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第一章
その四
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「長方形の建物をぐるりと回廊が囲んでいるようだな」
「ああ、そうだな。晋、どうする?適当な部屋に入ってみるか?」
「ああ、それでいいんじゃねぇか」
晋と時夜の決定に他のメンバーからの意義はなく、廊下を少し戻って最初に見えた部屋のドアを開ける。
「すごーい、外国のお城の食堂みたいっ!」
紅いカーペットが敷かれたその部屋には、長方形の大きな食卓に凝ったデザインの椅子が十脚ずらりと並んでいた。
黄ばんで薄汚れたテーブルクロスが掛かった机には銀の燭台が置いてあり、壁側には大きな暖炉ある。
美沙の称した通り、歴史物の洋画に出てきそうな部屋だ。
「すごいわね。晩餐会でも開かれそうな部屋だわ」
「本当だね。とってもステキなお部屋だね。でも、ここで食事をしたらなんだか最後の晩餐だって感じがしちゃいそう」
「いやだわ、美沙ったら。最後の晩餐だなんて縁起でもないわね」
「えへへ、ごめーん。あんまりにも立派だからつい」
部屋を眺めながら朱里と美沙が感嘆を漏らす。こんな無駄に広い埃だらけの食堂のどこがいいのだろうか。
落ち着いて食事ができる雰囲気ではない。晋は冷めた目ではしゃぐ女子達を見ていた。
「次の部屋に行こうぜ」
早くも部屋を見るのに飽きてしまった圭吾がスタスタと歩きだす。
食堂のすみには二階への階段があったが、階段は上がらずに、まずは一階を見てまわることになった。
食堂の隣は囲炉裏のある広い和室だった。和室には廊下へ出る襖と食堂への引き戸、そして洋風の木製の扉と障子の扉があった。
障子はぼんやりと明るく光っている。
「どっちから行きたい?」
時夜が尋ねると、美沙が「怪しそうな木製の扉からっ!」と楽しそうに手を上げて答えた。
ドアの向こうはどんな部屋なのだろう。アーチ型の木製ドアは想像力を刺激されるデザインだ。
植物の模様が彫られた豪華で重厚な鉄製の取っ手に時夜が手を掛ける。
ドアの向こうは真っ暗だった。手探りで壁を探り、照明のスイッチを探り当てる。電気は通っているようで、パチリという音と共に部屋に光が灯る。
壁に大きなスクリーンがある、窓の無い部屋。映写室だった。
「家に映写室とは、羨ましいかぎりだな」
「ホントだな、わざわざ映画館に行く必要ねぇじゃん。スゲー」
晋に同調して、時夜がウンウンと頷く。
部屋をぐるりと見回す晋と時夜をほうって、他の連中は何もなくてつまらないからと部屋を出て行く。晋は構わず部屋を眺めていた。
壁際に置いてあるフィルムの並んだ棚が歪んでいる。
薄らと埃が積もった床に目を凝らすと、元々棚があった位置には埃が積もっていなかった。棚がずれたのは最近だということだ。
誰がどうして棚をずらしたのか。そもそもこの家は無人の廃墟ではなかったのか。
晋は眉間に皺を寄せた。
じっと棚を見詰めているとふいに棚が揺れた。
ゆっくりと棚が横に移動して、細い闇が現れた。そしてその狭い闇の中には、何者かが蠢く気配がある。
なにが起きているのだ。誰もいないはずの屋敷で、ひとりでに棚がガタガタ動く。まさか、自分たち以外に誰かがいるのか。
それともポルターガイスト現象なのか。
晋はじっと闇に眼を凝らした。ふと、ぎょろりとした目玉が闇に浮かんだ。
上、下、左、右とぐるりと何かを確認するように目玉が動き、晋を捕える。
驚きのあまり声が出なかった。
恐ろしいのに、目玉の正体が気になってしょうがない。この目玉の主が、鬼月島に住んでいる化け物なのだろうか。
この島には、本当に化け物が住んでいるのか。
晋がふらりと棚に近付こうとした時、時夜に腕を引っ張られる。
「おい何やってんだよ晋。置いてかれて迷子になっちまうぞ」
「時夜、あそこ、棚の隙間から目が」
時夜に向けた顔をまた棚の方に戻した時には、細い闇も気味の悪い双眸もあとかたもなく消えていた。棚も元の位置に戻っている。
「何言ってんだよ、晋。目ってなんだよ?」
「さっき、確かに棚が―…」
訝し気な目をする時夜にすっと頭が冷静になった。晋は小さく首を横に振る。
「いや、なんでもない。きっと、気のせいだ」
「大丈夫かよ。それより、置いてかれちまうぞ。行こうぜ」
「あ、ああ。すまない」
棚から離れて、晋は時夜の後に続いた。
和室の障子の扉の向こうは植物園の様な庭園が広がっていた。他の部屋と違い、天窓から惜しみなく光の降り注ぐ明るい部屋だった。
一階にはその他には、ベッドルームや応接室、そして異質な鏡張りの部屋があった。
「やだ、なにこれ。鏡張りとかどんだけナルシストな怪物が住んでいるのかな?」
「ほんとね。まるで遊園地のミラーハウスみたいな部屋だわ」
珍しげに美沙と朱里が中を覗き込む。
二人の後ろからちらりと部屋の中を覗いた八重子が、顔を引き攣らせてぺたりと床に座り込んだ。
「いやぁっ、牛の、牛の化け物がぁっ!」
八重子は左手で自分の目を覆い、右手で鏡の部屋の奥の方を指さす。床に投げ出された足が小刻みに震えていた。
演技にしてはあまりにも迫真すぎる。八重子の異様な気迫に押されてはしゃいでいた美沙と朱里まで顔を青褪めさせた。
「なになに八重子、どうしたのっ?」
「ちょっと、心臓に悪いこといわないちょうだいよ八重子。牛の化け物ってなによ、そんなもの映っていないわ。私達が映っているだけでしょう」
「違う、私たちじゃない。いたの、角が生えていて、真っ白の髪の牛の顔をした化け物がいたのっ!斧、斧を持っていた。私たち、殺されて食べられちゃう!」
混乱して泣き叫ぶ八重子に、美沙と朱里が怯えていた顔を一変させ、しらけきった顔になる。
「ちょっと八重子ったら、ウソってばればれだよ。大袈裟な怖がり方しちゃってさ、男子の気を引こうとしてもダメだよ」
「そうよ。さすがに騙されないわよ、八重子」
「嘘なんて、ひどいよ。美沙ちゃん、朱里ちゃん、本当なの、いたの!」
美沙と朱里に胡散臭いものを見るような視線で見下ろされて、八重子が泣きだしそうな顔になる。
「本当に見たのか?桜田」
圭吾がしゃがんで柔らかな声で問いかけると、八重子は逞しい彼の腕にしがみついてつぶらな瞳に涙を浮かべた。
「見たの、こっちにくる、くるっ!」
なおも必死な顔で訴える八重子に、美沙がむっとした顔をする。
「そんなのいないって言ってるでしょ!ねえ、時夜くん」
「どれどれ……」
時夜が大きい身体を乗り出して鏡張りの部屋を覗き込む。
灰色の瞳が鏡が光を反射して鈍く光る薄暗い奇妙な室内をじっくりと眺めまわす。暫く中を観察してから、時夜は片眉を顰めた。
「安心しろ、なにもいねーよ。桜田の見間違いだろ」
「ほらぁ、なにもいないでしょ。もう、八重子ったら慌てんぼうだね」
八重子の肩に美沙が手を乗せる。口元は笑っていたけど、目は笑っていない。肩にネイルアートの施された爪が食い込んでいるのを晋は見逃さなかった。
「ご、ごめんなさい。見間違い、だったみたい」
美沙の裏の顔に気付いた八重子が、顔を少し青褪めさせて謝る。
これ以上、八重子が鏡の中に牛の化け物を見たという話題には触れるべきでない。そういう空気が流れていた。
だが絶望的に空気の読めない和樹はそれに気付かず、話を蒸し返す。
「なにかいたと言うなら、確認した方がいいじゃないかな。女性陣の危険を取り除くために、男陣が動くべきだ」
「ええー、八重子も見違えたって認めてるんだし、もういいじゃない」
美沙が唇を尖らせる。
「いや美沙さん。確認は怠るべきではないよ」
「確認もなにも、見間違いだから必要ないと思うよ」
「安心してくれたまえ。男性陣がするからね」
「そうかよ、じゃあ、オマエが勝手に中に入って確認でも何でもしてこいよ」
つれない様子で時夜が言うと、和樹は細めに剃った眉をピクリと吊り上げた。
「なんだい、その態度は。キミは女性のために動こうっていう気がないのかい、時夜くん。まったく、図体はでかくてもハートはノミだね」
「だれの心臓がノミだって?テメーのことか?」
「キミだよ、時夜くん。もういいよ、臆病者はすっこんでいたまえ。ほら、晋くんが確認に行くそうだ」
いきなりふられて、晋は迷惑そうに顔を顰めた。
「ふざけるなよ、俺は行かない。こんな気持ちの悪い部屋なんざ、入りたくない。桜田も見間違いだといっているし、海野も必要ないって言っているんだ。ほうっておけよ」
もしも仮に斧を持った牛の化け物が本当にいたら逆に危険だ。
遭遇した者はもちろんただじゃすまないだろうし、静かに隠れているのを突き出したりして、逆に襲い掛かってきたりしたらどうするのだ。
蜂の巣は突かないに限る。そんなことよりも、安全を確保したいのならば一刻もこの奇妙な屋敷から逃げるべきだ。
しかし、和樹は勉強はできるくせに物事の展開を想像する力には欠けているらしい。なにがなんでも鏡の部屋の中を確認したがっている。
いや、自分で確認する気はさらさらないから、させたがっていると言った方が正しい。
「はあ、キミたちは揃いも揃って、臆病風に吹かれているんだね。ふだん偉そうにしていても中身はスカスカのスポンジというわけか」
それはお前のことだろ。
そう言いたいのをぐっと堪えて、晋は「そうみたいだな」と素っ気なく返した。
「いいよ、もう。キミたちに期待した僕が馬鹿だったのさ。じゃあ行こうか、圭吾くん」
「えっ、俺?」
いきなり火の粉が降り注いで、圭吾は心底困ったような顔になった。
圭吾は頬をポリポリと掻くと、期待に満ちた目をしている和樹からふいと視線を逸らした。
「俺、なんかうまく言えないけど、この部屋には入りたくないんだよな」
「なんだい、キミもかい?呆れた、キミたちは見かけ倒しの男の集まりだったのかい。本当に、情けない」
大袈裟に肩を竦めて首を振る和樹にいい加減腹が立ってきた。ムキになってつっかかるなんて大人げないと思って黙っていたが、この自分勝手な男を好き勝手させたままにしておく方のはあまりにも不愉快だ。
晋は彼の肩に手を置くと、唇の端を吊り上げて静かに言った。
「それなら、お強いお前が一人で入って確認してこればいいさ、一条。俺達はお前が安全を確かめようが、その部屋に一歩たりとも入る気はないがな。お前は中を確認することで女子の身の安全を保証できて、満足だろうよ」
「な、なんだと?ボクに一人で入れと言うのか?」
「嫌なら入らなければいいだけの話だ。みんな、この部屋には入らないということで納得しているんだ。一条、お前一人が騒いでいるだけなんだよ」
「くっ、晋くん。キミはなんて嫌味なヤツなんだ」
和樹が憤慨して顔を真っ赤にするが、晋は素知らぬ顔で涼しげな表情を浮かべていた。
結局、和樹が一人で鏡張りの部屋に入ることはなかった。他の男を駆使して颯爽と鏡張りの部屋に入って化け物がいないか確認させ、女達から「すごい」とか「勇気がある」と褒めてもらって男としての株をあげようという魂胆だったようだが、そうそう上手く利用されてたまるか。
和樹の株が上がろうが下がろうがどうでもいい。そんなことのために利用されるのはあまりにも癪だ。
いや、それ以上に、晋はこの屋敷に不気味なものを感じていた。ここにはなんだかうすら寒い嫌な気配が漂っている。
ありていに言えば、怖い。なにが怖いかはっきり言えないけれど、なんとなく陰惨さと不気味さを感じるのだ。
ただでさえ不気味な屋敷の用途不明な部屋だ。入りたいはずがない。
鏡の中に魔物が潜んでいる錯覚をした八重子の気持ちもわからなくもない。自分もついさっき、映写室の棚が動いて誰かの目玉が闇から覗いていたなどという、被害妄想もはなはだしい錯覚をしたのだ。
いや、本当に錯覚だったのだろうか。晋は自分に問いかける。
枯れ尾花に幽霊を見るような臆病な性格はしていない。心臓に毛が生えているとまではいわないが、わりと何事にも動じない方だと思う。
そんな自分が、いくらこの屋敷の異様な雰囲気にのまれたからといって、あんなにも具体的な妄想をするだろうか。
八重子にしたって、あまりにもはっきりと不気味な影を見ている。美沙の考える通り男たちの気を引きたくて化け物を見て怖がっているふりをしている可能性もないとは言い切れないが、あんな迫真の演技が演劇部でもない八重子にできるだろうか。
もしも、自分が見た不気味な目や、八重子の見た斧を持った牛の怪物が目の錯覚でも妄想でもなかったとしたら。
そう考えると、否応なしに背筋が冷たくなった。
三日後の夕方まで、あの親切な船長は島に来てくれない。定期便もない。誰も来ないような島だ。
ついでに携帯電話が通じないので、この島から外界と繋がる手段がない。
そんななか、島に住んでいると言う怪物に襲われたら全滅もありうるだろう。そう考えると空恐ろしい気分になった。
「ああ、そうだな。晋、どうする?適当な部屋に入ってみるか?」
「ああ、それでいいんじゃねぇか」
晋と時夜の決定に他のメンバーからの意義はなく、廊下を少し戻って最初に見えた部屋のドアを開ける。
「すごーい、外国のお城の食堂みたいっ!」
紅いカーペットが敷かれたその部屋には、長方形の大きな食卓に凝ったデザインの椅子が十脚ずらりと並んでいた。
黄ばんで薄汚れたテーブルクロスが掛かった机には銀の燭台が置いてあり、壁側には大きな暖炉ある。
美沙の称した通り、歴史物の洋画に出てきそうな部屋だ。
「すごいわね。晩餐会でも開かれそうな部屋だわ」
「本当だね。とってもステキなお部屋だね。でも、ここで食事をしたらなんだか最後の晩餐だって感じがしちゃいそう」
「いやだわ、美沙ったら。最後の晩餐だなんて縁起でもないわね」
「えへへ、ごめーん。あんまりにも立派だからつい」
部屋を眺めながら朱里と美沙が感嘆を漏らす。こんな無駄に広い埃だらけの食堂のどこがいいのだろうか。
落ち着いて食事ができる雰囲気ではない。晋は冷めた目ではしゃぐ女子達を見ていた。
「次の部屋に行こうぜ」
早くも部屋を見るのに飽きてしまった圭吾がスタスタと歩きだす。
食堂のすみには二階への階段があったが、階段は上がらずに、まずは一階を見てまわることになった。
食堂の隣は囲炉裏のある広い和室だった。和室には廊下へ出る襖と食堂への引き戸、そして洋風の木製の扉と障子の扉があった。
障子はぼんやりと明るく光っている。
「どっちから行きたい?」
時夜が尋ねると、美沙が「怪しそうな木製の扉からっ!」と楽しそうに手を上げて答えた。
ドアの向こうはどんな部屋なのだろう。アーチ型の木製ドアは想像力を刺激されるデザインだ。
植物の模様が彫られた豪華で重厚な鉄製の取っ手に時夜が手を掛ける。
ドアの向こうは真っ暗だった。手探りで壁を探り、照明のスイッチを探り当てる。電気は通っているようで、パチリという音と共に部屋に光が灯る。
壁に大きなスクリーンがある、窓の無い部屋。映写室だった。
「家に映写室とは、羨ましいかぎりだな」
「ホントだな、わざわざ映画館に行く必要ねぇじゃん。スゲー」
晋に同調して、時夜がウンウンと頷く。
部屋をぐるりと見回す晋と時夜をほうって、他の連中は何もなくてつまらないからと部屋を出て行く。晋は構わず部屋を眺めていた。
壁際に置いてあるフィルムの並んだ棚が歪んでいる。
薄らと埃が積もった床に目を凝らすと、元々棚があった位置には埃が積もっていなかった。棚がずれたのは最近だということだ。
誰がどうして棚をずらしたのか。そもそもこの家は無人の廃墟ではなかったのか。
晋は眉間に皺を寄せた。
じっと棚を見詰めているとふいに棚が揺れた。
ゆっくりと棚が横に移動して、細い闇が現れた。そしてその狭い闇の中には、何者かが蠢く気配がある。
なにが起きているのだ。誰もいないはずの屋敷で、ひとりでに棚がガタガタ動く。まさか、自分たち以外に誰かがいるのか。
それともポルターガイスト現象なのか。
晋はじっと闇に眼を凝らした。ふと、ぎょろりとした目玉が闇に浮かんだ。
上、下、左、右とぐるりと何かを確認するように目玉が動き、晋を捕える。
驚きのあまり声が出なかった。
恐ろしいのに、目玉の正体が気になってしょうがない。この目玉の主が、鬼月島に住んでいる化け物なのだろうか。
この島には、本当に化け物が住んでいるのか。
晋がふらりと棚に近付こうとした時、時夜に腕を引っ張られる。
「おい何やってんだよ晋。置いてかれて迷子になっちまうぞ」
「時夜、あそこ、棚の隙間から目が」
時夜に向けた顔をまた棚の方に戻した時には、細い闇も気味の悪い双眸もあとかたもなく消えていた。棚も元の位置に戻っている。
「何言ってんだよ、晋。目ってなんだよ?」
「さっき、確かに棚が―…」
訝し気な目をする時夜にすっと頭が冷静になった。晋は小さく首を横に振る。
「いや、なんでもない。きっと、気のせいだ」
「大丈夫かよ。それより、置いてかれちまうぞ。行こうぜ」
「あ、ああ。すまない」
棚から離れて、晋は時夜の後に続いた。
和室の障子の扉の向こうは植物園の様な庭園が広がっていた。他の部屋と違い、天窓から惜しみなく光の降り注ぐ明るい部屋だった。
一階にはその他には、ベッドルームや応接室、そして異質な鏡張りの部屋があった。
「やだ、なにこれ。鏡張りとかどんだけナルシストな怪物が住んでいるのかな?」
「ほんとね。まるで遊園地のミラーハウスみたいな部屋だわ」
珍しげに美沙と朱里が中を覗き込む。
二人の後ろからちらりと部屋の中を覗いた八重子が、顔を引き攣らせてぺたりと床に座り込んだ。
「いやぁっ、牛の、牛の化け物がぁっ!」
八重子は左手で自分の目を覆い、右手で鏡の部屋の奥の方を指さす。床に投げ出された足が小刻みに震えていた。
演技にしてはあまりにも迫真すぎる。八重子の異様な気迫に押されてはしゃいでいた美沙と朱里まで顔を青褪めさせた。
「なになに八重子、どうしたのっ?」
「ちょっと、心臓に悪いこといわないちょうだいよ八重子。牛の化け物ってなによ、そんなもの映っていないわ。私達が映っているだけでしょう」
「違う、私たちじゃない。いたの、角が生えていて、真っ白の髪の牛の顔をした化け物がいたのっ!斧、斧を持っていた。私たち、殺されて食べられちゃう!」
混乱して泣き叫ぶ八重子に、美沙と朱里が怯えていた顔を一変させ、しらけきった顔になる。
「ちょっと八重子ったら、ウソってばればれだよ。大袈裟な怖がり方しちゃってさ、男子の気を引こうとしてもダメだよ」
「そうよ。さすがに騙されないわよ、八重子」
「嘘なんて、ひどいよ。美沙ちゃん、朱里ちゃん、本当なの、いたの!」
美沙と朱里に胡散臭いものを見るような視線で見下ろされて、八重子が泣きだしそうな顔になる。
「本当に見たのか?桜田」
圭吾がしゃがんで柔らかな声で問いかけると、八重子は逞しい彼の腕にしがみついてつぶらな瞳に涙を浮かべた。
「見たの、こっちにくる、くるっ!」
なおも必死な顔で訴える八重子に、美沙がむっとした顔をする。
「そんなのいないって言ってるでしょ!ねえ、時夜くん」
「どれどれ……」
時夜が大きい身体を乗り出して鏡張りの部屋を覗き込む。
灰色の瞳が鏡が光を反射して鈍く光る薄暗い奇妙な室内をじっくりと眺めまわす。暫く中を観察してから、時夜は片眉を顰めた。
「安心しろ、なにもいねーよ。桜田の見間違いだろ」
「ほらぁ、なにもいないでしょ。もう、八重子ったら慌てんぼうだね」
八重子の肩に美沙が手を乗せる。口元は笑っていたけど、目は笑っていない。肩にネイルアートの施された爪が食い込んでいるのを晋は見逃さなかった。
「ご、ごめんなさい。見間違い、だったみたい」
美沙の裏の顔に気付いた八重子が、顔を少し青褪めさせて謝る。
これ以上、八重子が鏡の中に牛の化け物を見たという話題には触れるべきでない。そういう空気が流れていた。
だが絶望的に空気の読めない和樹はそれに気付かず、話を蒸し返す。
「なにかいたと言うなら、確認した方がいいじゃないかな。女性陣の危険を取り除くために、男陣が動くべきだ」
「ええー、八重子も見違えたって認めてるんだし、もういいじゃない」
美沙が唇を尖らせる。
「いや美沙さん。確認は怠るべきではないよ」
「確認もなにも、見間違いだから必要ないと思うよ」
「安心してくれたまえ。男性陣がするからね」
「そうかよ、じゃあ、オマエが勝手に中に入って確認でも何でもしてこいよ」
つれない様子で時夜が言うと、和樹は細めに剃った眉をピクリと吊り上げた。
「なんだい、その態度は。キミは女性のために動こうっていう気がないのかい、時夜くん。まったく、図体はでかくてもハートはノミだね」
「だれの心臓がノミだって?テメーのことか?」
「キミだよ、時夜くん。もういいよ、臆病者はすっこんでいたまえ。ほら、晋くんが確認に行くそうだ」
いきなりふられて、晋は迷惑そうに顔を顰めた。
「ふざけるなよ、俺は行かない。こんな気持ちの悪い部屋なんざ、入りたくない。桜田も見間違いだといっているし、海野も必要ないって言っているんだ。ほうっておけよ」
もしも仮に斧を持った牛の化け物が本当にいたら逆に危険だ。
遭遇した者はもちろんただじゃすまないだろうし、静かに隠れているのを突き出したりして、逆に襲い掛かってきたりしたらどうするのだ。
蜂の巣は突かないに限る。そんなことよりも、安全を確保したいのならば一刻もこの奇妙な屋敷から逃げるべきだ。
しかし、和樹は勉強はできるくせに物事の展開を想像する力には欠けているらしい。なにがなんでも鏡の部屋の中を確認したがっている。
いや、自分で確認する気はさらさらないから、させたがっていると言った方が正しい。
「はあ、キミたちは揃いも揃って、臆病風に吹かれているんだね。ふだん偉そうにしていても中身はスカスカのスポンジというわけか」
それはお前のことだろ。
そう言いたいのをぐっと堪えて、晋は「そうみたいだな」と素っ気なく返した。
「いいよ、もう。キミたちに期待した僕が馬鹿だったのさ。じゃあ行こうか、圭吾くん」
「えっ、俺?」
いきなり火の粉が降り注いで、圭吾は心底困ったような顔になった。
圭吾は頬をポリポリと掻くと、期待に満ちた目をしている和樹からふいと視線を逸らした。
「俺、なんかうまく言えないけど、この部屋には入りたくないんだよな」
「なんだい、キミもかい?呆れた、キミたちは見かけ倒しの男の集まりだったのかい。本当に、情けない」
大袈裟に肩を竦めて首を振る和樹にいい加減腹が立ってきた。ムキになってつっかかるなんて大人げないと思って黙っていたが、この自分勝手な男を好き勝手させたままにしておく方のはあまりにも不愉快だ。
晋は彼の肩に手を置くと、唇の端を吊り上げて静かに言った。
「それなら、お強いお前が一人で入って確認してこればいいさ、一条。俺達はお前が安全を確かめようが、その部屋に一歩たりとも入る気はないがな。お前は中を確認することで女子の身の安全を保証できて、満足だろうよ」
「な、なんだと?ボクに一人で入れと言うのか?」
「嫌なら入らなければいいだけの話だ。みんな、この部屋には入らないということで納得しているんだ。一条、お前一人が騒いでいるだけなんだよ」
「くっ、晋くん。キミはなんて嫌味なヤツなんだ」
和樹が憤慨して顔を真っ赤にするが、晋は素知らぬ顔で涼しげな表情を浮かべていた。
結局、和樹が一人で鏡張りの部屋に入ることはなかった。他の男を駆使して颯爽と鏡張りの部屋に入って化け物がいないか確認させ、女達から「すごい」とか「勇気がある」と褒めてもらって男としての株をあげようという魂胆だったようだが、そうそう上手く利用されてたまるか。
和樹の株が上がろうが下がろうがどうでもいい。そんなことのために利用されるのはあまりにも癪だ。
いや、それ以上に、晋はこの屋敷に不気味なものを感じていた。ここにはなんだかうすら寒い嫌な気配が漂っている。
ありていに言えば、怖い。なにが怖いかはっきり言えないけれど、なんとなく陰惨さと不気味さを感じるのだ。
ただでさえ不気味な屋敷の用途不明な部屋だ。入りたいはずがない。
鏡の中に魔物が潜んでいる錯覚をした八重子の気持ちもわからなくもない。自分もついさっき、映写室の棚が動いて誰かの目玉が闇から覗いていたなどという、被害妄想もはなはだしい錯覚をしたのだ。
いや、本当に錯覚だったのだろうか。晋は自分に問いかける。
枯れ尾花に幽霊を見るような臆病な性格はしていない。心臓に毛が生えているとまではいわないが、わりと何事にも動じない方だと思う。
そんな自分が、いくらこの屋敷の異様な雰囲気にのまれたからといって、あんなにも具体的な妄想をするだろうか。
八重子にしたって、あまりにもはっきりと不気味な影を見ている。美沙の考える通り男たちの気を引きたくて化け物を見て怖がっているふりをしている可能性もないとは言い切れないが、あんな迫真の演技が演劇部でもない八重子にできるだろうか。
もしも、自分が見た不気味な目や、八重子の見た斧を持った牛の怪物が目の錯覚でも妄想でもなかったとしたら。
そう考えると、否応なしに背筋が冷たくなった。
三日後の夕方まで、あの親切な船長は島に来てくれない。定期便もない。誰も来ないような島だ。
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敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
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