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序「バッドエンドしかない」という悪役令嬢とやらから初めてを奪ってくれと言われたのだが、聞いて欲しい

序1

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「陛下、ラストダンジョンに現れた者が居りますのでご準備を」
 忠臣の声が扉の向こうから聞こえる。それは太陽の光が届かず、薄暗いのが常である魔界でもそれなりに麗らかな午後のことだった。
 いつもと同じに退屈な午後、いつもと同じにどんよりとうっすら曇った空。いつもと同じに飛んで行くドラゴン。通年変わらぬ風景を眺めながら、僕は窓辺で読書をしていた。目は文字を追ってはいるものの、内容は全く頭の中に入っていなかった。なぜならこの城にある本という本は全て読みつくし、暗記しているからだ。
 退屈だ。実に退屈だ。魔界の景色は変わらない。幼き頃、若さに任せて退屈しのぎに大暴れしてみたが、この魔界に僕より強い者はいない。筋肉痛にもならなかった。
「……陛下?」
「……久々だな。百年ぶりくらいか」
 返事を促すノックの音に項垂れ、扉へ向かって歩き出す。一応これが僕の仕事だ。暇を持て余し、退屈しているよりマシだ。行かねばなるまい。
「今、どの階層まで来ている?」
 声をかけると扉が開いた。厳かに頭を垂れた黒髪の青年が答える。
「は。魔王の間の前にてお待ちいただいております」
「! それを早く言わぬか! ええい、鎧を持て! くそ、間に合うか?!」
「陛下、鎧ではなくこちらをお召しになった方がよいかと思われます」
「なんだ? どうしたというのだシリトア。お前の成人式に仕立てたジュストコールなど持ち出して。戦闘で汚れたら困るだろう。結構高かったんだぞ、仕立て代」
 魔王だというのにケチくさいなどと言うなかれ。魔物たちが集めた宝を人間が奪って行き、その保障だの補填だので正直、金がないのだ。おのれ人間どもめ。
 僕の返答に大変微妙な表情をした家臣へ服を押し返す。ところが忠臣はなぜか頑なに譲らなかった。
「こちらはお召しにならぬとしても、どうか、どうか鎧は。せめて正装でお向かいくださいませ」
「何ゆえだ?」
「その……」
 艶やかな呂色ろいろの髪、赤い瞳。甘く整った美貌は月の如く冴え渡る。吸血鬼一族の中でも最も純粋で高貴な血筋の家臣が目を伏せた。繊細な刺繍の施されたジュストコール、ジレ、ブーツを合わせるため七分丈のブリーチズ。僕の持っている中でもそれなりの金をかけて仕立てた衣装を押しつけ、それから搾り出すように吐き出した。
「魔王の間前にて待っておられるのは、ご令嬢にございます」
「……は?」
 ご令嬢。ラストダンジョンの魔王の間に来るご令嬢。ゴリラの令嬢ゴリ令嬢とかじゃなく?
「あっ、そうか。なぁんだトア、そんな深刻な顔をするから驚いたじゃないか。パーティーの中にご令嬢が居るのだな? あれだろうほら、白魔法使いとか回復職の聖女とかそういう」
「ご令嬢一人でお待ちでございます」
「は?」
 一人? ひとり? ラストダンジョンにご令嬢一人で?
「それはあれだな、魔人族のご令嬢とかそういう」
「いいえ、人間の。それも花も恥じらうお年頃といった様子の、まごうことなきご令嬢にございます」
「……あれか。もうもんのすごい筋肉ムキムキのマッチョなご令嬢か」
「いいえ、普通に可憐な細身のご令嬢にございました」
「バカを申せ、魔王の間まで単独ダンジョン制覇する普通の可憐な細身のご令嬢などどこの世界に居るというのだ! アナルイジルは何をしている! まさか、可憐なご令嬢に負けたのか!」
「負けた、のでしょうね。まだライキ公爵家を確認しておりませんが」
 ダンジョンで負けた魔物は自宅へ自動転送され、再生魔法がかかるようになっている。とはいえやっぱ痛みはあるし怪我はするし、危険な仕事なので魔界でも最高の給与と手当が付く。
 魔王の間直前を守るアナルイジルの年俸、いくらだと思ってんの!
「アナルイジルは魔界一の強者であろう! 普通の可憐な細身のご令嬢に負けてしまうとは! あれほど定期的に戦績を確認しろと言ったではないか、トア!」
「私だって信じたくありませんでしたよ、だから何度も確認したんです、そしたら陛下宛ての手紙まで渡されましたよ、今魔王の間の前でとりあえずお茶を飲んでいただいておりますのでお早く支度してくださいませ!」
 魔王の間は度々勇者だの冒険者だのに戦いを挑まれ、破壊されるので調度品は玉座以外に何一つ置かれていない広間である。その扉の前は魔界の貴族の中でも一番強い巨人族の長で公爵である、アナルイジル・カ・ライキが守っている。当然巨人族が立ち回れる空間だから、まぁだだっ広い。そんなところでぽつんと茶を飲まされる令嬢。家臣の苦悩が滲み出ている。
「早くぅ、早くぅ」
「トア、お前キャラが崩壊していないか」
「キャラ崩壊もしますとも。舞踏会へ向かうようなドレスを着たご令嬢が魔王の間へ向かう最後の難関、溶岩の川に鉄杭を打ち込みながらまるでダンスを踊るかの如く優雅に渡って来るのを見た私の気持ちが陛下に分かりますか」
「鉄杭?!」
「ええ。拳で打ち込んで。轟音と地響きを夢に見そうで私めは、私めはううううう……」
 訳が分からない。想像ができない。さめざめと泣き出した家臣の肩を優しく包む。
 魔界の公爵、名門デイク家の長男シリトア・ナル・デイク。育ちの良さゆえ常に完璧な紳士。いつもならば取り乱したりはしない忠臣が混乱して泣き出す姿など初めて見る。
「……分かったトア。お前には休暇を与えよう。疲れておるのだな」
「……ええ、ええ、言っても信じていただけないでしょうね。ご自分の目で確かめてください」
 差し出された手紙を受け取り、目を通す。
『拝啓。寒さも和らぎ僅かに長くなった陽射しに春の訪れが近いことを感じる季節になってまいりました。魔王陛下におかれましてはますますご健勝のことと存じます。面識もない人間の小娘の分際で不躾にこのようなお手紙をしたためますことをお許しください。ラストダンジョンには何度か出入りしておりますが、魔王の間までお邪魔したことはございません。このたび魔王の間にお邪魔したのは折り入って魔王陛下にお願いしたい儀があるからでございます。会ったこともない人間の小娘にいきなりこんなことを言われてもお困りになられるとは重々承知の上ですが、魔王陛下にはわたくしの『はじめて』を奪っていただきたく、まずは取り急ぎ用件のみお知らせさせていただきます』
 どこからツッコんだらいいのか分からないが、どこがおかしいのかと言われれば全部おかしいな。うん。
「……なにこれ」
「何が書いてあったのでございますか」
「……トア。僕は多分、人間語を覚え間違えているんだと思う」
「いやいや、陛下は魔王にございますよ? 神が光と物質の守護者ならば、あなた様は闇と精神の支配者。人間どもが小賢しくそれぞれに違う言語を使ったとしても、あなたに理解できぬ言語などこの世界に存在しないのですよ?」
「……じゃあ、このご令嬢が何か勘違いしておるのだろうな。とりあえず魔王の間にて話を聞こうではないか」
「そうしてください」
「うむ」
 魔王の執務室の隣にある扉は魔王の間に直通となっている。魔王の間にある玉座のすぐ裏に出ることができるのだ。ほんと勇者とか冒険者とかいう人間はこっちの都合も考えないで、昼夜問わず好き勝手な時間に魔王の間にやって来るのでこちらとしてはいい迷惑である。寝ている時間にいきなり突撃して来られる身にもなって欲しい。その上、魔王の間が開くのが遅いとか文句言われた挙句に襲い掛かって来られるのである。理不尽極まりない。人間とはなんと凶暴な生き物であろうか。
 しかし本当にご令嬢とあらば、速やかに危険の及ばぬ場所まで帰っていただくのみだ。魔王が貴族令嬢をかどわかしたなどとあらぬ噂になってもつまらない。魔王とてやってもいない罪で糾弾されるのは遺憾の極みである。
 うんざりした気持ちで扉を開く。玉座の裏にある幻術のかかった空間で軽く首を左右に動かす。突然現れるのもアリだが、やはりここは扉が開く前から威厳を持って玉座に付いているべきであろう。重々しく開いた扉の隙間から、徐々にその人物の姿が見えた。
 淡く艶やかなトウヘッドはほとんど銀色に近い色合いだ。雲一つない春の高く澄み渡る空色の瞳は多少切れ長ではあるが、強く知性の光を湛えている。唇は少し薄めでしかし小さく、朝露に濡れた薔薇の花弁の如く艶やかに咲いている。すっきりと整った容姿はどこか冷ややかな美ではあるが、確かにこの上なく美しい。バッスルスタイルの深緑のドレスは、ふんだんにフリルやレースがあしらわれたクラシカルだがシンプルかつ斬新なデザインで、どう考えてもこの姿でこのダンジョンを進んで来たとは思えない。
「良く来た強き者よ。私が魔王、アナルパァルである」
「……お尻の穴に入れておたわむれになってはいけませんのですわ……」
「ん? うん?」
 なんかちょっとお尻がどうとか聞こえた気がするが空耳だろう。しかし。
 ええ――っ?! ちょ、マジで普通にご令嬢じゃん! ムキムキどころかちょっとスレンダーなくらいじゃん? 一人で? このご令嬢が? 嘘だろ? このダンジョンに配置してる部下、結構強者揃いよ?
 片手には多分、トアが出しただろうお茶の入ったティーカップ。ええ……。ちょ、うちのデキる部下、ご令嬢に立ったままお茶飲ませたの……。
「ひゃっは美声……イケボ……イケボが過ぎるのですわ」
 内心で驚いている僕を後目に、ご令嬢は何やらぷるぷると震えて口元を押さえている。小声で聞こえないようにしているつもりだろうが、魔王イヤーは地獄耳なのだよご令嬢。
玲瓏れいろうに整っているかと思いきや少年と青年の間の甘やかな美しさも含む絶世の美貌……こんなスチル見たことない……黄金よりも煌めく匂い立つような琥珀色の瞳……光を受けて虹色に輝く漆黒の髪……さらさら……さらさらですわ……髪の毛一本一本が圧倒的美……お肌キレイ……とぅるっとぅるの毛穴レス白磁肌ですわ……美麗……眼福……」
「?」
 すちる? すちるとはなんだろう。ぼそりとご令嬢が漏らした小さな独り言を逃さない。自慢だから何度も言うが、魔王イヤーは地獄耳なのだよ。
「ご拝謁の機会をいただきまして光栄にこざいます、陛下」
 優美に礼をした令嬢は確かに可憐である。マジか。いやいや嘘だろ。扉の向こうに騎士が控えてるんだろ。そうだと言ってくれ。
「……そなた、本当に一人でここまで来たのか?」
「ええ、はい」
「マジで?」
「マジでございます」
 無表情にこっくり頷いた見目麗しき令嬢は、優雅な所作でティーカップをシリトアへ渡す。
「あ、ごめん。テーブルって広間の外に設置したのか? トア」
「はい。陛下がご不在時に魔王の間へ人間を入れるわけにはいきませんので」
 僕が不在の時は玉座しかないだだっ広いだけの部屋だからな。特に何か仕掛けがあるわけでもないけど、そこは様式美というヤツだ。
「……まぁ、こちらにも事情が色々とあるのだ。許して欲しい」
「いいえ、先ぶれもなく参りましたのはわたくしに非がございますので。ですが魔王陛下へのお手紙の宛先が分からず不躾にも直接かつ突然の訪問になりましたこと、お詫び申し上げます」
 何、普通に常識的そうなご令嬢じゃないどうしたの。何か余程の理由があるに違いない。そう。僕は察することのできる男だ。威厳を損なわず、しかし令嬢への理解を示して語りかけるために口を開く。魔界には散髪屋など存在しない。ゆえに伸ばしっぱなしの髪が、玉座のひじ掛けへ肘をついた僕の動きにつられてさらり、と流れた。
「ぎゃん顔がいい」
「?!」
 今このご令嬢の鳴き声がしたが大丈夫だろうか。気を取り直して威厳を保つ為に足を組む。ご令嬢は目を閉じて唇を噛み締めている。何この子怖い。何かの発作だろうか。持病? 持病があるの? お薬飲む? 早くお家に帰った方が良くない?
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