鳥籠の中の幸福

岩永みやび

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鳥籠の中

11 鳥籠の崩壊

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 ジェイクが戻って来たのは、翌日のことだった。辺りが真っ暗闇に包まれたいつもの時間に、ジェイクは荒々しい動きで家に入って来た。

 そわそわしながらジェイクを待っていたフィリは、彼の姿を確認して安堵の息を吐いた。昨夜、不穏な面持ちで出て行ったジェイクである。心のどこかで、もう二度と会えないかもしれないと嫌な覚悟を決めなければならないところであった。

 早速夕食を用意するフィリであったが、ジェイクの様子がおかしいことに気がつく。普段であれば、なにも言わずとも手伝ってくれるジェイクが、椅子に腰掛けたまま項垂れている。テーブルに両肘をついて、額を押さえて俯くジェイクには変な迫力があった。それに気圧されて、フィリは声を掛けるのを躊躇った。無意味に鍋をかき混ぜて、時間を稼いだ。なんの時間を稼いでいるのか。フィリは自分でもよくわかっていなかった。

 ぐつぐつ煮立つ鍋を、ぐるぐるかき混ぜる。

 無心で手を動かしていたのだが、ジェイクが小さな声で「もういいんじゃないのか?」と発した。普段より力のない声音であった。それに気が付かないふりをして、フィリはふたり分のスープを注いだ。

 テーブルに置いて、定位置に座った。
 向かいで俯いたままに固まるジェイクは、動かない。皿から立ちのぼる湯気が、隙間風に揺られている。

 はぁっと、ジェイクの重苦しいため息が落ちた。のろのろとジェイクが顔を上げた。どんより濁った瞳が、フィリを捉える。

「あの茶髪の人は、どうにかなりましたか」

 はやく結論を知りたくて、そう切り出していた。訊かずとも、ジェイクの態度からおおよそのことは察することができたが、フィリはきちんとジェイクの口から聞きたかった。その結果、最悪の事態が待ち受けていても構わなかった。ジェイクが一緒であれば、フィリの日常は何があっても変わらない気がした。たとえ戦争に放り込まれても、隣にジェイクがいれば大丈夫な気がした。

 フィリの人生、いつも隣にジェイクがいた。当然だ。フィリはジェイクという人間しか知らなかったのだから。

 だからフィリは、ジェイクさえいればどうにかなるという漠然とした思いを持っていた。ジェイクさえいれば、鳥籠の外に出たとしても、あまり変わらないと思っていた。

 これから訪れるであろう未来に、フィリは不安よりも期待を抱いていた。鳥籠の外に出て、ジェイクと共に戦争へ行くのだ。そこに人の死がたくさんあったとしても、ジェイクがいれば大丈夫。

 たっぷりの沈黙の後。ジェイクは立ち上がった。それはこれから始まる新しい未来への期待に満ちた一歩だと、フィリは思った。

 だが、実際は違った。

 フィリの隣に立ったジェイクは、唐突に膝を折った。項垂れるように、頭を抱えてしまう。まるで激しい後悔を表す頼りない姿勢に、フィリは己の心臓が跳ねるのを感じた。

「私は、とんでもないことをしてしまった」

 始まったのは、未来への熱い演説ではなく、酷く弱々しい懺悔だった。

「私は、この命をもってさえ償いきれないほどの罪を犯してしまった」

 罪という単語が、フィリの心に重く重くのし掛かった。いつも背筋を伸ばして、自信に満ちた顔つきをしていたジェイクが、今は見る影もなく憔悴しきっている。

 あの茶髪の青年を殺したのだ。

 咄嗟に、フィリはそう理解した。根拠はない。ただの直感だ。

 すべて自分のせいだ。フィリはそう思った。
 あの青年に見られてしまったから。ジェイクはこの十八年間、ずっとフィリを匿ってくれていた。そのおかげでフィリは人の死とは無縁な生活を送れていた。それが、ガラガラと音を立てて崩れ去る気配を感じた。

 力なく項垂れたジェイクは「もう終わりだ」と言った。短い言葉であったが、この鳥籠での平穏な生活の終焉を告げる残酷な言葉であった。

 椅子に座ったまま、横目でジェイクを見据える。頭頂部しか見えない。一体ジェイクはどんな表情をしてるのだろうか。

 戦争において、人はたくさん死んでいる。けれども味方を殺すのは駄目なのだと、フィリは理解していた。あの青年はジェイクと同じような隊服を着ていた。だからジェイクの味方なのだろう。

「……追っ手が来る」

 追っ手という言葉に、フィリは言いようのない不安を感じた。捕まるということだろうか。捕まったら、どうなるのだろうか。

 足りない知識と経験を総動員して、フィリは考えた。難しい顔で考え込んだフィリは、やがてひとつの結論を出した。

「僕と、一緒に死にますか」
「……そんなこと、言わないでくれ」

 ジェイクの懇願にも近い悲痛な声に、フィリは戸惑った。ここでの生活が終わる以上、フィリに生きていく術はない。だったら死ぬしかないという考えだったのだが、ジェイクには否定されてしまった。

「君は生きてくれ」

 短い願いに、フィリは思わず立ち上がった。生きてくれと言われても、フィリは自力で生きる術を持っていない。ただ毎日、この狭い鳥籠の中で、ジェイクが持ってくる食料を待っているだけだった。それはジェイクが一番理解しているはずである。突き放すようにも聞こえる物言いに、フィリは少しの怒りを覚えた。けれどもそれをジェイクにぶつける前に、彼も立ち上がった。

 雑な動作で前髪を掻き上げて、フィリを見下ろした。つい先程まで漂わせていた悲惨な空気は既に霧散していた。

「もうここには住めない。わかるな?」

 引き締めた表情のジェイクに問われて、フィリはぎこちなく頷いた。フィリは、ここに隠れて戦争から逃げていた。茶髪の青年に見つかってしまったのだが、ジェイクは彼を始末した。それは大罪であると、フィリにも理解できた。ジェイクを捕まえるため、追っ手がここに来るらしい。ジェイクはフィリのために罪を犯した。であれば、当然フィリも捕まるだろう。捕まった先、どうなるのかフィリには想像もできない。しかし悪い方向に事態が進むことは、理解できた。

「あなたは、捕まる?」

 フィリは震える声で尋ねた。だが、ジェイクは答えない。ただ目線を鋭くして、家の中を駆け回った。二階からフィリの外套とあまり使用したことのない肩掛けカバンを持ってきた。己の懐から硬貨を数枚取り出すと、カバンに放り込んだ。

「あと必要な物はなんだ?」

 急に訊かれても、フィリは動けない。
 その間にも、ジェイクは戸棚を漁って保存のきく硬いパンや一度も使ったことのない革製の水袋を取り出してくる。

 着実に進む準備に、フィリの心だけがついていかない。取り残されたように立ち尽くすフィリの手に、肩掛けカバンが押し付けられた。

「いいか。これから私たちが勝つための作戦を実行する」
「……勝つ、ため?」

 逃げの準備ではなく、勝つためとジェイクは言った。その言葉に、フィリの中に再び炎が灯った。

「そうだ」

 大きく頷いたジェイクは、手際良くフィリに外套を着せるとカバンを斜め掛けにした。骨張った大きな手が、フィリの両肩を力強く掴んだ。少し腰を屈めてフィリの顔を覗き込むジェイクの瞳にも、火が灯っていた。

「君は、私と一緒にいるのはまずい。これはわかるな?」

 こくりと、フィリは頷いた。
 フィリのためにジェイクは殺人を犯した。ジェイクの追っ手がフィリの存在を知れば、フィリも捕まるだろう。

「だから、私たちは赤の他人とならなければならない」
「赤の、他人」
「まったく知らない者同士を装うという意味だ」
「……」

 つまりジェイクのことなんて知らないと貫き通せ。

 彼の熱の籠った声に、フィリは頷くのを躊躇した。フィリはジェイクさえいれば生きていける気がしている。そのジェイクを知らないふりして生きていくのは、フィリにとっては想像もできない難しいことのように感じられた。

「そんなに難しいことじゃない」

 眉間に皺の寄ったフィリに、ジェイクが苦笑してみせた。

「君はここを出て、街に行くんだ」
「え」

 これまで一度も森の外へ出たことはない。出たら駄目と言い聞かせていたのは、他でもないジェイクだ。

「街で会った人に助けを求めろ。頭のおかしな男にずっと森の中で監禁されていた。隙をついて逃げてきたので、助けてほしいと言うんだ」
「……あ、あなたは頭のおかしな男ではないし、僕は監禁なんてされていません」

 力なく言い返すフィリの声は、震えていた。

「少しだけ嘘を吐くんだ。これは私たちが生き残るための戦いだと言っただろう。勝つためには、多少の嘘も必要だ」
「嘘」
「そう。難しい嘘を吐く必要はない。ここで暮らしていたことや、食料を運んでもらっていたこと。森の外に出たことがないこと。生まれた家を知らないこと。これらは正直に言っていい。ただ、私のことを話してはいけない。君を監禁していた男はいるが、その顔は覚えていない。名前は知らないと言うんだ。それと自分の名前もわからないと言いなさい」

 できるか? という短い問いかけに、フィリはおずおずと頷いた。フィリとジェイクは無関係。お互い知らない者同士。それさえ守ればいいと、ジェイクはフィリの背中に手を添えた。

 戦争孤児であったフィリを拐い、森の中で監禁した頭のおかしな男。ジェイクではなく、架空の男を作り出せと。

「そうすれば、君が無知なことにも理由がつく。きっと保護してもらえるから、しばらく戦争には参加しなくてすむ」

 果たして本当にそうなのだろうか。戦争のせいで、みんな今日を生き延びるのに必死だと、ジェイクはそう何度もフィリに言い聞かせてきた。いくら監禁から逃れてきたとはいえ、そんな悲惨な状況下で他人のフィリに手を差し伸べる人がいるのだろうか。

 フィリは迷う。けれども、ジェイクのことは信頼していた。どのみちここにいては、ふたりとも終わりだ。

 生き延びるためには、行動しなければならない。もう餌を待つだけの雛鳥ではいられないのだ。

「頑張ります」

 カバンの肩紐をぎゅっと両手で握り締めて、フィリはか細い声で言った。それにジェイクが「頼む」と答えた。

「もし外で会えても、私のことは知らないふりをしろ。私の名前も、呼んではいけない。ジェイクという名も、フィリという名も、今ここで捨てるんだ」
「あなたは、どうするんですか」

 フィリは街へ逃げおおせても、ジェイクは追っ手に捕まってしまう。けれども彼は、不敵に笑った。

「私は大丈夫だ。どうにかするさ」

 どうにかって、なんだ。フィリの疑問と心配を遮るように、ジェイクが玄関扉を開けた。

「灯りは必要か?」

 言いながら、彼は持参してきたランタンに火を入れて、フィリに持たせた。

「火傷しないように気をつけろ」
「あなたの灯りは?」
「私は歩き慣れているから必要ない。ここを片付けてから、私も逃げる。君は先に行くんだ」

 自分も一緒に片付けを手伝う。そう言いたかったが、ジェイクの毅然とした態度に阻まれて、フィリは口を閉ざした。

「ここを真っ直ぐに行けば、街へたどり着く。そんなに遠くはない。カバンの中に水とパンを詰めておいた」
「あ……!」
「どうした?」

 片眉を持ち上げるジェイクを押しのけて、フィリは家に戻る。戸棚を漁って、ジェイクに貰った銀貨を取り出した。

「金なら、いくらか入れておいたぞ」

 カバンを指すジェイクに、フィリは首を左右に振った。ジェイクに初めて貰った銀貨は、フィリにとっては外との繋がりを示す大事な宝物なのだ。片手にランタン。もう片方に銀貨を握りしめるフィリを見て、ジェイクが苦笑いをする。

 自身の胸元に手を当てたジェイクは、素早く首にかけていた小袋を外した。中身を取り出して胸ポケットに仕舞い、代わりにフィリの握っていた銀貨を入れて小袋の口を結んだ。

「ほら。こうして首に掛けておくといい。片手が空く」
「これ。大事な物なのでは?」

 首紐をちょいと引っ張るフィリに、ジェイクが「いいや。そんなたいした物でもない」と笑った。

「さあ! もう時間だ。なにがあっても、ここに戻ってきてはならない。振り返らずに、街まで歩き続けるんだ」

 フィリの背中を、外の世界に向かってぐいと押す。一歩前に踏み出したフィリは、ジェイクを振り返る。

「あの、本当にお別れ?」
「フィリ」

 戯れの合図ではない。様々な感情の込められた短い呼びかけは、これまでにかけられたどんな言葉よりも暖かみがあった。

「愛してるよ、フィリ」

 囁くような声量だが、はっきりと聞こえた。

「僕も愛してます。ジェイク」

 しばし見つめ合っていたふたりだが、ジェイクが街へと続く道を示した。行けという無言の指示に、フィリは泣きそうになりながら従った。

 これまでフィリは、ずっとジェイクの言う通りに生きてきた。忠実に教えを守って、森の外に出なかった。この森からの逃亡は、ジェイクの指示である。ジェイクの言う通りにすれば、なにもかも上手くいく。フィリは己に、そう言い聞かせ続けた。

 ランタンを片手に踏み出すフィリの手は、微かに震えていた。あれだけ望んでいた外の世界に行けるというのに、フィリの心はまったく歓喜していなかった。

 ジェイクに言われた通り、ひたすら前だけを向いて歩き続けた。

 こうしてフィリの安全な鳥籠は崩壊の時を迎えた。

 超えてはいけない境界の目印である大木も過ぎた。滲む涙を袖で拭いながら、フィリは歩いた。しばらく泣きながら歩いていたフィリは、なんだか焦げ臭い臭いを嗅いだ。

 足が、止まった。

 振り向いてはいけないというジェイクの言葉が、頭の中に繰り返し流れてくる。それでもフィリは、後ろを見た。

 フィリの家があった辺り。真っ暗な空の下、真っ赤な炎が上がっていた。月を目指して高く高くのぼる黒煙が、フィリの目に焼き付いた。

 唇を噛み締めて、フィリは再び前を向いて歩き始めた。なにがあっても、ここへ戻ってきてはいけないというジェイクの言葉だけは、せめて守ろうと思った。

 初めての道をのろのろ歩きながら、フィリは嗚咽をもらした。

 ジェイクには、もう二度と会えないと思って。
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