうちに死ぬ。
「ではまたな、リュカ」
「まっ……て……」
リュカの姿が掻き消え――なかった。
「!?」
一閃。
鳴き声に似た独特の響きを伴った矢が、背を向けた巴とリュカの間を貫いた。
矢はそのまま湖の中に消えていく。
前に亜空で面白がって試作された音の出る破魔矢、破魔鏑矢のそれに酷似した音であった事に気付いた巴が、はっとして振り返る。
矢の影響は覿面だった。
いつの間にか、巴はリュカの住まう裏世界のメイリス湖から表の世界に戻ってきていた。
一方、リュカはと言えば、消えていった時の逆再生で体が無事に再生している。
間違いなく、生きていた。
巴は一瞬苦渋に満ちた表情を浮かべ、そして大きく溜息を吐く。
「参りましたな、若。儂のやりそうな事などお見通し、というわけですか?」
巴が相応の数を始末したので、流石に眷属は目減りしていたものの、リュカ自身は生きていた。
今、巴は確かに感じる主の気配に動けずにいる。
リュカもまた動けない。
もしも巴の言う通りライドウの介入があったとしたなら、自身の敵意も彼に知られている事になる。
ライドウは一旦生かした相手であっても、必要とあれば〝殺しなおす〟のを厭わない。
リュカの中で、彼は相当容赦のない存在として認識されていた。ソフィアの顚末を間近で見ていたのだから、ある程度偏った印象になるのは無理もないが。
そして……その場にはもう、何一つ動くものはなく。
元々静かだったとはいえ、あまりにも不自然な、完全な静寂が一帯を支配していた。
そんな中――
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本当に、ありがとうございます。
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