妹に婚約者を奪われたので、怪物と噂の「冷徹公爵」に嫁ぎます。~どうやら彼は不器用なだけだったようで、今さら実家に戻れと言われても困ります~

みやび

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【第3章】 氷の公爵家の奇跡、そして永遠の春へ

第29話 蝕まれる体と、隠された日記

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 妊娠七ヶ月目を迎えた頃。
 私の体調は、日に日に悪化の一途を辿(たど)っていた。

「……奥様、お加減はいかがですか?」
「ええ、大丈夫よ。少し、体が重いだけ……」

 私はベッドの上で上半身を起こし、努めて明るく微笑んだ。
 けれど、鏡を見なくても分かる。今の自分の顔色が、どれほど悪いかを。
 頬はこけ、目の下には隈(くま)ができ、肌は透き通るというより、生命力を失って青白くなっているはずだ。

「ジークハルト様は?」
「旦那様は、王宮での緊急会議に出席されております。……本当は『行きたくない、エリスの側にいる』と駄々をこねておられましたが、重要案件でしたので、私が無理やり馬車に押し込みました」
「ふふ、ありがとうハンスさん。……彼がいると、隠し事ができないから」

 私が安堵の息を吐いた瞬間。
 ゴホッ、と喉の奥から熱いものが込み上げてきた。

「っ……! う、ぐぅ……!」
「奥様!!」

 口元を押さえたハンカチが、瞬く間に鮮血で染まる。
 ただの血ではない。吐き出した血の中に、キラキラと光る微細な氷の結晶が混じっているのだ。
 『魔力侵食』。
 お腹の赤ちゃんの強大すぎる氷の魔力が、中和しきれずに私の内臓を傷つけ始めている証拠だった。

「はぁ、はぁ……」
「今すぐ医師を呼びます! それに旦那様にも連絡を……!」
「だめ!」

 私はハンスさんの袖を掴んで引き留めた。

「言わないで。……ジークハルト様には、絶対に内緒よ」
「しかし! これほどの喀血(かっけつ)、もう隠し通せる段階ではありません! このままでは奥様の命が……!」
「言えば、あの人はこの子を諦めさせるわ」

 私の言葉に、ハンスさんが息を呑む。
 そう、ジークハルト様は優しい人だ。私を守るためなら、鬼になって我が子を手に掛けることも厭(いと)わないだろう。
 それだけは、絶対に避けたかった。

「お願い、ハンスさん。……私は平気。あと三ヶ月……ううん、あと少し耐えれば、この子は産まれるの。私の命なんて、どうなったっていい」
「奥様……」

 ハンスさんは苦渋の表情で唇を噛み締め、それから深く頭を下げた。
 忠義に厚い彼に、主人の秘密を抱え込ませるのは心苦しい。けれど、今はこうするしかなかった。

 私は震える手で、枕元に隠していた小さな手帳を取り出した。
 『体調管理日記』。
 医師に見せるための記録だが、ここには私の本当の想いが綴られている。

(今日も、血を吐いてしまった。……でも、豆粒ちゃんは元気。私の命を食べて、どんどん大きくなっている。……嬉しい。私の全てをあげたい)

 ペンを走らせる。
 文字が震える。視界が霞む。
 それでも、私は「母」として、この命を全うすることだけを考えていた。

 ◇

 その日の夕方。
 予定よりも早く、ジークハルト様が帰宅した。
 私は慌てて紅(べに)を差し、顔色の悪さを隠してベッドに入った。

「ただいま、エリス。……顔色は良さそうだな」
「ええ、お帰りなさい。今日は調子が良いみたいです」

 嘘をつく。
 彼は私の頬に触れ、少し訝(いぶか)しげに眉を寄せたが、何も言わずに私の手を握った。

「そうか。ならいいのだが。……少し、眠るといい。私はここで書類を見る」
「はい……」

 彼の体温に触れると、張り詰めていた緊張が解け、強烈な睡魔が襲ってきた。
 私は抗うことができず、泥のような眠りへと落ちていった。

 ――それが、油断だった。
 私が深く眠ってしまった後、枕元から滑り落ちた「日記」の存在に、彼が気づくとも知らずに。

 ◇

 ジークハルトは、妻の寝顔を見つめていた。
 化粧で隠してはいるが、その呼吸は浅く、苦しげだ。
 違和感はずっとあった。ハンスやメイドたちの、どこか自分を避けるような視線。エリスの不自然なほどの「大丈夫」という言葉。

「……ん?」

 ふと、ベッドの下に落ちている手帳が目に入った。
 エリスがいつも熱心に書き込んでいる日記だ。
 何気なく拾い上げ、パラパラとページをめくる。

 そこに書かれていた内容に、ジークハルトの全身が凍りついた。

『X月X日。吐血。氷の粒が混じっていた。肺が痛い。でも、あの人には言えない』
『X月△日。今日はお腹が焼けるように熱かった。中和が追いつかない。意識が飛びそうになるのを必死で耐えた』
『……もし、私が出産に耐えられなかったら。ジークハルト様は自分を責めるだろうか。ごめんなさい。でも、私はこの子に会いたい。私の命と引き換えにしても』

 ページをめくる手が震える。
 そこには、彼が知らなかった「真実」が、血を吐くような筆致で記されていた。
 彼女は「大丈夫」などではなかった。
 とっくに限界を超え、命を削り、ボロボロになりながら、それでも彼の前で笑顔を作っていたのだ。

「……馬鹿な」

 ジークハルトは呻(うめ)いた。
 最愛の妻が、自分の目の前で死にかけている。
 それも、自分との子供を守るために。

(私は……何を見ていたんだ)

 彼女の笑顔に甘え、現実から目を逸らしていたのは自分ではないか。
 「魔力中和があるから大丈夫」という希望的観測にすがり、彼女の犠牲の上に胡座(あぐら)をかいていた。

「……う、ん……」

 ベッドの上でエリスが小さく寝返りを打つ。
 その口元から、ツーッと一筋の赤い血が流れた。
 眠りながらも、魔力侵食に体が悲鳴を上げているのだ。

 ジークハルトは、日記を強く握りしめた。
 革の表紙が、彼の手から放たれた冷気でパリパリと凍りつく。

 彼は決断しなければならなかった。
 愛する妻の「願い」を尊重して、彼女が死ぬのを見届けるか。
 それとも、彼女に「一生恨まれる」ことを承知で、子供を諦めるか。

「……すまない、エリス」

 彼は眠る妻の額に、祈るように口づけを落とした。
 その瞳には、深い悲しみと、冷酷なまでの決意の光が宿っていた。

「私はお前を愛している。……愛しすぎているんだ。だから、お前のいない世界など、選べるはずがない」

 彼は立ち上がった。
 窓の外では、吹雪が吹き荒れている。
 まるで、これから訪れる残酷な運命を予感させるように、風が哭(な)いていた。

 隠された日記は、パンドラの箱だった。
 開けてしまった以上、もう「知らないふり」をして幸せな夢を見ることはできない。
 
 翌朝。
 ジークハルトは、医師団とハンスを招集し、ある「最終通告」を行うことになる。
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