彼女の中指が勃たない。

坪庭 芝特訓

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『携帯ゲーム機型腱鞘炎』 3塗り目

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 汐音の怒号が教室に響き渡った後。

「汐音っ」

 紗月は教室を飛び出した恋人を追いかけ、廊下を走った。
 けれど元・帰宅部の足では追い付けず、学校中を走り回り、五時間目が始まるチャイムが鳴ると仕方なく教室へ戻ってきた。
 そのすぐ後に、今までどこにいたのか目だけを赤くした能面のような顔の汐音がふらりと帰ってきた。
 汐音のお弁当箱は友人達が片付けてくれていた。
 気の利かないゲーマー男子達は、紗月の弁当箱はそのままだったというのに。
 二人の喧嘩の原因は瞬く間に広がり、同時にクラスの女子の間で守田君の株は大幅に下がった。



 放課後。教室のゴミ捨てを頼まれた汐音が、ゴミ箱を抱えながら廊下を歩いていると、

「汐音」

 見るからに申し訳なさそうな顔をした紗月が追ってきた。

「手伝うよ」
「黙れ」

 紗月がゴミ箱に伸ばした左手を、汐音が短い言葉で制する。
 動きを止めた紗月を残し、汐音はゴミ捨て用コンテナへ向かった。
 その後を紗月が少し離れて着いてくる。
 ゴミ箱の中身を捨て、汐音が教室へ戻ろうとすると、

「汐音っ」

 さっきよりもずっと大きな声で、普段はあまり出さない声量で紗月が恋人の名を呼ぶ。

「ごめんっ」

 そして普段は見せない機敏な動きで頭を下げた。
 汐音はゴミ箱を持ち、ただそれを見ていた。撫でたくて撫でたくて仕方ない恋人の後頭部をじっと見ていた。

「なんで謝るの?」
「えっ、だって」
「あたしがなんで怒ってるかわかってる?」

 言い淀む紗月に対し、汐音はゴミ箱を地面に置いて腕組みをした。
 ゲーマー男子が紗月を女の子として見ないことで困るのは、紗月が自分達のことを、特に性的なコミュニケーションについて話してしまうからだ。
 男同士で語られるそれは武勇伝であり、女同士で語られるそれは自慢である。
 しかしゲーマー男子は紗月を女の子として見ないため、あるいは見ていないと言って紗月の警戒心を解き、遠慮せずにそういったことを聞き出す。
 紗月も意識しないため、簡単に話してしまう。もしかしたら友情の証として話してしまっているのかもしれない。
 しかし話す相手は健全な男子高校生だ。男同士なら友情を介した武勇伝として聞く話を、ノーマルではない女の子から語られるそれを卑猥なエピソードとして聞いているのではないか。
 汐音はそう思っていた。彼らは紗月の友人だ。悪くは言いたくない。だけど。
 いや、そうではない。
 単純に、汐音は自分達がどのようにやっているかを他人に話してほしくないのだ。
 そしてそれを汐音は以前注意した。話さないでほしいと。なのに。それなのに。

「なんで喋っちゃうの?」

 さっきと同じような台詞を言うと、汐音の目からまた涙が込み上げてきた。
 知られた恥ずかしさ、約束を破られた悲しさと共に。

「ごめん…。ごめんなさい」

 涙を我慢するように汐音が地面を見ていると、謝る紗月の声がいつもより幼くなっていた。見ると紗月の方が汐音よりもぼろぼろと涙を流していた。

「なんで泣くの?ずるいよ」

 普段は男の子と一緒になって騒いでるのに、こんな時だけ女の子だ。

「なんで喋ったの?」

 相手が泣いていることで冷静さを取り戻した汐音が静かに問いただす。

「今日なんでゲーム持ってないの?って訊かれて、腱鞘炎になったから汐音に没収されたって言ったら」

 紗月がシャツの袖で涙を拭いながらぽそぽそと喋る。
 うっかり手で拭うと目に滲みるからか。
 話によると、勘のいい男子が腱鞘炎というキーワードからピンときたらしい。
 一体誰だ。普段は朴念仁なのに、そんなことばかりに鼻が利くやつはと考えるが、

「それで?」

 犯人探しは後にして汐音が先を促す。

「それで、手使えない時どうやるの?って訊かれて、別に普通だよって」
 
 紗月が喋るのを聞いて、なぜか汐音の胸の奥にチリチリとした火がついた。
 それは、怒りの火ではない。

「普通って?」
「普通に…、口で、舌とか、あと太ももとか使ってやるよって」

 そう話す紗月の顔が赤らめ始める。
 逆に汐音はなぜか興奮していた。紗月が話しているのは自分達のことだ。
 しかしそれを童顔で、ぼんやりした表情で、ぽそぽそと話す紗月がたまらなくいやらしい。
 彷徨う視線と、手持ち無沙汰に揺れる右手がたまらなく愛おしい。武勇伝でも自慢でもなく、聞かれたからごく自然なこととして、でも少し恥ずかしそうに話す。
 汐音は自分達のことを聞き出そうとする男子の気持ちが少しだけわかった。
 興奮を沈めるように汐音が細く息を吐く。そして、

「わかった。もういいよ」

 上履きのまま数歩近づくと、自らの涙で濡らしてしまった紗月の頬をさらりと撫ぜ、教室へ帰ろうとするが、

「えっ!?なんで!?」

 ゴミ箱を持ち上げた汐音の腕を、紗月が慌てたように左手で掴む。

「なんでって、なにが?」

 紗月の慌てぶりに、汐音の方が驚く。

「もういいって?別れるってこと!?」

 泣いたばかりの紗月の目が、また不安で潤みだす。
 ドライアイ気味の紗月はよく目を潤ませることが多い。情事の後を連想させるその瞳が汐音は好きだった。また胸の奥でチリチリと炎が燃え上がる。

「違うよ。もういいって、この話はもう終わりってこと。もう怒ってないよってこと」
「なんだ、そっか。びっくりしたぁ」

 紗月が安堵のため息をつく。その表情を見て汐音が目を細める。
 汐音は常日頃から、自分ばかりが紗月を好きなのではないかと考えていた。
 自分が好きなこの子はいつもゲームのことばかりで、自分のことは二の次だと思っていた。思っていたのに。ちゃんと好きでいてくれている。そのことが嬉しかった。
 汐音がゴミ箱を脇に下ろす。不真面目な掃除係が多いのか、教室のゴミ箱がいっぱいでも気にならないのか幸いコンテナ周りには誰もいない。

「紗月」

 今すぐ恋人を抱きしめたいと汐音は思った。名前を呼んで、黙って両手を広げる。
 それだけで紗月は恋人が何を望んでいるかを理解した。
 ぼんやりした童顔にふわりとした笑みを浮かべ、駆け寄る。駆け寄ろうとしたが、

「あっ、う」

 紗月の制服スカートのポケットが無粋な着信音を奏でた。

「ご、ごめん」

 紗月が左手でもたもたとケータイを取り出す。その目が誰からの着信かを捕らえた。
 汐音の中でまた何かが引っ掛かった。

「出ないの?」

 ケータイをしまった紗月に訊くが、

「メール、だから」
「誰から」
「…お母さん?」

 なぜ疑問形なのか。それは明らかに嘘だからだ。しかし浮気相手などではなさそうだ。

「見せて」
「やだよっ」
「なんで」
「恥ずかしい…、ちょっとっ」

 紗月のポケットに手を入れ、汐音がケータイを無理やり奪う。紗月は嘘をつき、おまけに何かを隠していた。

「…なにこれ」

 届いたメールを読んだ汐音が、紗月に向かってケータイを見せる。
 メールは紗月と同じマンションに住む、小学生の渓太くんからだった。

『今日もうちでゲームするの?やるならお菓子持参ね』

 メールの内容について紗月がぽそぽそと喋り出す。
 紗月が使っている携帯ゲーム機は本体メモリーにセーブするため、ソフトさえあれば続きが出来ること。昨日の夜、渓太くん宅に行ってソフトだけを借りてプレイしたこと。
 それらを馬鹿正直に話した。
 ゲームに疎い汐音にはメモリーやセーブなどはいまいちよくわからない。
 しかし紗月は最初からそういう考えだったらしい。
 最初から上手いことを言って納得させ、汐音を騙すつもりだったらしい。それだけはわかった。それだけわかれば充分だった。

「もういい」

 さっきとは違う意味のもういいを汐音が言う。別れるという意味に近い、もういいを。
 その身体を、怒り、疲労、悲しみ、脱力感のようなものが襲う。

「汐音」

 何か言おうとした紗月の顔を紗月が右手で思い切りはたく。
 脱力感に苛まれていても、それは手首のスナップの効いたきれいな平手打ちだった。
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