鳥籠の中の幸福

岩永みやび

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鳥籠の中

1 籠の中

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 夕暮れ頃から降り始めた雨が、あたりの空気に湿気を与える。窓を叩きつける雨粒が、筋を作って下へ下へと流れていった。

 ほんの少し前まで鈍色に染まっていた空は、抱えきれなくなった悲しみを放り出すかの如く、大量の雨を人々の頭上にぶちまける。

 洗濯物を外に出しっぱなしにしていたことを思い出したフィリは、間一髪で室内に取り込んだ。テーブル上に山を作る洗濯物を前に、額にうっすらと滲んだ汗を拭った。

 あまり広くはない木造二階建ての家は、生い茂る木々の間にひっそりと隠れるように建っていた。すべての窓がきっちり閉じていることを小走りに確認してまわり、フィリはようやくひと息ついた。

 一階にある狭いキッチンにて、手際よく茶を用意した彼は、雨に遮られてほとんどなにも見えない外をしばらくの間ひとり静かに眺めていた。

 カップから立ちのぼる湯気が、ゆらゆらと空気の揺れを可視化する。どこからともなく入り込む隙間風は、なんとも言えない湿り気を帯びていた。

 額に張り付く前髪を鬱陶しそうに掻き上げて、フィリは茶を口に含む。今年で十八歳になった青年にしてはやや小柄で、どこか中性的な雰囲気を纏うフィリの色の白い喉がこくりと上下した。

 薄暗い室内において、フィリの持つ白さはどこか幻想的な空気を作り出す。飾り気のない質素な衣服から覗く細い手足が、彼の艶めかしさを際立たせていた。細い絹のような銀髪を肩の辺りで無造作に切りそろえたフィリは、唇を引き結んでじっと窓の外を見つめる。石像のように固まっていた彼であるが、やがて窓の外にチラリと揺れる光を見た。

 すぐにカップをテーブルに置いて、傍に落ちていた髪紐で柔らかな銀糸を括った。露わになった白い頸を、うっすらと汗が垂れていく。洗濯物を籠に詰め込んで、部屋の隅に置いておく。

 狭い家に廊下なんて大層なものはない。

 リビングとキッチンが一緒くたになった空間に、玄関扉も設置されていた。

 家と同じく木製の扉が、ぎいっと音を立てた。水分を存分に含んだ生温い風が室内に吹き込む。ざあざあ打ち付ける雨音が大きくなり、静寂とは無縁なところへとフィリを連れて行く。

「ただいま。変わりはなかったか」

 感情のこもらない淡々とした問いかけに、フィリは無言で小さく頷いた。訪れたのは、フィリよりも頭ひとつ分ほど背の高い男であった。細身のフィリとは対照的にしっかりとした肩幅の男は、濡れそぼった前髪を鬱陶しそうに掻き上げる。

 ちらりと洗濯物を詰め込んだ籠に視線をやったフィリは、仕方がないと言わんばかりにそこからタオルを引っ張り出した。

「あぁ、どうも」

 無言でタオルを差し出すフィリ。軽く礼を述べて受け取った男は、名をジェイクといった。四十歳のジェイクは、衰えを感じさせない精悍な顔つき。その身体には無駄な肉はなく、引き締まっている。

 腰に差した剣を鞘ごと抜いたジェイクは、慣れた手つきでそれを壁に立てかける。タオルでガシガシと頭を拭いて、ついでに濡れた黒の上着も脱いでしまう。幸いにも下に着ていたシャツは濡れていなかった。薄いシャツの袖を捲るジェイクに、フィリは先程沸かした茶をカップに注いでやった。

「……外はどうですか」

 素っ気ないフィリの問いかけに、ジェイクが眉を寄せた。逞しい体躯のジェイクがそのような顔をすれば、大抵の者は肝を冷やすだろう。けれどもフィリは特に動ずることなく、ジェイクの黒い瞳をじっと見据えた。闇に溶け込んでしまいそうな漆黒を身に纏うジェイクは、濡れ羽のような毛先からポタポタと水を滴らしている。

「髪。ちゃんと拭いてください」
「あぁ、すまない」

 すっと床に視線を落としたフィリに言われて、ジェイクは再び雑な手つきで髪を拭いた。

 テーブルに置かれたカップを視認したジェイクは、どっかりと椅子に腰を下ろした。カップに口をつけて、ほっと息を吐き出す。

「あまりよろしくはないな」

 もはや決まりきった文言を口にするジェイク。そうですか、と短く応じたフィリは、ジェイクの向かいに腰掛けた。

「足りない物はあるか?」

 物の少ない室内を見渡して、ジェイクの口からついそんな言葉が飛び出した。わかりきった質問に、ここにきて初めてフィリの顔が曇った。

「足りない物だらけです」
「そうだったな。すまない」

 豊かに物を持てる時代ではない。
 フィリは幼い頃からずっとそう教わっている。目の前の男から。

「戦争はいつ終わるのですか」

 本当はあまり聞きたくないことではあるのだが。ジェイクの無神経に少し腹を立てたフィリは、あえて意地の悪い問いかけをした。案の定、ジェイクがさっと顔を背ける。

 フィリが生まれたときには、この国は既に戦争をしていた。それから十八年経った今も、状況は何ひとつ変わってはいない。物は少なく、欲しい物が満足に手に入らない。暮らしは貧しいが、物心ついたときからずっとこんな生活を送っていたフィリは、なんとか細々生きていられる。そもそもフィリは、贅沢がどういうものかあまり理解していない。狭い鳥籠の中で生きてきたのだ。外の世界にどんな贅沢が存在するのか。フィリは知らなかった。

 それでも日々の生活に必要な物が満足に得られないこの状況には不満を抱いている。

「砂糖が欲しいです」

 甘い物が貴重なことは理解している。しかしどうしても欲しい。外に出られないフィリにとって、甘味は数少ない楽しみであった。

 フィリの無茶振りとも言うべき要求に、ジェイクは苦い唸りを発した。親子ほど歳の離れているふたりには、血の繋がりはない。

 戦争中、孤児となったフィリのことを、ジェイクが拾って育てている。フィリはそう聞かされていた。

 自分が生きるのも精一杯な戦時中に、いくら乳飲み子とはいえそう簡単に赤の他人なんて拾うものだろうか。おまけに人の来ない森の中に家まで建てて安全を確保するなど、あまり普通ではない。なんとなく、ジェイクの行動が異常であることをフィリは察していた。

 しかしそれを指摘する勇気はない。フィリには、ジェイクしか頼れる者がいなかった。妙なことを口にして、ジェイクに見捨てられたら死ぬしかない。学がないフィリでも、それくらいのことは理解していた。

 戦に巻き込まれると危ないという理由で、フィリは森の奥で静かに暮らしている。過保護なジェイクは、フィリが少しの間でも外出することを許さない。まるで親鳥のように、せっせとフィリに食料を運んでくる。

 ジェイクはいつも「外は悲惨だ」と言う。とても苦々しい顔で、ときには苛立ったように低い声で。

 何度か森の外に出てみたいと言ったことがある。その度に、ジェイクは「死にたいのか?」と真顔で問うてくる。死がどういうものなのか、フィリは実際よくわかっていなかった。しかし森の中にも死はある。鳥や虫、動物の死んだ姿を何度も目にした。ピクリとも動かない死体は、寝ているようにも見えた。

 死は、とても怖いものである。
 森の外には、死が溢れている。
 もう何人死んだか把握できないくらいに、外は悲惨だと言う。戦争とは、どれだけ人を死に追いやれるのかを競うようなものであると。

 すべてはジェイクから聞かされたことである。

 フィリはまだ、人の死を見たことがなかった。

 なぜならフィリは、物心ついたときからジェイクの庇護下に置かれていたから。フィリは生まれて十八年間、ジェイク以外の人間を見たことがなかった。

 さしずめ、ここは鳥籠である。
 ジェイクが用意した、フィリだけのための鳥籠。

 鳥籠の中は安全だ。鳥籠の中には、人間の死という概念がなかった。

「……砂糖だな。今度持ってくる」

 投げやりなジェイクの言葉に、フィリは無言を返す。フィリの機嫌を取るために、ジェイクが無責任なことを言っているのは明らかであった。
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