鬼月島

都貴

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第二章

その二

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食事が終わり、風呂に入る準備をするために、朱里は美沙といっしょにいったん部屋に引き上げた。

「ラッキーだね、泊めてもらえて」

「そうね、でも、テントでキャンプっていうのが無人島の醍醐味じゃないかしら。文化的に過ごすのはちょっと違う気がするわね」

 そんなの嘘だ。美沙のてまえ、見栄を張った意見を言った。

女の子らしくいつでもかわいらしくをモットーとする美沙は、友人である自分にサバサバとしたかっこよさと理知的なクールさを求めている節がある。

性格や行動は正反対ながらもトレンドの最先端であり、容姿も整っている二人が一緒に行動しているからこそ、周囲の注目を欲しいままにできているのだ。

だから、どんな時でも美沙といる時はクールビューティな女を演じなくてはいけない。

 でも、本心では、野宿なんかよりも無料で素敵な洋館に泊まれる方がやっぱりずっとありがたかった。

 みんなでカレー作りにテント張りをするのも楽しかったかもしれないけど、虫が苦手なので不安だったのだ。もちろん、学校では虫が嫌いなどといういかにも女の子っぽい素振りは見せない。

とくに、美沙の前では虫なんてへっちゃらなふりをしている。虫を怖がるのは可愛い系の容姿の美沙の役目だ。

 以前、大学の美術の授業を選択して写生をしている時に、桜の木から大きな毛虫が落ちてきて美沙の画用紙にポトリと落ちたことがあった。

 体にたっぷりと毛を蓄えた、親指よりも太く、長さは中指ほどの長さもある巨大な毛虫だ。
灰色とオレンジと黒が混じったモザイクのような色の胴体、蠢く柔らかな気職の悪い体。見ているだけで体がかゆくなり、背筋が竦むような大物だった。

「やだぁ、きもちわるーい、怖いよ、朱里ぃ」

 甘えた声を出す美沙の前で、自分が怖がる素振りを見せるわけにはいかない。吐き気すら込み上げてくるのを堪えて、朱里は涼しげな顔で握りこぶしを作って見せた。

「大丈夫よ、ただの毛虫じゃない。私に任せなさい」

本島は虫が死ぬほど苦手で今にも叫びたいのを堪えて、虫を怖がり助けを求める美沙のために、絵筆を使って虫を撃退した。

 もしも実家だったら、遠慮なく叫び声をあげて六つ年上の兄に助けを求めていただろう。といっても、自分が大学生になった頃には兄はもう家にいなかったから助けてもらえないのだが。

 大好きだったハンサムで優しい兄は、大手企業に就職して海外支社勤務となった。兄がいなくなった家にもう用はないと、東京から離れた大学を受験して一人暮らしを始めたのは英断だったと今でも思っている。

 幼い頃から学歴信者の父と母に、好きでもない勉強を強いられ続けてきた。都内トップクラスの東大進学率を誇る進学校に入学してからは、まさに地獄のような日々を過ごしてきた。

高校二年の冬、この成績では東大進学は無理だと担任教師に三者面談ではっきりと言われてからは、両親揃って娘をできそこない扱いした。
東大が無理なら慶応や早稲田などの有名私立を目指すように強要してきた両親に内緒で、もうこんな家に居たくないと、今の大学を受験したのだ。

 今通っている大学とて偏差値はけっこう高い。難関校には違いなかった。

だけど、両親にとっては辺境の無名大学に過ぎず、そんな場所に進学する娘に両親は完全に興味を失ったようだった。

大学生になって三年経ったが、一度も実家に連絡していないし、帰省もしていないが両親は何も言わない。仕送りだけが毎月振り込まれているだけの繋がりしかない。

 だからだろうか。高校まではクラスで目立たない生徒だったのに、大学ではみんなの注目を集めようとクールビィーティな容姿に見合った冷静で賢く、リーダーシップもある目立つキャラを演じてしまう。

ミステリーやホラー好きというのもちょっとしたオプションに過ぎない。

単純に頼れる姉御肌なみんなのリーダーでは周囲に飽きられてしまうから、変人にならない程度に変わった趣味があることにしているだけだ。

本当はあまり怖い話が得意ではない。顔に感情がでにくい体質なので、友達同士集まってホラーを鑑賞していても表向きは平然としていられる。
そのことをまわりの友達は「さすが朱里だね、かっこいい!」と褒めてくれる。
だけど、内心は怖い。

ホラーを見たあと、アパートで一人きりで過ごす夜は不安でたまらない。トイレで目が覚めても、なかなか布団から出る決心がつかないほどだ。

そんなふうだから、本当は時夜が企画したホラー検証の旅行もじつは乗り気ではなかった。だけど、はしゃいでいる自分を演じているうちに本当に楽しくなった。

できればこのまま、ホラーなことなんてなにも起きないまま、ただ愉しく過ごせたらいいのに。

 大丈夫だ。どうせ何も起きないに決まっている。

奇怪な屋敷は驚くことに噂通り本当にこの島に存在したけれど、その真相は拍子抜けだった。単に変わり者が建てたウィンチェスターを真似ただけの、不思議な建築に過ぎなかった。

もう一つの噂である化け物についても心配ないだろう。化け物なんていないにきまっている。

もしこの島に時夜のいう白髪の角がある化け物などという恐ろしいものが存在していたとしたら、か弱い礼子が無事に暮らしているはずがない。

時夜だって建前では噂の真相解明などのたまっているが、本心は大学生活の思い出に旅行を楽しみたいだけだろう。

 メンツを見ればわかる。晋と圭吾は彼の親友だ。そして自分と美沙は学部内で人気の容姿もスタイルも抜群で華のある女子二人。
和樹だけは何故誘われたのか不思議だが、おおかた、話を聞いて勝手についてきたのだろう。

 このメンツでミステリーを究明するなんてまずありえない。


「それにしてもさぁ、今日の八重子の態度なんかねー」

 美沙がいつも周囲に見せている愛嬌のある顔ではなく、不貞腐れたようなつれない顔で尋ねてきた。

 美沙もみんなの前で理想の可愛い女の子像を演じているにすぎないのだな、と実感する。彼女も両親と折り合いが悪くて、逃げるように家から離れた大学に進学したとこっそり教えてくれた。

私と美沙は似ている。朱里はしんみりした気持ちでぶすっとした顔をしている美沙の横顔を見つめた。

美沙は他の人の前では、パパは何でも買ってくれて優しいし、ママはおしゃれで娘に好きなことをさせてくれるいい母親だと言っている。だけど本当のところは、美沙の父親はお金さえだしておけば子育てをしていると思っていて、母親は子供の成長に興味がない放任主義の両親らしい。

だからこそ、美沙は大学生になって誰かに見てもらいたいという欲求を満たそうとしているのだろう。そういうところが本当に自分にそっくりだ。

「八重子のやつさぁ、イケメンがそろってるからかちょっといつもとテンション違ってない?なーんか、はしゃいじゃってるっていうかさぁ。朱里、どう思う?」

 美沙は八重子が少しでも目立つような言動をとるとすぐに不機嫌になる。
朱里はあまり八重子のことなど気にならないが、美沙は徹底して彼女を引きたて役に使いたいようだった。

ここで同意しないと、美沙はがっかりするだろう。

「ちょっとイラッときたわね。男子の前だからって、自分はか弱くてかわいい女ってアピールしてた気がするのよね。私には八重子が大袈裟に怖がっているように見えたわ。鏡張りの部屋で牛の化け物を見たなんて騒いでいたけれど、ぜったいに嘘ね」

 朱里が大袈裟なまでに八重子を批判して見せると、ぱっと美沙の大きな目が輝いた。

「だよね、だよねーっ!なんなの、あの子。ぜったい晋くん狙いだよ。今日とか、さり気なく晋くんに甘えるような感じだったしさ。ブスのくせに、晋くんに近付こうなんて許せない。釣り合ってないってカンジだよねー」

「そうね、私もそう思うわ」

「もう、晋くんと時夜くんはアタシが目ぇつけてるのに。晋くんがいくらイケメンだからってさぁ、こんな時ばっかり色目使うなってゆーの。いつも石みたいに無口で大人しくて、自分の意見なんて言わない子なのに、やたらでしゃばっちゃって。もう、アタシほんとにイライラしちゃってさぁ」

「わかるわよ、美沙。せっかく友達がいないから私達が仲良くしてあげているのに、あの態度は許せないわよね。調子に乗らないで欲しいわ」

「そうそう。地味でブスなんだから、それなりにしてろってカンジ」

 ケタケタと笑う美沙は、いつもの可愛い子ぶりっこした彼女とは別人だ。

悪辣な悪口はさておき、朱里はこういう美沙の態度が嫌いではない。
本心を晒してくれているのが信頼されているみたいで嬉しいし、ぶりっこよりこういう素の彼女の方が飾らなくていいと思っている。

「ねえ、朱里は誰狙い?」
「え、私?」

 誰も狙っていない。

晋の容姿はかっこいいと思うが、少し冷たそうに見えるのと達観した雰囲気があるのが苦手だ。

時夜も晋ほどではないにせよ顔はまあ悪くない。
けれど、ちゃらちゃらした態度と知性のかけらもないあのヘラヘラした表情が苦手だ。

圭吾は精悍な顔立ちに筋肉質な体は男らしいとは思うが、スポーツマンはあまり好みではない。
明るい性格だけど、調和を大事にしようとするあまり主体性があまりないのもマイナスだ。体つきのわりに頼りなく思えてしまう。

そして、和樹に至っては問題外だ。容姿も崩れているとは言わないが生理的に気持ち悪くなる顔立ちだし、いつでもきざったらしく頭でっかちを演じている割には、キレ者ではない。
金持ちを鼻にかけている態度も、女子を弱い者として認識して見下しているようなところがあるのも、許せない。

 でも、この場でタイプの人がいないというとしらけるだろう。

「私はね、圭吾くんかな。男らしい顔をしているし、スポーツマンはいざという時に頼りになりそうじゃない?」

 本当は頼りがいがあるという点なら、一匹狼っぽいけど実はわりとリーダーシップがある晋の方が頼りがいがあるだろうと思ったけど、テンプレートな答えを口にした。美沙はわかりにくいのを嫌うからだ。

「だと思った。もしかして晋くんもあるかなと思ったけど、晋くんはないんだよね?」

「ないわよ。顔は一番美系だけど、好きなタイプじゃないわ」

「よかったぁ、朱里が晋くんか時夜くんが好きだったら、どうしようかと思っていたのよね。アタシ、晋くんか時夜くん狙いなんだ」

 二股か、さすがは美沙だ。男からみた自分自身の価値の高さを知っている女は、こうも大胆になれるのか。

呆れ半分、感心半分で朱里は目を輝かせて完全に恋する乙女モードも美沙を見た。

「どっちかっていうとどっちなのよ?」

「顔は晋くんかなー。でも、カレはあんまり女の子に興味なさそうだし、そういう意味では時夜くんの方が手堅いかなって。アタシに興味持ってそうだしね」

「そうね。でも、美沙なら晋くんでも落とせるかもしれないわよ。最初からあきらめたりしないで、どっちにもアタックしたらいいじゃない」

「ほんと?そうかな?」

 美沙は眉を八の字に下げて不安そうな顔をする。朱里はにこりと笑って大きく頷いて見せた。

「本当よ。美沙は可愛いもの」

「えーっ、嬉しいっ。朱里に可愛いって言われると自信持っちゃう。アタシ、がんばっちゃおっと!」

 ベッドの上に座り、枕を抱き締めて美沙が足をバタバタさせる。

彼女が一人で妄想に耽っている間に、朱里は風呂に入る準備を済ませた。

 家主の礼子を含めたら、七人が入浴を済まさなくてはいけないのだ。先に入浴する権利をもらった自分達があんまりのんびりしていたら申し訳ない。

「さて、お風呂に入ってくるわね。私が一番風呂でもいいのかしら、美沙」

「もちろん。レディーファーストだよ。男子は女子が入ってから。八重子はどうせ最後でいいって言うし、アタシ、朱里にはいつもお世話になってるもん。ごゆっくりー」

 ひらひらと手を振る美沙に手を振り返すと、タオルと着替えを持って朱里はお風呂場に向かった。

やや古ぼけた感じのある広い屋敷は、一人で歩いているとなかなか不気味だ。廊下を照らす照明は自家発電で省エネを心がけているからか、オレンジの頼りない光だ。LEDの光に慣れた目にはあまりに暗い。

屋敷の窓からは闇の中で影絵のようになった森が見えるだけで、街灯は一切ない。無人島だからとうぜん民家もお店もない。

外に人の気配がないのは昼間のうちは静かでいいなと思っていたが、夜ともなると心細く感じられた。

「迷子になったら終わりね」

 地理感覚が優れていてよかった。家主の礼子の説明を思いだしながら、朱里は足早にお風呂場にむかった。

方向音痴な人だったら、屋敷の中で迷子になっていただろう。それにこの屋敷には仕掛けみたいな部屋があった。うっかり妙な部屋の扉を開けたりしたら危険だ。

 朱里は迷うことなくお風呂場に辿り着いた。

一般家庭と同じように洗面所を兼ねた脱衣所には鍵がかからない。そのことに多少不安を覚えたが、晋達は覗きをするような卑劣な男子ではないから大丈夫だろう。

もてなさそうな和樹だけには一抹の不安を覚えるが、金持ちの紳士を気取っているからきっと覗きに来たりしない。

 風呂場は広く、床のタイルは白、壁のタイルはペパーミント色と爽やかで落ち着いた雰囲気を醸していた。よく掃除されており、色がやや褪せている感じはあったがカビは生えていない。

 後に人が入るので身体だけ先に洗うと、白い浴槽にゆったりと身を沈めた。暖かなお湯に包み込まれて気持ちがいい。野宿だったら、こうはいかなかっただろう。

 一人になった解放感も手伝って、鼻歌交じりで風呂にはいっていると背後の洗面所から何かが蠢く気配がした。

「きゃぁっ!」

振り返った朱里は思わず小さな悲鳴を漏らした。

 風呂場のすりガラスの扉の前に、黒い人影がぬぅっと佇んでいたのだ。人影は、正面からこちらを見据えているようだった。

「いやっ」

 恐怖で一瞬パニックになりかけた。心臓が暴れるように早鐘を打つのを鎮めるため、深呼吸をする。

 深く息を吸い込むと、頭が冷えて冷静になった。

一人暮らしのアパートで入浴中に浴室の前に誰かが立っていたら怖いが、ここには自分以外何人もいる。しかも今は旅行というイベント中だ。面白がって、誰かがおどろかそうとしているに違いない。

 晋はそんな子供っぽい真似はしないだろう。圭吾も真面目そうだからしなさそうだ。

そういうことをやりそうなのは、美沙や時夜あたりだ。うん、あの二人ならそういうおふざけをやりかねない。間違いない。

危うく醜態を晒すところだった。ほっと息を吐き、朱里は表情を引き締めていつものクールな声で宣言した。

「私は怖がったりしないわよ。どうせ美沙か時夜くんでしょう。びっくりさせようったって、そうはいかないんだから」

 返事がない。じっと相手の挙動を見ていると、影がさらにガラスに近付いた。その頭部には二本の角があるように見えた。

「いやだ、趣味悪いわよ。やめなさいよ、本当に怒るわよ」

 尖った声で嗜めてみるが、相手は反応しない。身じろぎひとつせずに、置物のようにすりガラスの前に立っている。

「ねえ、美沙なんでしょう?やめてってば。美沙じゃないなら、時夜君?まさか、圭吾君じゃないでしょう?もしかして、和樹なの?」

 朱里の問いかけに答えるように、影男が風呂場の擦りガラスの扉をバンッと思い切り手のひらで叩いた。

擦りガラスにぺたりと張りついた手のひらは大きい。少なくとも、女ではなさそうだ。

「ちょっと、いい加減にしてよ!」

 いくらなんでも悪ふざけがすぎる。朱里が声を上げて怒鳴ると、影男は抗議しているかのようにバンバンとなんども風呂場のガラス扉を叩いた。

 気持ち悪い。朱里は浴槽のなかで体を丸めて目を瞑り、耳を塞ぐ。

「扉を叩くのはやめなさいよっ!」

 半泣きになりながら叫ぶと、ピタリと音が止んだ。

「うぅぅ……あ゛あ゛っ………う゛ぅぅぅっ」

 擦りガラスの向こうから気味の悪い唸り声が聞こえる。

幸いお風呂場には鍵が掛けられるようになっていた。念のために鍵をかけて入ってよかったと、心底ほっとする。

もし鍵がかかっていなかったら、今外で呻いている男が入ってきていたかもしれない。そうなっていたら、私はどうなっていたのだろう。

唸り声を無視していると、再びバンバンバンとガラス扉が激しく叩かれる。ドアの向こうの不気味な男の影は、鍵がかかっていることにいたく腹を立てているようだ。ビリビリトガラス扉が震えるほど激しくドアを叩いている。

 なんなのよ、怖いじゃない。一体誰なのよ、こんな狂った真似をするなんて。

 朱里は自分の気配を消して、じっと浴槽の中に蹲っていた。温かいお湯に包まれているというのに、指先が震える。心臓が凍え、体中を冷たい血が流れているような感覚だ。

ドアの外にいる影の正体は誰なのか。まさか、一緒に来た男達の中の誰かということはないだろう。偏差値の高い大学に通っているから、ある程度の良識はあるはずだ。流石に悪戯でもこんな妙な真似はしないだろう。

それなら、ますます影の正体は混とんとする。体格的に見て、礼子ということもないだろう。まさか、この館には本当に化け物が住んでいるのか。

ふっと音が止んだ。同時に、浴室の電気が消える。浴室だけじゃない、洗面所の電気まで消えて、辺りが静寂と闇に包まれる。
こんな時に停電だろうか。それとも、外にいる影男が電気を消したのか。


ずっと蹲っていてもしょうがない。朱里は恐る恐る顔を上げた。いきなり影男が立っていたすりガラスの扉を見るのはあまりにも怖いので、とりあえず浴室内を見回す。大丈夫だ、浴室には自分以外誰もいない。

 一つ大きく息を吸ってから、決意を込めてガラス扉に目をやった。そこには真っ暗な闇があるだけで、なにもいない。

「見間違いってことはないわよね。悪戯に飽きたのかしら?」

 見間違いであることが一番嬉しいけど、この際誰かの悪戯だったというオチでもかまわない。とにかく、妙な影男がいなくなったのだからこれ以上は何も考えないでおこう。化け物が潜んでいるという想像はあまりにも怖すぎる。

 さっさと風呂から出て、みんながいるところに行こう。朱里はまだドキドキしている心臓を宥めて浴槽を出た。
長い髪にシャンプーを絡め、勢いよく泡立てる。乱暴にすると髪が痛んでしまうけど、今はそんな悠長なこと言っていられない。
手を素早く動かしてさっさと洗髪をする。

 泡が付いた髪を漱ごうとシャワーのコックをひねった時、ふと背後に妙な息遣いを感じた。首筋に生暖かい吐息が触れる。

 誰かがいる。でも、そんなまさか。

 心臓が凍てついた。震える手でシャワーの勢いを強めて、顔についた泡を流す。それから恐る恐る目を開けた。

 あまりの驚きに声が出なかった。目の前の鏡に自分以外の人が映っていたからだ。それも知り合いじゃない。

白いボサボサの蓬髪、二本の角、目を見開いた牛のお面。お面の目の部分からは限界まで見開いた金色の瞳が覗いていた。

 絶叫を上げた途端、また浴室が暗闇に包まれた。悲鳴を上げ続けるが、広い屋敷だから浴室の悲鳴は二階の客室には届かないようだ。誰一人、様子を見に来てくれる人はいなかった。

「助けてっ、お兄ちゃんっ!」

 大声で喚き散らすが、海外赴任になった兄がこんなところに飛んできてくれるはずがない。自分でどうにかするしかないと、半狂乱になりながら手に持っていたシャワーヘッドを振り回した。

 停電した電気が再び点ると、そこには誰もいなかった。

確かに自分の背後に、牛の面を被った化け物が立っていたはずなのに。生暖かい吐息を思い出すと、また背筋がぞっとする。

あれは、なんだったのだろう。幽霊というにはあまりにも生々しい存在だった。

 考えるのはよそう。私は強くてクールな女でいなくてはいけない。怖くなるようなことを缶が手も自分の首を絞めるだけだ。

 朱里は急いでシャワーを浴びると、洗面所に誰もいないことを確認してさっさと風呂場を出た。
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