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第2話 魔女の日々
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「魔女さま……本当にありがとうございます……」
あばら家の薄いベッドの中で、女がか細い声でささやく。少年の家は予想通り火の気もなく、彼の母は放っておけばそのまま亡くなってしまいそうなほど青白く、痩せこけていた。
リュネは、彼女に温かいスープとリンゴを食べさせ、持ってきた薬を飲ませたところで、仕事に行く少年を見送った。少年の母は変わらず薄い体を咳で震わせているが、その頬にはほんのりと血色が戻っていた。
「残りの薬は、後で息子さんに渡すわ。このマントも、体調が良くなったら息子さんに持たせて返してね」
「何から何まで……なんとお礼を言えば良いのか」
「いいのよ。あの子のためにも、ゆっくり休んで元気になって」
「はい。お慈悲に感謝します……」
お大事に。そう残して、リュネは少年の家を後にする。このあたりは似たような——今にも崩れそうな掘っ建て小屋が寄り添いあって建ち並んでいる。
その光の差さない闇の中、目の光だけが揺らめいているのを、いくつもいくつも見かけた。
(領主さまに嘆願書を出すか……その前に牧師さまに相談しなくては)
彼女のように、栄養失調からくる体調不良で動けない者も、きっと多くいるのだろう。このままにしておくと、第二、第三の少年が現れてしまう。
そうなる前に、打てる手は打たなければ。
「おぉ、魔女さま!」
と、リュネが考えていると、明るい声が彼女を呼んだ。いつの間にか貧民街を抜け、農場のあたりまで戻っていたらしい。振り返ると、麦わら帽子を被った老人がゆったり手を振っていた。
「こんにちは。どうかしたの?」
「いやあ、会えて良かった。お礼が言いたくてねえ。この間頂いた薬がよく効いて、腰の痛みがすっかり引いたんだ」
それを聞いて、リュネは思わず顔を綻ばせていた。この老人は長く腰の痛みを抱えており、仕事にも影響が出ていると嘆いていたからだ。薬草を複数合わせて練り合わせ、『おまじない』をかけた特製の塗り薬は、ぴったり彼に合ったらしい。
「それは良かったわ。もし再発するようなら、別のものを持っていこうかと思っていたの」
「それがもう、ぴたっと無くなって。魔女さまの薬はいつもそうだが、ありゃ一体どういう組み合わせで?」
老人がにやりと笑って尋ねる。リュネは眉をひょいと上げて回答を考える。この男は野草にも詳しいので、迂闊なことは言えない。
それに、だ。
「それは魔女の秘密。教えたらおばあちゃまに怒られちゃう」
リュネがくすりと笑ってくちびるに指を当てると、老人はからからと大声で高笑いした。
「ははは、先代さまに怒られるか! そりゃ恐ろしい! なら、魔女さまの魔法の力と思っておくよ」
「ふふ、ありがとう。今度、置き薬を持って行くわ」
手を振って、リュネは老人と別れる。ちょっとどきどきした胸を撫で下ろしながら。
確かに、魔女の薬の中身や配合の割合は秘密中の秘密。魔法の師匠でもある老婆は、誰にも教えてはいけないと言って、いくつもの薬の配合をリュネに叩き込んだ。魔女の薬の神秘性を保つためには、その技術は一子相伝的に引き継がれていく必要がある。
けれどそれだけではない。リュネの魔法の薬は、ただ効果のある薬草を混ぜ合わせただけのものでは無いのだ。
「魔女さま!」
「魔女さま、助けて!」
続けて村のメインストリートを歩いていると、今度は道ばたでしゃがみこんでいた少女たちが声をかけてきた。皆、片手に石板を持っているから、きっと学校帰りなのだろう。
「どうかしたの?」
「あのね、猫ちゃんが」
「猫?」
彼女らが取り囲んでいたのは、小さな子猫だった。怪我をしているのか、後ろ足にはまだ濡れた血の跡がついている。痛むのか、傷のある足は地面に付けられずうずくまっていた。
手を伸ばすと、猫は威嚇して引っ掻いてこようとする。その鋭さに、少女たちがきゃあと悲鳴を上げた。
「ネズミ捕りに引っかかっちゃったみたいなの。すごい痛そうで」
「魔女さま、お願い……!」
「ええと、ちょっと待ってね……」
興奮する猫から目を逸らし、リュネはそうっとしゃがんだ。
このくらいなら、どうにかなる。
やがて静かになった猫の後ろ足、赤赤とした血に濡れたその部分をそうっと手で覆う。少女たちの影が揺らめき、子猫がぱた、と尾を振る。じわ、と指先が熱くなり、細く長く息を吐く。
「治るの?」
「……ええ。もう、大丈夫」
リュネがゆっくりと手を離すと、痛々しく刻まれていた猫の傷は、ぴっちりと埋まるように閉じていた。ふわふわとした毛に血の跡こそ残るものの、猫の足はしっかりと地面を踏みしめている。
その姿に、わあ、と歓声が上がった。
「すごぉい! もう治っちゃった」
「なんで? 魔女さますごい!」
「秘密の魔法、なんてね。それより、この子随分小さいのね」
猫は、先程までとは打って変わってくるりと腹を向けて手にじゃれついている。痛みが無くなったからなのか、あるいは、本能的に、リュネの中の『なにか』に気づいているのかもしれない。
けれど、その体は痩せており、触れればすぐに骨が分かるほどだ。揃いのお下げ髪の女の子たちは顔を合わせると、口々に話し始める。
「生まれた時からだよ」
「そうそう。ご飯あげても、すぐ他の子に取られちゃってたし」
「学校で育ててたんだけど、途中からいなくなっちゃったの。いじめられて、追い出されたのかなって」
だから私たちで探してたんだ。彼女たちの証言に、リュネは頷いて聞く。幼い少女たちからすると、他よりひと回り小さいこの子は、より庇護したくなる対象だったことが窺える。
とはいえ、この猫はこのまま弱い者として生きていくのが摂理なのかもしれない。無邪気に指先で遊ぶ猫を見ながら、リュネは思案する。弱肉強食は生き物の摂理。きっと放っておくことが、自然的で正しいことなのだろう。
けれど。
「……牧場のおじさまのところだったら、ネズミ捕りとして飼ってくれるかしら」
ぽつり、とつぶやいていたのは、数週間前に聞いていた話だった。確か、置き薬の補充に向かったときの雑談で……。少女のひとりが、はっとした顔でリュネの顔を見上げた。
「ダンおじさんのとこ? そういえば、猫ちゃん、いなくなっちゃったって……」
「そう。前に、ネズミが出て困ってるって聞いたから……もしかしたら、もう他の猫がいるかもしれないけれど」
「じゃあ聞いてみようよ! あそこなら食べるものいっぱいあるし、牛乳を飲んだら大きくなれるかも」
牧場がダメなら、農家とか。他所のお家にも飼えないか聞いてみよう。ぱあっと顔を明るくしてはしゃぎ始める女の子たちに、リュネは慌てて付け加えた。
「ちょっと待ってお嬢さんたち。もし、誰からも断られて行き先がなかったら、その猫はうちに連れてきてちょうだい」
その言葉に彼女らはええっ、と驚く。合わせるように、地面に転がったままの猫がぴゃあと鳴いた。
「魔女さま、猫飼うのー?」
「うちにも倉庫があるから。大きく育つまで、そこの倉庫番に任命するわ」
だから、無理に押し付けて来ちゃダメよ。
リュネの言葉に、少女たちは顔を引き締める。きっと、断られることなど露にも考えていなかったのだろう。
リュネは猫をそっと持ち上げて、彼女らのひとりに手渡した。同じ色をした緑のまなこがリュネを見て、もう一度高い声で鳴いた。まるで、別れの挨拶をするみたいに。
「それじゃあ、よろしくね」
「うん。分かった!」
「ありがとー魔女さま!」
少女たちは興奮しながら、けれど猫を落としてしまわないよう走ってその場を去っていく。それを見送って、リュネはふうっと息を吐いた。白い雲がゆるやかに高い空を撫でていた。
☆☆☆
その後、彼女らが猫を連れてやって来ることは無かった。ので、きっと、あの子は新しい家を見つけられたのだろう。
(今度村であの子たちに会ったら、猫のその後を聞いてみようかしら)
池の水に足先をつけながら、リュネは力を抜いた。リンゴの少年は約束通りに働きに来たし、牧師にも貧民区の状況について相談もした。最悪な目覚めから始まったにしては、上出来な日だ。
「ん~……ふふ、ふ~ん……」
鼻歌がこぼれる。まだ幼いころ、老婆が繰り返し歌っていた歌だ。セレスの夢にうなされ、泣きわめいて目覚めるリュネに、何度も何度も歌ってくれた、あのしわがれた声。
指先が、柔らかく水をかく。それに呼応するように、水たちが淡く輝く。周りの花がぶわりと咲いて、踊るように風に揺られる。すうっと通る青い香りのする風が、リュネの首すじをさらりと撫でた。
「……っと、いけないいけない」
心を鎮め、息を吐く。明かりは星と、ランプのそれだけになり、花は眠るように花弁を閉じる。辺りを見回してから、リュネはこっそり池から足を引き上げた。
濡れた足の輪郭を、まだ吹いていた風がするするとなぞっていた。
あばら家の薄いベッドの中で、女がか細い声でささやく。少年の家は予想通り火の気もなく、彼の母は放っておけばそのまま亡くなってしまいそうなほど青白く、痩せこけていた。
リュネは、彼女に温かいスープとリンゴを食べさせ、持ってきた薬を飲ませたところで、仕事に行く少年を見送った。少年の母は変わらず薄い体を咳で震わせているが、その頬にはほんのりと血色が戻っていた。
「残りの薬は、後で息子さんに渡すわ。このマントも、体調が良くなったら息子さんに持たせて返してね」
「何から何まで……なんとお礼を言えば良いのか」
「いいのよ。あの子のためにも、ゆっくり休んで元気になって」
「はい。お慈悲に感謝します……」
お大事に。そう残して、リュネは少年の家を後にする。このあたりは似たような——今にも崩れそうな掘っ建て小屋が寄り添いあって建ち並んでいる。
その光の差さない闇の中、目の光だけが揺らめいているのを、いくつもいくつも見かけた。
(領主さまに嘆願書を出すか……その前に牧師さまに相談しなくては)
彼女のように、栄養失調からくる体調不良で動けない者も、きっと多くいるのだろう。このままにしておくと、第二、第三の少年が現れてしまう。
そうなる前に、打てる手は打たなければ。
「おぉ、魔女さま!」
と、リュネが考えていると、明るい声が彼女を呼んだ。いつの間にか貧民街を抜け、農場のあたりまで戻っていたらしい。振り返ると、麦わら帽子を被った老人がゆったり手を振っていた。
「こんにちは。どうかしたの?」
「いやあ、会えて良かった。お礼が言いたくてねえ。この間頂いた薬がよく効いて、腰の痛みがすっかり引いたんだ」
それを聞いて、リュネは思わず顔を綻ばせていた。この老人は長く腰の痛みを抱えており、仕事にも影響が出ていると嘆いていたからだ。薬草を複数合わせて練り合わせ、『おまじない』をかけた特製の塗り薬は、ぴったり彼に合ったらしい。
「それは良かったわ。もし再発するようなら、別のものを持っていこうかと思っていたの」
「それがもう、ぴたっと無くなって。魔女さまの薬はいつもそうだが、ありゃ一体どういう組み合わせで?」
老人がにやりと笑って尋ねる。リュネは眉をひょいと上げて回答を考える。この男は野草にも詳しいので、迂闊なことは言えない。
それに、だ。
「それは魔女の秘密。教えたらおばあちゃまに怒られちゃう」
リュネがくすりと笑ってくちびるに指を当てると、老人はからからと大声で高笑いした。
「ははは、先代さまに怒られるか! そりゃ恐ろしい! なら、魔女さまの魔法の力と思っておくよ」
「ふふ、ありがとう。今度、置き薬を持って行くわ」
手を振って、リュネは老人と別れる。ちょっとどきどきした胸を撫で下ろしながら。
確かに、魔女の薬の中身や配合の割合は秘密中の秘密。魔法の師匠でもある老婆は、誰にも教えてはいけないと言って、いくつもの薬の配合をリュネに叩き込んだ。魔女の薬の神秘性を保つためには、その技術は一子相伝的に引き継がれていく必要がある。
けれどそれだけではない。リュネの魔法の薬は、ただ効果のある薬草を混ぜ合わせただけのものでは無いのだ。
「魔女さま!」
「魔女さま、助けて!」
続けて村のメインストリートを歩いていると、今度は道ばたでしゃがみこんでいた少女たちが声をかけてきた。皆、片手に石板を持っているから、きっと学校帰りなのだろう。
「どうかしたの?」
「あのね、猫ちゃんが」
「猫?」
彼女らが取り囲んでいたのは、小さな子猫だった。怪我をしているのか、後ろ足にはまだ濡れた血の跡がついている。痛むのか、傷のある足は地面に付けられずうずくまっていた。
手を伸ばすと、猫は威嚇して引っ掻いてこようとする。その鋭さに、少女たちがきゃあと悲鳴を上げた。
「ネズミ捕りに引っかかっちゃったみたいなの。すごい痛そうで」
「魔女さま、お願い……!」
「ええと、ちょっと待ってね……」
興奮する猫から目を逸らし、リュネはそうっとしゃがんだ。
このくらいなら、どうにかなる。
やがて静かになった猫の後ろ足、赤赤とした血に濡れたその部分をそうっと手で覆う。少女たちの影が揺らめき、子猫がぱた、と尾を振る。じわ、と指先が熱くなり、細く長く息を吐く。
「治るの?」
「……ええ。もう、大丈夫」
リュネがゆっくりと手を離すと、痛々しく刻まれていた猫の傷は、ぴっちりと埋まるように閉じていた。ふわふわとした毛に血の跡こそ残るものの、猫の足はしっかりと地面を踏みしめている。
その姿に、わあ、と歓声が上がった。
「すごぉい! もう治っちゃった」
「なんで? 魔女さますごい!」
「秘密の魔法、なんてね。それより、この子随分小さいのね」
猫は、先程までとは打って変わってくるりと腹を向けて手にじゃれついている。痛みが無くなったからなのか、あるいは、本能的に、リュネの中の『なにか』に気づいているのかもしれない。
けれど、その体は痩せており、触れればすぐに骨が分かるほどだ。揃いのお下げ髪の女の子たちは顔を合わせると、口々に話し始める。
「生まれた時からだよ」
「そうそう。ご飯あげても、すぐ他の子に取られちゃってたし」
「学校で育ててたんだけど、途中からいなくなっちゃったの。いじめられて、追い出されたのかなって」
だから私たちで探してたんだ。彼女たちの証言に、リュネは頷いて聞く。幼い少女たちからすると、他よりひと回り小さいこの子は、より庇護したくなる対象だったことが窺える。
とはいえ、この猫はこのまま弱い者として生きていくのが摂理なのかもしれない。無邪気に指先で遊ぶ猫を見ながら、リュネは思案する。弱肉強食は生き物の摂理。きっと放っておくことが、自然的で正しいことなのだろう。
けれど。
「……牧場のおじさまのところだったら、ネズミ捕りとして飼ってくれるかしら」
ぽつり、とつぶやいていたのは、数週間前に聞いていた話だった。確か、置き薬の補充に向かったときの雑談で……。少女のひとりが、はっとした顔でリュネの顔を見上げた。
「ダンおじさんのとこ? そういえば、猫ちゃん、いなくなっちゃったって……」
「そう。前に、ネズミが出て困ってるって聞いたから……もしかしたら、もう他の猫がいるかもしれないけれど」
「じゃあ聞いてみようよ! あそこなら食べるものいっぱいあるし、牛乳を飲んだら大きくなれるかも」
牧場がダメなら、農家とか。他所のお家にも飼えないか聞いてみよう。ぱあっと顔を明るくしてはしゃぎ始める女の子たちに、リュネは慌てて付け加えた。
「ちょっと待ってお嬢さんたち。もし、誰からも断られて行き先がなかったら、その猫はうちに連れてきてちょうだい」
その言葉に彼女らはええっ、と驚く。合わせるように、地面に転がったままの猫がぴゃあと鳴いた。
「魔女さま、猫飼うのー?」
「うちにも倉庫があるから。大きく育つまで、そこの倉庫番に任命するわ」
だから、無理に押し付けて来ちゃダメよ。
リュネの言葉に、少女たちは顔を引き締める。きっと、断られることなど露にも考えていなかったのだろう。
リュネは猫をそっと持ち上げて、彼女らのひとりに手渡した。同じ色をした緑のまなこがリュネを見て、もう一度高い声で鳴いた。まるで、別れの挨拶をするみたいに。
「それじゃあ、よろしくね」
「うん。分かった!」
「ありがとー魔女さま!」
少女たちは興奮しながら、けれど猫を落としてしまわないよう走ってその場を去っていく。それを見送って、リュネはふうっと息を吐いた。白い雲がゆるやかに高い空を撫でていた。
☆☆☆
その後、彼女らが猫を連れてやって来ることは無かった。ので、きっと、あの子は新しい家を見つけられたのだろう。
(今度村であの子たちに会ったら、猫のその後を聞いてみようかしら)
池の水に足先をつけながら、リュネは力を抜いた。リンゴの少年は約束通りに働きに来たし、牧師にも貧民区の状況について相談もした。最悪な目覚めから始まったにしては、上出来な日だ。
「ん~……ふふ、ふ~ん……」
鼻歌がこぼれる。まだ幼いころ、老婆が繰り返し歌っていた歌だ。セレスの夢にうなされ、泣きわめいて目覚めるリュネに、何度も何度も歌ってくれた、あのしわがれた声。
指先が、柔らかく水をかく。それに呼応するように、水たちが淡く輝く。周りの花がぶわりと咲いて、踊るように風に揺られる。すうっと通る青い香りのする風が、リュネの首すじをさらりと撫でた。
「……っと、いけないいけない」
心を鎮め、息を吐く。明かりは星と、ランプのそれだけになり、花は眠るように花弁を閉じる。辺りを見回してから、リュネはこっそり池から足を引き上げた。
濡れた足の輪郭を、まだ吹いていた風がするするとなぞっていた。
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