アンダンテ・メトロノーム

古城乃鸚哥

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 まだ歩き慣れない夜のキャンパスを、彼女はどきどきしながら会場に向かって歩いていた。
 連れ立って歩く友人はまだいない。でも、きっとみんなそうなんだろう。会場となっている小講堂へ足を踏み入れると、まばらに座っている先客がちらほらいた。並んで小声で話しているグループや二人組もいるが、一人で手元に目をやったり、辺りを見回している人のほうが多い印象だ。男女比は、同じくらい。
「来てくれてありがとう。楽しんでいってね」
 入り口でプログラムを差し出される。手書きで「オーケストラ部新歓コンサート」と書いてある。手渡してくれた女性はにこりと笑って奥へと彼女を促してくれた。
 バイオリン、かな。
 担当楽器を心の中で想像してみる。長い黒髪をそのままストレートで下ろしている、雰囲気の上品な女性だった。後で何の楽器かみてみよう。
 彼女は高校で吹奏楽部に所属していた。楽器はオーボエ。それなりに好きだったけれど、楽器に対して強い思い入れがあるわけではなかった。大学に入って、せっかくだから気分を一新して別の楽器を始めるのもいいかもしれない。そう思ってオーケストラ部の新歓コンサートにやってきた。
 弦楽器、やってみたいな。
 演目とメンバー募集の内容が書かれたプログラムを眺めていたら、開演五分前になった。
 舞台袖からチューニングの音が聞こえる。  
 オーボエの音に合わせて、まず菅楽器が吹き鳴らされ、それから弦楽器の弓が弾かれた。大学受験以降遠ざかっていた、音が重なっていく感じが懐かしい。
 綺麗な音。
 淀みのない基音を響かせるオーボエに、彼女は思わず聴き入った。ただA音一つ鳴らしているだけなのに、とても艶やかで、それでいて芯のある音色だと思った。
 やがて奏者が舞台上に入場して着座する。ざっと見たところ十数人くらいで、裏で鳴っていた音の厚みよりも少なく感じた。
 壇上を見渡すと、先ほど入り口で会った女性を見つけた。チェロだった。胸に抱えて楽器を構える姿が様になっている。
 かっこいい。
 その女性に目を奪われている間に演奏が始まった。
 知らない曲だった。特にクラシックを好んで聴くというわけでもなかった彼女は、手元に目を落としてプログラムを確認する。
 ヘンデル作曲「水上の音楽 組曲第一番」
 タイトルは聞いたことがあるが、今始まった曲に馴染みはなかった。バロック調の曲だ。
 冒頭は弦の厳かな伴奏を導入に、オーボエのソロから始まっていた。
 その、旋律。
 かつて、自分も吹いていた楽器の音色が、会場の空気を厳かに震わせ、彼女は思わず息を飲んだ。
 視線を、向けずにはいられなかった。その音の方へ。
 チューニングの時にも、いい音だとは思っていた。だが、演奏しているその姿に彼女は釘付けになる。
 オーボエ奏者は男性だった。黒のシャツに黒のスラックス、それ自体は衣装を合わせた他の人と同じだけれど、何かが彼女を惹きつけた。
 音の存在感も、単独旋律だからというだけではない。ソロパートが終わってからも、異彩を放つ彼という存在に目が釘付けになった。
 たとえばキーの押さえ方、ブレスの取り方、譜面のめくり方。そのどれかが、何か一つが特徴的というのではなく、敢えていうならばそのどれもがーー楽器を吹いている姿そのものが、とても印象的だった。
 かっこいい……。
 彼女は、先刻のチェロ弾きの女性のことも、会場に入った時には弦楽器をやりたいと思っていたことも、一瞬にして忘れていた。ただ夢中でオーボエ奏者に見入った。
 曲の後半に耳馴染みのあるフレーズが出てきても、それほど心を動かされなかった。その後に何が演奏されても、もう彼しか見えない。
 彼女は夢中で彼を見つめていた。これまでに感じたことのない高揚に、終始身体が前のめりになる。
 生の演奏を聴く機会は、もちろん今までにもあった。上手いと思う奏者もいた。プロの演奏を聴くことだってあった。
 でも、その誰とも違う。目を奪われる、心を奪われる、という感覚。初めてだった。

 コンサートが終わると、演奏体験の時間が設けられて、奏者とコミュニケーションを取る場が与えられた。
 彼女は迷いなく、きらめくオーボエ奏者の方へと向かっていった。
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