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【第1章】 捨てられ令嬢と氷の公爵
第3話 「氷の公爵」の奇妙な契約
翌朝。
私は小鳥のさえずりと、頬を撫でる柔らかな陽光で目を覚ました。
「……ここ、は」
体を起こすと、最高級の羽毛布団がさらりと滑り落ちる。
背中が痛くない。寒くて目が覚めることもない。
実家の屋根裏部屋のような自室では、隙間風の音で目覚めるのが日課だったのに。ここはまるで、天国か何かのようだ。
「お目覚めですか、奥様」
控えめなノックの後、昨日食事を運んでくれたメイド長のマーサが入ってきた。
彼女の手には、湯気の立つ洗面器と、真新しいドレスが抱えられている。
「おはようございます、マーサさん。あの、その『奥様』というのは……」
「旦那様からの言付けです。『今日からこの屋敷の女主人はお前だ。使用人一同、彼女の指示に従うように』と」
マーサは優しく微笑んだ。その瞳には、私を値踏みするような色はなく、純粋な敬愛が宿っているように見えた。
「さあ、お着替えを。旦那様が書斎でお待ちです」
用意されたドレスは、上品な深青色の厚手の生地で、見るからに暖かそうだ。
袖を通すと、驚くほど体に馴染む。
実家ではミリアのお下がりのペラペラのドレスしか着せてもらえなかった私が、こんな高価なものを身につけていいのだろうか。
少しの不安と、くすぐったいような高揚感を抱きながら、私は公爵様の待つ書斎へと向かった。
◇
「失礼いたします」
重厚な扉を開けると、そこには書類の山に埋もれるジークハルト様の姿があった。
銀髪を少しかき上げ、眼鏡をかけた知的な姿に、不覚にもドキリとしてしまう。
「来たか。体調はどうだ」
「はい、おかげさまで。あんなにぐっすり眠れたのは久しぶりです」
「そうか。それは重畳(ちょうじょう)だ」
彼は眼鏡を外すと、執務机の前のソファに座るよう促した。
いよいよ、本題だ。
父は「形だけの妻」「いけにえ」と言っていた。ここで提示される条件がどんなに過酷でも、実家に戻るよりはマシだ。私は拳を握りしめて覚悟を決めた。
「エリスと言ったな。単刀直入に言おう。私がお前に求めているのは、『白い結婚』だ」
ジークハルト様は淡々と言った。
「私の魔力は強すぎる。感情が高ぶると周囲を凍らせてしまうほどにな。ゆえに、私は女性と愛を育むつもりはない。……以前、無理やり迫ってきた女性を氷漬けにしそうになったこともある」
「は、はい……(噂は本当だったのね)」
「だが、公爵家当主として独身を貫くには、外野がうるさすぎる。王家からも見合いの話が絶えない。だから私は、対外的な『妻』という盾が欲しいのだ」
彼はそこで言葉を切り、私を真っ直ぐに見据えた。
「つまり、私がお前に求める役割は一つ。『公爵夫人として、ただこの屋敷にいてくれること』。それだけだ」
私はまばたきをした。
それだけ?
実家では、朝から晩まで帳簿と格闘し、使用人のシフトを組み、父と継母の浪費の尻拭いをし、それでも「穀潰し」と罵られていた。
それに比べて、ただ「いるだけ」なんて。
「条件は以下の通りだ。一つ、私への愛は期待するな。二つ、夜の生活も強要しない。三つ、屋敷の管理に関する全権限をお前に譲渡する。好きなように改装しても、何をしても構わない」
「ぜ、全権限、ですか?」
「ああ。予算も自由に使っていい。その代わりと言ってはなんだが……その、私は仕事人間でな。屋敷の中のことがよくわからんのだ。使用人たちも、主人がこんな氷のような男では働きにくかろう」
彼は少しだけばつが悪そうに視線をそらした。
……ああ、なるほど。
この人は、不器用なのだ。
自分の強すぎる力のせいで人を遠ざけているけれど、本当は屋敷を温かい場所にしたいと願っている。けれど、どうすればいいか分からない。
私は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
この条件は、私にとって「縛り」ではない。「自由」と「居場所」の提供だ。
「……ジークハルト様。一つだけ、条件を変更していただいてもよろしいでしょうか」
「なんだ? 金が足りないか?」
「いいえ、逆です。ただ『いるだけ』というのは、私の性分に合いません」
私は背筋を伸ばし、彼を見つめ返した。
父や継母の前では一度もできなかった、自分の意思表示。
「屋敷の管理をお任せいただけるなら、お仕事としてやらせてください。経理や在庫管理、使用人の統括……地味な仕事ですが、実家でずっとやってきました。お飾りではなく、あなたのパートナーとして働かせていただきたいのです」
ジークハルト様は、呆気に取られたように目を見開いた。
今まで「働かせてくれ」なんて言う令嬢はいなかったのだろう。
しばらく沈黙した後、彼は口元を手で覆い、肩を震わせた。
「……く、ふっ」
それは、堪えきれないような笑い声だった。
「変わった女だ。宝石やドレスではなく、仕事を欲しがるとは」
「へ、変でしょうか?」
「いや……頼もしい。ぜひ頼む」
彼が顔を上げる。その表情は、昨日見た氷のような冷たさは消え失せ、春の日差しのように穏やかだった。
「契約成立だ、エリス。ようこそ、ジークハルト公爵家へ。……ここがお前にとって、安らげる場所になることを約束しよう」
差し出された大きな手を、私は握り返す。
大きくて、温かい手。
父は私を「生贄」として売った。
けれど、どうやら父は大きな勘違いをしていたようだ。
ここは処刑場ではない。
私を必要としてくれる、世界で一番温かい場所だったのだ。
(見ていてください、お父様、お母様、ミリア。私はここで、絶対に幸せになってみせますから!)
こうして、私の「冷徹公爵」との、奇妙で幸せな新婚生活が幕を開けたのだった。
私は小鳥のさえずりと、頬を撫でる柔らかな陽光で目を覚ました。
「……ここ、は」
体を起こすと、最高級の羽毛布団がさらりと滑り落ちる。
背中が痛くない。寒くて目が覚めることもない。
実家の屋根裏部屋のような自室では、隙間風の音で目覚めるのが日課だったのに。ここはまるで、天国か何かのようだ。
「お目覚めですか、奥様」
控えめなノックの後、昨日食事を運んでくれたメイド長のマーサが入ってきた。
彼女の手には、湯気の立つ洗面器と、真新しいドレスが抱えられている。
「おはようございます、マーサさん。あの、その『奥様』というのは……」
「旦那様からの言付けです。『今日からこの屋敷の女主人はお前だ。使用人一同、彼女の指示に従うように』と」
マーサは優しく微笑んだ。その瞳には、私を値踏みするような色はなく、純粋な敬愛が宿っているように見えた。
「さあ、お着替えを。旦那様が書斎でお待ちです」
用意されたドレスは、上品な深青色の厚手の生地で、見るからに暖かそうだ。
袖を通すと、驚くほど体に馴染む。
実家ではミリアのお下がりのペラペラのドレスしか着せてもらえなかった私が、こんな高価なものを身につけていいのだろうか。
少しの不安と、くすぐったいような高揚感を抱きながら、私は公爵様の待つ書斎へと向かった。
◇
「失礼いたします」
重厚な扉を開けると、そこには書類の山に埋もれるジークハルト様の姿があった。
銀髪を少しかき上げ、眼鏡をかけた知的な姿に、不覚にもドキリとしてしまう。
「来たか。体調はどうだ」
「はい、おかげさまで。あんなにぐっすり眠れたのは久しぶりです」
「そうか。それは重畳(ちょうじょう)だ」
彼は眼鏡を外すと、執務机の前のソファに座るよう促した。
いよいよ、本題だ。
父は「形だけの妻」「いけにえ」と言っていた。ここで提示される条件がどんなに過酷でも、実家に戻るよりはマシだ。私は拳を握りしめて覚悟を決めた。
「エリスと言ったな。単刀直入に言おう。私がお前に求めているのは、『白い結婚』だ」
ジークハルト様は淡々と言った。
「私の魔力は強すぎる。感情が高ぶると周囲を凍らせてしまうほどにな。ゆえに、私は女性と愛を育むつもりはない。……以前、無理やり迫ってきた女性を氷漬けにしそうになったこともある」
「は、はい……(噂は本当だったのね)」
「だが、公爵家当主として独身を貫くには、外野がうるさすぎる。王家からも見合いの話が絶えない。だから私は、対外的な『妻』という盾が欲しいのだ」
彼はそこで言葉を切り、私を真っ直ぐに見据えた。
「つまり、私がお前に求める役割は一つ。『公爵夫人として、ただこの屋敷にいてくれること』。それだけだ」
私はまばたきをした。
それだけ?
実家では、朝から晩まで帳簿と格闘し、使用人のシフトを組み、父と継母の浪費の尻拭いをし、それでも「穀潰し」と罵られていた。
それに比べて、ただ「いるだけ」なんて。
「条件は以下の通りだ。一つ、私への愛は期待するな。二つ、夜の生活も強要しない。三つ、屋敷の管理に関する全権限をお前に譲渡する。好きなように改装しても、何をしても構わない」
「ぜ、全権限、ですか?」
「ああ。予算も自由に使っていい。その代わりと言ってはなんだが……その、私は仕事人間でな。屋敷の中のことがよくわからんのだ。使用人たちも、主人がこんな氷のような男では働きにくかろう」
彼は少しだけばつが悪そうに視線をそらした。
……ああ、なるほど。
この人は、不器用なのだ。
自分の強すぎる力のせいで人を遠ざけているけれど、本当は屋敷を温かい場所にしたいと願っている。けれど、どうすればいいか分からない。
私は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
この条件は、私にとって「縛り」ではない。「自由」と「居場所」の提供だ。
「……ジークハルト様。一つだけ、条件を変更していただいてもよろしいでしょうか」
「なんだ? 金が足りないか?」
「いいえ、逆です。ただ『いるだけ』というのは、私の性分に合いません」
私は背筋を伸ばし、彼を見つめ返した。
父や継母の前では一度もできなかった、自分の意思表示。
「屋敷の管理をお任せいただけるなら、お仕事としてやらせてください。経理や在庫管理、使用人の統括……地味な仕事ですが、実家でずっとやってきました。お飾りではなく、あなたのパートナーとして働かせていただきたいのです」
ジークハルト様は、呆気に取られたように目を見開いた。
今まで「働かせてくれ」なんて言う令嬢はいなかったのだろう。
しばらく沈黙した後、彼は口元を手で覆い、肩を震わせた。
「……く、ふっ」
それは、堪えきれないような笑い声だった。
「変わった女だ。宝石やドレスではなく、仕事を欲しがるとは」
「へ、変でしょうか?」
「いや……頼もしい。ぜひ頼む」
彼が顔を上げる。その表情は、昨日見た氷のような冷たさは消え失せ、春の日差しのように穏やかだった。
「契約成立だ、エリス。ようこそ、ジークハルト公爵家へ。……ここがお前にとって、安らげる場所になることを約束しよう」
差し出された大きな手を、私は握り返す。
大きくて、温かい手。
父は私を「生贄」として売った。
けれど、どうやら父は大きな勘違いをしていたようだ。
ここは処刑場ではない。
私を必要としてくれる、世界で一番温かい場所だったのだ。
(見ていてください、お父様、お母様、ミリア。私はここで、絶対に幸せになってみせますから!)
こうして、私の「冷徹公爵」との、奇妙で幸せな新婚生活が幕を開けたのだった。
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