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1巻
1-1
プロローグ
はっと気がついて目を開けた。
どうやら居眠りしていたらしい。うんと伸びをして、変に着心地の悪い衣服に眉を寄せる。
全体的に硬く、普段着には到底向かない生地だと思う。こんな服、持ってたっけ?
傾げた首は、徐々に目の前の現実を理解してピシリと固まった。
「……え?」
思わずこぼれた小さな声にぎょっとする。
まるで声変わり前の少年のような高い声。喉元に右手を添えて、目を見開いた。
俺ってこんな声だったっけ? 俺はいつも通り――
あれ。いつも通りってなんだっけ?
頭の中に靄がかかったみたいに思考が停止する。なにかを思い出そうとするが、なにも思い出せない。けれども、この状況が俺の「いつも通り」でないことだけは確かだ。
ひと言で表せば、きらびやか。
広々とした室内は清潔感にあふれ、上質なことが一目でわかる洗練された空間だ。床には毛足の長い高級な絨毯が敷かれ、俺が腰掛けている椅子も気品に満ちている。はっきり言って居心地が悪い。
なにここ? 高級ホテル?
座ったまま呆然としていると、横から白手袋に包まれた、しなやかな手が伸びてきた。
カチャリと軽い音を立てて、ティーカップがテーブルにのせられる。
「っ!」
人がいたことに驚き肩を揺らすと、なぜか手の主も小さく息を呑んだ。
「申し訳ありません、ユリス様」
すぐさま飛び出した謝罪の言葉。
おそるおそる右側に目を遣ると、強張った表情の青年が直立不動の姿勢でいる。
二十代前半くらいか、明るめの茶髪が目を惹くお兄さんだ。執事服のようなものに身を包んだ彼は、その優しげな顔を困ったように歪めている。
「誰!?」
心からの疑問を口に出すと、お兄さんの顔色がみるみる悪くなる。しかし、すぐに表情を引き締めたのち、深々と頭を下げる。
「申し訳ありません。お世話になりました」
お兄さんはそのまま迷うことなく部屋を出た。
俺はその姿を見送って、「え?」と立ち上がる。
いや待って。置いていかないで。お世話になりましたって、なに。この状況で一人にされても困るって。
慌ててお兄さんを追いかけて、重厚なドアを開け放つ。
視界に飛び込んできたのは、美術館なのではと疑いたくなるほど豪華絢爛な空間だった。隅々まで清掃も行き届いており、僅かな隙もない。長い廊下には同じデザインのドアがずらりと並んでいて、いかにもファンタジー世界に登場しそうな豪邸だ。
絶対に俺の自宅ではない。現代日本では早々お目にかかれない上品な空間に、一瞬だけ二の足を踏む。土足で歩いて怒られないだろうか。
だが、考えている暇はない。長い廊下の先に、先程のお兄さんの背中を見つけた。俺が今どういう状況に置かれているのか。それを知るためにも、あの人だけが頼りだ。
「あの! ちょっと!」
声を張ると、お兄さんがビクッと足を止めた。その怯えるような仕草はなんだ。
自分の声に違和感を覚えながらも、お兄さんの前まで走っていく。妙に視線も低い気がして、首を捻りつつ、強張った表情のお兄さんを見上げた。
「……えっとぉ」
対面したはいいが、続く言葉が出てこない。
そもそもこのお兄さんは誰なんだ。まじまじと顔を眺めてみるが、見覚えはない。雰囲気的に友人や家族ではないだろう。態度がよそよそしい。
呼びかけたにもかかわらず、用件を言わない俺のことをどう思ったのか。小さく頭を下げたお兄さんは、怯えた表情で懐からなにかを取り出した。
「えっと、これは……?」
細長い形状の物である。意図が読めずに硬直していると、こちらに寄ったお兄さんが無言でカバーを外した。現れたのは、小型のナイフ。アウトドアで使うような持ち運びが容易なタイプ。
なぜ、今これを?
視線が合うたび、お兄さんがわかりやすく動揺する。
「自らの処分を勝手に決めるなど、おこがましい真似をいたしました。どうぞご随意に」
どうぞと言われても、まったくわからない。
眼前のナイフとお兄さんを交互に見て、お兄さんの出方を窺う。話の流れ的には、彼の処分に関することなのだろう。処分ってなに。なにがどうしてそうなった。
視線で問いかけるが、彼は困ったように「どうぞ」と繰り返すだけ。その声は、これ以上ないくらいに緊張を含んでいた。
この意味不明な会話から抜け出そうと、彼から視線を外したその瞬間。
無言を貫いていたお兄さんが、突然鈍く光るナイフを振り上げた。
「えっ」
その刃先の行方を理解して、咄嗟にお兄さんの腕を掴む。なんだか不思議な身長差があるため、掴むというよりはしがみつくような格好になっているが。
俺って、こんなに身長低かったっけ?
大人と子供くらいの差があるような。いや、そんなことより。
「危ないよ! なにしてるの!」
自らの左腕を狙っていたお兄さんは、俺が飛びついたことでナイフを落とした。
「な、にを」
驚愕する彼は、慌てた様子で俺から距離をとる。これでもかと見開かれた目が、俺のことを上から下まで観察している。
二人して立ち尽くしていると、「おい! なにをしている」という鋭い声が飛んできた。突然の大声に肩を揺らす俺とお兄さん。
声のした方向へ顔を向けると、近づいて来る人影を発見した。
癖のない黒髪に、意志の強そうな鋭い目。がっしりとした体格も合わさって変な威圧感がある。シンプルな、けれども上品なシャツを着込んだお兄さんだ。なんというか、怖そうな人だな。
「どちら様ですか?」
とりあえず丁寧に接してみる。なんだか怒らせたら厄介そうだと思ったのだ。
しかし、そんな俺の努力も虚しく黒髪お兄さんは「あ?」と物騒な声を発する。
「おまえの兄だろうが! ふざけたことばかり言うんじゃない」
「……兄?」
はい? なにそれ。
ぽかんとする俺に、兄を名乗る人物は忌々しそうに舌打ちをした。その物騒な態度に、思わず首を竦める。やっぱり怖い人だ。
「そんなことより授業はどうした。家庭教師が来ている時間だろう」
授業? 家庭教師? 身に覚えのないことばかり羅列されて、なにがなんだか。
そんな俺の背後で立ち尽くしていた茶髪お兄さんが、弾かれたように頭を下げた。
「家庭教師は先日解雇いたしました」
「何度教師を変えれば気が済むんだ。我儘もいい加減にしろ」
「申し訳ありません」
なぜか茶髪お兄さんが謝罪の言葉を口にする。怖そうなお兄さんは、俺に対して文句を言ったように見えたけど。これはなんというか、うん。
ぼんやりと感じていた異変は、もはや無視できないほどになっている。
険しい雰囲気の二人からゆっくり離れて、目についた窓に視線を向けた。そこに映り込んだ影は三つ。黒髪の怖そうなお兄さんと、頭を下げる茶髪のお兄さん。そして――
「なに、これ。え、誰?」
窓に手を添えて、映り込んだ三人目を凝視する。俺が手を上げると、窓にうっすらと浮かんでいる人影も同様の動きをしてみせる。
「お、俺ぇ?」
子供だ。どう見ても小学生くらい。いやいや、ちょっと待ってほしい。
両手で頬を包み込む。なにも思い出せないとは言ったが、この姿は絶対に違う。俺はどこにでもいる平凡な高校生で――
第一章 成り代わった
どうやら俺は、まったくの別人に成り代わってしまったらしい。
前世(?)の俺は平凡な男子高校生だったはず。とはいえ、記憶はぼんやりとしていて、前世での名前なんかはまったく思い出せない。高校生という記憶が本当に正しいのか判別もつかない。
だが、この世界が見慣れない場所であることは間違いない。同時にこの小さな体も。
今の俺は、端的に言うと絶世の美少年。
漆黒の髪と瞳は前世とそう変わらないが、いかんせん顔の造りがお見事だ。一つ一つのパーツが美しく、その配置も完璧。クールな面持ちで、黙っていれば陰のある美少年にしか見えない。
年齢は小学生くらい?
身に纏う衣服は高級品で、どこの貴族だって言うくらいに装飾が付いている。無駄に胸元がひらひらした白いシャツに緑っぽい生地の厚いジャケット。うん、非常に動きにくい。
とりあえず、どこかの世界の美少年に成り代わってしまったらしい。それはいいのだが(いや、よくはないか)、俺は今、非常に困った立場にいる。
普通こういうのって、前世の記憶があるものじゃないの?
それか前世で読んでいた漫画の世界に転生とかさぁ。前世の記憶を武器に無双するのが定番なんじゃないのか。
しかし残念なことに、俺はこの体の持ち主に関する情報を一切持ち合わせていない。
はっと気がついたら、見知らぬ美少年だった。ついでに前世の記憶もほとんどない。
なんて不親切設計。突然まったくの他人として生きろなんて難易度高すぎる。すでにリタイアしたい。
茶髪お兄さんの言葉を信じるのであれば、今の俺は『ユリス』という名前らしい。「ユリス様」と呼ばれているので、おそらくいいとこのお坊ちゃんなのだろう。
俺が記憶喪失なだけという可能性もあるけど、あまり期待はできない。うっすら現代日本の記憶があるからな。
さらに、うまく言葉にできないが、この小さな体にも違和感がある。これは絶対に俺の体じゃない。
元の世界に戻る方法が不明な今、俺はこの美少年として生活していく他にないようだ。
だってこういう異世界には、現代日本とは異なる常識がある可能性が高い。
俺が不審な行動をすれば、変な理由をつけて処刑されるかもしれない。治療という名の監禁コースに進む可能性だって否定できないのだから、記憶喪失を疑われるのもまずい。
だからここで取るべき行動はただ一つ。
みんなに怪しまれないよう、ユリスくんになりきるしかない。
ユリスくんをうまいこと演じられれば、身の危険だって回避できるはず。
そのためにも家族と仲良くしておいて損はないだろう。
とにかく、まずは情報を集めないと。
このユリスくんとやらが家庭教師を解雇した件について、いまだにあれこれ言っている黒髪お兄さんは、ユリスくんの兄らしい。一方的に責められる茶髪お兄さんが可哀想に思えてくる。
黒髪お兄さんとユリスくんが兄弟なのであれば、俺も彼の弟っぽく振る舞う必要がある。自然な感じで弟をやらないとな。気合を入れて、二人の間に割って入る。
「お兄様!」
窓にちらっと映り込んだ容姿を見る限り、ユリスくんは育ちのよろしいお坊ちゃんだ。きっと兄のこともお兄様呼びしているに違いないと声を上げると、なぜか黒髪お兄さんがぎょっとする。
「なんだ、突然。これまでお兄様なんて呼んだことないだろ」
お兄様呼びじゃないのかよ、ユリスくん。こんな美少年なのに?
慌てて笑顔で誤魔化すが、茶髪お兄さんも怯えたように半歩下がってしまった。
想像していたものとは、かなり反応が違う。どういうことだよ、これ。
「具合でも悪いのか?」
兄様の問いかけに、慌てて首を左右に振る。お兄様は丁寧すぎたかも。兄様呼びでいいや。
手探り状態で突き進むしかない現状に、早くも限界を感じている。これ以上、下手なことを口走ると危険だ。身動きの取れない俺が焦っていると、幸いにも兄様が動いてくれた。
「ところで、ジャンを解雇するのはやめたのか?」
ジャンって誰だよ。
茶髪お兄さんに視線で助けを求めるが、俺の視線をガン無視して緊張の面持ちで固まるだけ。
「ジャンって、誰だっけ?」
仕方がないので、素直に質問してみる。堂々としていれば、なんだかいける気がしたのだ。
「なんだ。解雇したのか?」
勝手に会話を続けてくれる兄様。一方、茶髪お兄さんの優しそうな顔はみるみる青くなる。
「も、申し訳ありません……! 私の察しが悪いばかりに大変なご迷惑をおかけいたしました。お世話になりました」
早口の謝罪と共に、茶髪お兄さんが勢いよく頭を下げた。そして、淡々と紡がれた挨拶に、今度は俺が顔色を悪くする。
え、なにこれ。これじゃあまるで茶髪お兄さんが辞めるみたいな――
はっと閃いた。
「ジャン?」
「はい、ユリス様」
おそるおそる問いかけてみると、すっかり青ざめた茶髪お兄さん、もといジャンがおずおずと返事をした。
これはまずい。見たところ、ジャンはユリスのお世話係みたいな人だろう。ただでさえ知らない世界に来てしまったのに、ここで一人にされるのは困る。
慌てて解雇するつもりはないと説明すると、ジャンは困惑しながらも頷いてくれた。兄様は「なんだ? 結局どっちなんだ」と苛立ったように腕を組んでいたけど。
ジャンは、ユリスの従者らしい。ユリスの身の回りの世話を一手に引き受けているようだ。
怪訝な顔の兄様から逃げるように別れて、部屋に戻る。初めに目を覚ましたこの部屋が、ユリスの自室らしい。いかにもお金持ちっぽい広い部屋だ。
備え付けの鏡と向き合って、うーんと頭を悩ませる。
どこからどう見ても完璧な顔。さらっとした黒髪も相まって、クールな美少年だ。
己の新しい顔に魅入っていると、背後に音もなく立ったジャンと鏡越しに目が合った。
「うわっ」
「失礼しました」
驚きを誤魔化そうと、思わず眉間に力を込めると、ジャンはさっと表情を曇らせてしまう。
「申し訳ありません。どうぞご随意に」
差し出されたのは、先程廊下に転がしたはずの小型ナイフ。ご丁寧に拾ってきたらしい。
無言の俺に、ジャンは根気強くナイフを差し出してくる。なにこの人。普通に怖い。
「どこでも構いませんよ」
しまいには、無表情で袖を捲り始める。
どういうことなの? ナイフで刺せってか? するわけないだろう、そんなこと。
だが黙っていれば、痺れを切らしたジャンが自らナイフを振り上げる可能性もある。それもだいぶ怖い。どうやらジャンはちょっと困った性癖をお持ちらしい。趣味嗜好なんて人それぞれだけど、俺を巻き込むのはやめてくれ。
仕方がないので、俺はナイフを受け取った。途端に、ジャンが覚悟を決めるように唇を噛み締める。やめて、そんな目で俺を見ないで。まるで俺が悪いみたいじゃないか。
「……これは必要ないです」
緊張のせいで強張った声になってしまった。
だが、ジャンは俺よりも緊張していたらしい。さっと俺の手からナイフを取り上げると、今度はきちんと懐にしまってくれた。
「大変失礼しました」
「い、いえ」
ぎこちない笑みを浮かべたジャンは「私に対して敬語は不要です」と言い添える。
確かに、従者に対して敬語は必要ないのかもしれない。
「ところで、さっき廊下で会ったあの、ほら」
兄様の名前を聞き出そうと奮闘してみると、ジャンが不思議そうに首を傾げる。
「ブルース様が、なにか――」
「そう! ブルース兄様!」
ジャンを遮って「よっしゃ!」と小さく拳を握る。これで兄様の名前は把握できた。
訝しむジャンには「なんでもない」と笑って誤魔化しておく。
他にもユリスに関する情報を集めなければならない。
壁際で直立するジャンに見守られながら、室内の扉という扉を次々と開けてみる。
最初に俺がいた部屋は、中央にテーブルセットが据えられ、応接間のような装いだった。部屋の奥にはもう一つドアがあり、こちらは寝室。
どちらの部屋も豪華だが、全体的に物が少なく生活感に欠ける。しかし、それはうまく収納されているおかげ。
壁に沿って据えられた棚の中には、使い道不明の小物がこれでもかと詰め込まれている。異世界アイテムっぽくて楽しい。
しばらく夢中であさっていた俺は、バタンという無機質な音を耳にして視線を滑らせる。
いつの間にか、ジャンが隣に移動してきている。俺が散らかした側から、片付けて回っているらしい。なんかすみません。
謝罪の意味を込めて小さく頭を下げると、ジャンは大袈裟に肩を揺らした。
なんだろう。この不穏な空気。またナイフを差し出されても困るので、早々に視線を外す。
ジャンは些細なことで加害を要求してくる危ない人だ。俺には他人をいたぶる趣味はない。
「なにか探し物でしょうか。必要があれば私が探しておきますが」
「あ、いや。そういうわけじゃ」
「左様でございますか」
背筋を伸ばすジャンは、困ったように眉尻を下げている。探し物でなければ、どうして部屋を荒らしているのかとでも言いたげな雰囲気だ。
こほんと咳払いをして、中央のテーブルへ向かう。
すかさずジャンが椅子を引いてくれる。至れり尽くせりだ。座ったはいいが、地面に足が届かない。両足をぷらぷらさせて、背後に控えるジャンを見上げる。
ジャンは特別背が高いというわけでもない。身長差があるのは、俺の背が低いせいだ。
「俺って何歳だっけ?」
冗談を装って軽く問いかけると、ジャンは僅かに瞠目した。
「ユリス様は十歳でございます」
やはり小学生だ。小さいはずだな。
「ところで学校は?」
この世界、小学校とかあるのだろうか。
「学校へ通われるおつもりでしょうか? しかし大公様が反対なさるかと」
大公様って誰? 俺の知らない単語を出さないでくれ。
それきり、ジャンは困惑顔で黙り込んでしまう。学校へ行くことについては大公様なる人物の反対に遭うから無理と言いたいらしい。
「……家庭教師は?」
ブルース兄様の怖い顔を思い出していると、「新しい家庭教師をすぐに手配いたします」との返答。
自分の部屋なのに酷く居心地が悪い。文字通りジャンが引っ付いて回るから気も抜けない。貴族ってこんなに息苦しいの?
「今日の予定は?」
「特にございません」
世間話を好まないのか、それとも従者という仕事に徹しているからなのか。ジャンはそっけない。一問一答形式でしか会話が進まない。会話を強要すると、思い詰めた表情をする。それは俺としても不本意だ。結果、意思疎通がままならない。
まずは、この従者との付き合い方を探るべきかもしれない。本当は庭にでも飛び出したいのだが、俺の一挙手一投足にビクビクするジャンが可哀想で下手に動けなくなってしまった。
屋敷一階に位置するこの部屋からは、綺麗に整備された庭が見える。結構な広さがあるらしく、散歩するだけでかなりの暇潰しになりそう。噴水もあるようだ。ぜひとも見に行きたい。
そうして特に何事もなく、夕食の時間が近づく。
この家でのルールがわからない俺は、時間が経つにつれてそわそわしていた。だが、「ご飯ってどうするの」と訊くわけにもいかない。怪しまれてしまう。
しかしその心配も早々に解消された。
ノックと共に入室してきたメイドさんが、手際よく食事をテーブルに並べていく。見れば一人分しかない。
食事中もずっと側にいるジャンは沈黙を守り、部屋の隅で控えるメイドさんも口を結んだまま。
気まずいので一緒に食べないかとジャンを誘ってみたが、可哀想なくらいに顔を青くしていた。
自身の咀嚼音がやけに気になり始めてからはもうダメだった。緊張のあまり、味はまったくわからない。なんでこんなに注目されながら食べないといけないんだ。もしや食事は毎度こうなのだろうか。すごく嫌だ。
それでもなんとか完食して食後の紅茶を嗜んでいたときだ。
「あの、ユリス様」
「ん? なに」
緊張の面持ちで口を開くジャン。こんな子供を相手に、なにをビビる必要があるのか。
「ブルース様が新しい家庭教師を手配したと。いかがいたしましょう」
「早いね」
「はい。随分とユリス様のことを心配しておられるようでしたので」
ブルース兄様が、俺に家庭教師がいないことを知ったのは今日の昼間だ。なんて迅速な行動。
しかし家庭教師が来てくれるというのはありがたい。なんせ俺は右も左もわからない状態なのだ。こちらの世界の常識を増やせるチャンスは貴重。授業開始は一週間後くらいになるそうなので、それまでは情報収集として屋敷の探索でもしよう。
とはいえ、幸いここでの生活は快適そうだ。
現代日本のような技術はないが、明かりくらいはあるらしい。夕方になって部屋に明かりが灯ったときはほっとした。
どうやら冬の始まり頃らしく外は肌寒いが、室内は快適な温度を保っている。風呂も着替えも全部ジャンが手伝ってくれたので、特に戸惑うこともなかった。
そうして迎えた成り代わり生活二日目の朝。
「遊び相手を用意してやる」
「お構いなく」
朝食の席に突入してきたブルース兄様は、偉そうに言い放った。
「可愛げのない奴だな」
「はぁ、どうも」
「褒めてはない」
今日はなぜか背後に騎士を連れている。
短く切り揃えた髪は赤みがかっており、当然のように背が高い。涼しい目元が特徴的で、優しそうなイケメンお兄さんだ。目力が変に強い兄様とは対照的だな。
この家には、なんとお抱えの騎士団があるらしい。異世界の騎士と聞いて、わくわくしないわけがない。すごく興味がある。近々見学に行こう。
そわそわする俺に、ブルース兄様が怪訝な顔をする。ジャンに聞いたのだが、ブルース兄様は自主的に騎士団の訓練に参加しているらしい。
やけに怖そうな人だと思っていたが、剣術を嗜んでいるからだろうか。要するに兄様は脳筋なのだ。俺の苦手なタイプ。
図々しく椅子を陣取ったブルース兄様は、当然のように俺と朝食を共にしている。
「……おい、音を立てるな」
ブルース兄様の話を聞き流しつつ朝食を食べていると、不機嫌な様子で言われた。
無茶言わないでくれ。ナイフとフォークなんて使い慣れていないんだ。カチャカチャ苦戦していると、ブルース兄様の顔がさらに険しくなる。
「フォークの持ち方がおかしい」
フォークに持ち方とかあんの?
「刃先を人に向けるんじゃない」
違う。これについては俺の前に勝手に座ったブルース兄様が悪い。俺が刃先を向けたんじゃなくて、兄様が俺の刃先に回り込んできたのだ。
「おい、ジャン。おまえはどういう教育をしているんだ」
痺れを切らした兄様が、俺の背後に佇むジャンに鋭い目を向けた。俺はジャンに教育された覚えなんてないけどな。
「申し訳ありません!」
オロオロするジャンが可哀想だ。俺がマナーを知らないのが原因なのだから。
本物のユリスは生粋のお坊ちゃんらしいからマナーも完璧なのだろう。だとしたら、ジャンは悪くない。助けてやらねばという使命感から、俺はフォークを置いた。
「ブルース兄様!」
「置き方が違う」
フォークの置き方ってなんだよ。そんなことまで決まってるの?
折れそうな心を必死に鼓舞して、俺は咳払いをした。
「ジャンはその、あれなので。あんまり色々言わないであげてください」
「あれってなんだ」
それ訊いちゃう?
ちらりと背後のジャンに目線を送る。困った顔のジャンは、きゅっと唇を引き結んでいる。
本人の前で言うのはちょっと。
だけど脳筋お兄様は配慮というものができない。早く言え、と鋭い眼光で急かしてくる。
ジャンはちょっと困ったお兄さんだけど、ユリスのために働いてくれている。俺が成り代わったばかりに迷惑をかけてしまっているのだ。
よし、ここはジャンの名誉のために黙っておこう。
決心した俺であったが、「おい、ユリス」という低い声に呆気なく口を滑らせてしまう。
「ジャンはちょっと困った性癖なので」
その場に居合わせた全員がピシリと固まった。
ごめんよ、ジャン。だってブルース兄様の目が怖すぎるんだもん。
「ユ、ユリス様?」
重苦しい空気の中、真っ先に声を上げたジャンは震えていた。
青筋を立てた兄様が、乱暴にフォークを皿の上に放り投げる。品のない音が響いた。
「おい、ジャン」
「いや、あの、なんのことだかさっぱり」
「ブルース兄様。音を立てるのはよくない」
「おい、こいつを黙らせておけ」
ブルース兄様に顎で指示されて、控えていた騎士が寄ってくる。
「ユリス様。向こうの部屋へ行きましょうか」
「いや、大丈夫」
先に音を立てるなと言ったのは兄様なのに。俺らを一瞥した兄様は、次にジャンを見据えた。
「で? おまえは一体どういう流れで、うちの弟に困った性癖とやらを披露したんだ」
あ、これはダメだ。なんか兄様が誤解している。多分エロい方向で考えてるな、この脳筋め。
「ですから、誤解です! そんなこと――」
「兄様。そうじゃない」
流石にジャンが可哀想なので助け舟を出す。まぁ発端も俺なんだけどさ。
「じゃあどうなんだ」
「えっと、だからその」
俺が庇ったことで目に見えて安堵するジャン。よかった。
ジャンを下手に追い詰めると、またナイフを取り出しかねないからな。そんなことを考えながら口を開いたから、ついうっかり事実を語ってしまった。
「たまにナイフで刺せって言ってきます」
ジャンが顔を覆った。ブルース兄様が頬を引きつらせている。騎士は視線をあらぬ方向へさっと向けた。異様な空気だった。
「おま、それは。その、どういう性癖なんだ」
「……違います」
ようやくそれだけを絞り出したジャンは、ついに膝を突いた。うん。マジでごめん。
その後、ジャンはブルース兄様に連れられてどこかへ行ってしまった。後で謝ろう。
部屋に取り残されたのは俺と騎士。
壁際に直立する彼は、剣を持っていなかった。ちょっと残念。間近で見てみたかったのに。暇を持て余した俺の視線は、自然と騎士に向かう。
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