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鳥籠の外
18 あの日の後悔
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先に寝ると言って引き上げたクラリスを見送って、ジェイクは細く息を吐いた。どっかりとソファに腰を預けたジェイクに、フィリップがにやりと笑った。
「どうだ。うちのクラリスは美人だろう?」
「あぁ。美男美女でお似合いだ」
本心だった。けれどもフィリップは肩をすくめる。ジェイクの冗談だと受け取ったようであった。
薄暗い室内に、蝋燭の小さな炎がゆらゆら揺れていた。
静寂に支配された室内には、僅かな身じろぎの音も響いてしまう。カチャカチャとカップとソーサーの触れる音がした。先程まで酒を呑んでいたフィリップであるが、酔っている様子は微塵もない。涼しい顔でカップに口をつける仕草は、ジェイクを魅了した。
出会った頃から、フィリップはずっと美しかった。顔もそうだが、何より志が美しかった。ただ漠然と職を手にしようと入団したジェイクとは異なり、フィリップには人の笑顔を守りたいという明確な目標があった。その堂々とした背中に、ジェイクは惹かれた。おそらく惹かれたのはジェイクだけではなかった。けれどもフィリップが結婚した際に、ほとんどの者はフィリップから興味を失った。
ただジェイクだけは、ずっとフィリップのことを見ていた。それは今でも変わらない。
「おまえは酔わないから、一緒に呑んでも楽しくないな」
緩く笑うフィリップに、ジェイクは「それはこちらのセリフだ」と短く返した。ジェイクも酒には強いが、フィリップも同様だ。互いに淡々と呑むので、特に盛り上がることもない。今日はルーディーがいたのでそこそこ会話をした。だが、普段のふたりの間にはあまり会話はない。言葉を交わさなくとも、ふたりの間には一種の信頼のようなものがあった。
「おまえも家を買ったらどうだ。金はあるだろう?」
「部下たちに出て行けと言われるまでは宿舎に居座るつもりだ」
「やめとけよ。部下たちがおまえに出て行けと言えるわけがないだろう」
おまえは顔が怖いんだから、と。冗談めかしてカップを傾けたフィリップに、ジェイクが咳払いをする。すぐに「すまない。冗談だよ」とフィリップが微笑んだ。その綺麗な笑みを見ると、ジェイクはほとんどなにも言えなくなってしまう。
フィリップの長い指が、カップの持ち手を撫でた。
「そろそろ帰るぞ。明日も仕事だ」
カップを置いたジェイクに、フィリップが目を細めた。疲れたと言わんばかりに伸びをするフィリップは、頬にかかった横髪を丁寧な仕草で払った。
「……駄目だな。どうやら僕も酔っているらしい」
息を吐いたフィリップが、力なくソファにもたれた。腰を上げようとしていたジェイクの動きが止まる。
しばしの沈黙の後。
フィリップが片手で顔を覆った。天井を見上げるようにして、フィリップが動きを止める。その姿は、懸命に涙を堪えているようにも見えた。
「僕はずっと、あの日のことを後悔しているんだ」
その途端、ジェイクの脳裏に叩きつけるような雨が浮かんだ。バシャバシャと跳ねる泥水に、頬を掠める葉。ぬかるんだ山道に、爆ぜる火。
湿った匂いが、記憶の中でよみがえる。
「あの日、どうして僕はネイトの傍にいてやらなかったのだろうか」
およそ十八年前。
この幸せが詰まっていたはずのローラン家から、ひとつの幸福が消えた。
「ネイトは、まだ自分で歩くことさえできなかった。僕は、ネイトがどんな声で喋るのか。知りたかった」
「……」
「ネイトがどんな物が好きで、どんな子を好きになるのか。見たかった」
「……」
「ネイトの嫌いな物も知りたかった。ネイトに色々な物を与えたかった。喧嘩だってしてみたかったし、クラリスと三人で食卓を囲みたかった」
フィリップの鼻を啜る音が聞こえた。
じっとその姿を見ていたジェイクは、目を伏せる。己の手元を凝視して、フィリップの震える声に耳を傾けた。
大雨の日であった。
王都の外れを流れている川が氾濫するかもしれないとの情報が入ったのは、そろそろ日が沈むといった頃合いであった。もうすぐ暗闇に支配される。今から川を目指しても危険であるとの意見もあったが、結局は住民の避難誘導のためにと騎士たちが出動した。その中には、まだ若いフィリップの姿もあった。
ジェイクは王都に残って細々とした対応にあたっていた。急激な大雨で、とにかく人手が足りなかった。各部隊の統率もおろそかになり、ばらばらと無意味に行き来する騎士たちの姿が本部でも散見されていた。
ローラン家には、まだ若かったクラリスと生後まもないネイトのみが残っていた。すっかり暗くなった頃、クラリスは早めに就寝した。
フィリップに頼まれていたジェイクが、クラリスとネイトの様子を見にローラン家を訪れたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
絹を裂くような悲鳴を、ジェイクは今でも覚えている。
「ネイトは!?」
錯乱した様子で家中を駆け回るクラリスの頼りない後ろ姿を、今でもはっきり思い出すことができる。
あの大雨の夜。フィリップとクラリスの大事なひとり息子ネイトは、忽然と姿を消した。
自分で歩けるような年齢ではない。何者かに連れ去られたことは明白であった。翌朝、家に戻ったフィリップは青白い顔をしていた。すぐに捜索が始まったが、行方は掴めず。
そのまま十八年が経過してしまった。
それ以来、この家にはどこかどんよりとした空気が漂っていた。
フィリップが、再び鼻を啜った。
「ネイトは、クラリスに似て可愛い子なんだ」
ジェイクは無言で立ち上がって、フィリップの隣に移動した。座り直したフィリップは、手を組んで俯くような姿勢をとった。
悲しみに沈むフィリップの背中をゆっくりさすった。
「生きていれば、クラリスそっくりの美人になっていただろうな」
「どこかで生きているさ」
思わずそう応じたジェイクに、フィリップが泣き笑いの表情を浮かべた。「無理に励ましてくれなくていい」と目元を拭うフィリップの真横で、ジェイクはうっすらと口元に笑みを浮かべた。
心配せずとも、ネイトは生きている。
クラリスではなく、フィリップそっくりの美人に育っているさ。瞳の色はクラリスに似たようだけど。
心の中でそう返して、ジェイクは笑みを引っ込めた。
「どうだ。うちのクラリスは美人だろう?」
「あぁ。美男美女でお似合いだ」
本心だった。けれどもフィリップは肩をすくめる。ジェイクの冗談だと受け取ったようであった。
薄暗い室内に、蝋燭の小さな炎がゆらゆら揺れていた。
静寂に支配された室内には、僅かな身じろぎの音も響いてしまう。カチャカチャとカップとソーサーの触れる音がした。先程まで酒を呑んでいたフィリップであるが、酔っている様子は微塵もない。涼しい顔でカップに口をつける仕草は、ジェイクを魅了した。
出会った頃から、フィリップはずっと美しかった。顔もそうだが、何より志が美しかった。ただ漠然と職を手にしようと入団したジェイクとは異なり、フィリップには人の笑顔を守りたいという明確な目標があった。その堂々とした背中に、ジェイクは惹かれた。おそらく惹かれたのはジェイクだけではなかった。けれどもフィリップが結婚した際に、ほとんどの者はフィリップから興味を失った。
ただジェイクだけは、ずっとフィリップのことを見ていた。それは今でも変わらない。
「おまえは酔わないから、一緒に呑んでも楽しくないな」
緩く笑うフィリップに、ジェイクは「それはこちらのセリフだ」と短く返した。ジェイクも酒には強いが、フィリップも同様だ。互いに淡々と呑むので、特に盛り上がることもない。今日はルーディーがいたのでそこそこ会話をした。だが、普段のふたりの間にはあまり会話はない。言葉を交わさなくとも、ふたりの間には一種の信頼のようなものがあった。
「おまえも家を買ったらどうだ。金はあるだろう?」
「部下たちに出て行けと言われるまでは宿舎に居座るつもりだ」
「やめとけよ。部下たちがおまえに出て行けと言えるわけがないだろう」
おまえは顔が怖いんだから、と。冗談めかしてカップを傾けたフィリップに、ジェイクが咳払いをする。すぐに「すまない。冗談だよ」とフィリップが微笑んだ。その綺麗な笑みを見ると、ジェイクはほとんどなにも言えなくなってしまう。
フィリップの長い指が、カップの持ち手を撫でた。
「そろそろ帰るぞ。明日も仕事だ」
カップを置いたジェイクに、フィリップが目を細めた。疲れたと言わんばかりに伸びをするフィリップは、頬にかかった横髪を丁寧な仕草で払った。
「……駄目だな。どうやら僕も酔っているらしい」
息を吐いたフィリップが、力なくソファにもたれた。腰を上げようとしていたジェイクの動きが止まる。
しばしの沈黙の後。
フィリップが片手で顔を覆った。天井を見上げるようにして、フィリップが動きを止める。その姿は、懸命に涙を堪えているようにも見えた。
「僕はずっと、あの日のことを後悔しているんだ」
その途端、ジェイクの脳裏に叩きつけるような雨が浮かんだ。バシャバシャと跳ねる泥水に、頬を掠める葉。ぬかるんだ山道に、爆ぜる火。
湿った匂いが、記憶の中でよみがえる。
「あの日、どうして僕はネイトの傍にいてやらなかったのだろうか」
およそ十八年前。
この幸せが詰まっていたはずのローラン家から、ひとつの幸福が消えた。
「ネイトは、まだ自分で歩くことさえできなかった。僕は、ネイトがどんな声で喋るのか。知りたかった」
「……」
「ネイトがどんな物が好きで、どんな子を好きになるのか。見たかった」
「……」
「ネイトの嫌いな物も知りたかった。ネイトに色々な物を与えたかった。喧嘩だってしてみたかったし、クラリスと三人で食卓を囲みたかった」
フィリップの鼻を啜る音が聞こえた。
じっとその姿を見ていたジェイクは、目を伏せる。己の手元を凝視して、フィリップの震える声に耳を傾けた。
大雨の日であった。
王都の外れを流れている川が氾濫するかもしれないとの情報が入ったのは、そろそろ日が沈むといった頃合いであった。もうすぐ暗闇に支配される。今から川を目指しても危険であるとの意見もあったが、結局は住民の避難誘導のためにと騎士たちが出動した。その中には、まだ若いフィリップの姿もあった。
ジェイクは王都に残って細々とした対応にあたっていた。急激な大雨で、とにかく人手が足りなかった。各部隊の統率もおろそかになり、ばらばらと無意味に行き来する騎士たちの姿が本部でも散見されていた。
ローラン家には、まだ若かったクラリスと生後まもないネイトのみが残っていた。すっかり暗くなった頃、クラリスは早めに就寝した。
フィリップに頼まれていたジェイクが、クラリスとネイトの様子を見にローラン家を訪れたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
絹を裂くような悲鳴を、ジェイクは今でも覚えている。
「ネイトは!?」
錯乱した様子で家中を駆け回るクラリスの頼りない後ろ姿を、今でもはっきり思い出すことができる。
あの大雨の夜。フィリップとクラリスの大事なひとり息子ネイトは、忽然と姿を消した。
自分で歩けるような年齢ではない。何者かに連れ去られたことは明白であった。翌朝、家に戻ったフィリップは青白い顔をしていた。すぐに捜索が始まったが、行方は掴めず。
そのまま十八年が経過してしまった。
それ以来、この家にはどこかどんよりとした空気が漂っていた。
フィリップが、再び鼻を啜った。
「ネイトは、クラリスに似て可愛い子なんだ」
ジェイクは無言で立ち上がって、フィリップの隣に移動した。座り直したフィリップは、手を組んで俯くような姿勢をとった。
悲しみに沈むフィリップの背中をゆっくりさすった。
「生きていれば、クラリスそっくりの美人になっていただろうな」
「どこかで生きているさ」
思わずそう応じたジェイクに、フィリップが泣き笑いの表情を浮かべた。「無理に励ましてくれなくていい」と目元を拭うフィリップの真横で、ジェイクはうっすらと口元に笑みを浮かべた。
心配せずとも、ネイトは生きている。
クラリスではなく、フィリップそっくりの美人に育っているさ。瞳の色はクラリスに似たようだけど。
心の中でそう返して、ジェイクは笑みを引っ込めた。
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