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1.苦手かもしれない
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大学を卒業後、地元を離れて外資系の保険会社に入社した私だが、気づけは三十路手前の二十九才になっていた。
仕事は順調、職場においての人間関係も良好だ。地味なプライベートにささやかな色を添えるのは、片想いの恋だ。
そんな私の悩みと言えば、いつ告白しようかとそのタイミングを探るくらいで、その他は至って穏やかに、これといった不満もなく毎日を過ごしていた。
ところが、最近になって私の心を揺らす者が現れた。
その日の朝、珍しく私は寝坊した。
そのため、いつものように弁当の用意にまで手が回らず、久しぶりにビル内のカフェで昼食を摂ることにした。
同僚たちと交代で昼休憩に入り、目的の店へと向かう。昼時ということで店は案の定満席だった。しかし、注文を取ってから提供までが早い店だ。それを知っている私は、入店を待つ列に並ぶことにした。
それからしばらくして、後ろの方でため息交じりの声がする。
「時間的に、やっぱり混んでるなぁ」
何気なく振り返り、声の主と目が合ってしまった。端正な顔を向けられてどきりとし、落ち着かなくなる。
彼はにっこりと笑って私に訊ねる。
「あなたもこの店に入る予定なんですか?」
彼の額を覆う長めの前髪が揺れ、その影から柔らかい印象の二重の目がのぞいた。
親し気に声をかけられたことで警戒心が顔を出しかけていたが、その瞳を見たことで若干それが緩む。
「この店っておいしいですか?」
さらに話しかけられて、私はぎこちなく愛想笑いを浮かべる。
「はい。ここはなんでも美味しいです」
「へぇ。それなら俺もここに入ろうかな」
彼は最後尾だった私の後ろに並んだ。
その時、何組かの客がぞろぞろと出て来て、予想していたよりも早く列が動いた。
店の中に入り店員に一人だと告げると、カウンター席を示された。
そちらへ向かって席に着いた私は、早速メニューを手に取る。二種類あるランチメニューのうち、どちらにしようかと写真を見比べて、これにしようと早々に決める。店員を呼ぶために目の前の呼び出しボタンを押そうとした時、声をかけられた。
「隣、いいですか?」
声の主を見て戸惑った。そこにいたのは、先程店の前で私の後ろに並んだ男だった。
彼も一人のようだったから、カウンター席を案内されたのだろうが、他にもこの並びの席は空いている。わざわざ私の隣に座る必要はないはずだ。
心の中だけで思ったはずの私の疑問は、そのまま顔に出ていたと思う。
しかし、気づいていないのか、それとも気にしていないのか、彼は私に笑顔を向けた。そして、元々私の許可を待っていたわけでもなかったらしく、さっさとスツールに腰を落ち着けてしまう。さらには、聞いてもいないのに、身を乗り出すようにして彼は話し出した。
「俺、春にこっちに異動してきたんですよ。このビルにあるメディアカンパニーって会社なんだけど、知ってる?」
「いえ、申し訳ないですけど知らないです……」
ずいぶんとフランクで、距離感の近い人だと戸惑いながら、私は曖昧に笑いながら言葉を返した。その後はさり気なさを装って、この席の前一面に広がる窓の外の景色に無言で目を向けた。
そこに店員がやって来た。彼女は私と彼の間に立ち、それぞれの前に水とおしぼりを置く。
「ご注文がお決まりになりましたら、そこのボタンを押してお知らせください」
何を頼むかすでに決めていた私は、メニューを指差しながら店員に注文を伝える。
「和風オムライスのランチセットをお願いします。アイスコーヒーは一緒で」
「かしこまりました。そちらの方はもうお決まりですか?」
店員に訊ねられて、彼は頷く。
「彼女と同じものをお願いします」
その注文の仕方は、まるで私と彼が一緒に来たかのようだ。誤解を招く彼の言い方を訂正するために、私は急いで店員に告げる。
「すみません。伝票はこちらの方と別々でお願いします」
脇から男が口を挟む。
「一緒で構わないよ。俺が払うから」
「そういう訳には行きません!見ず知らずの方なのに!」
思わず強い口調で言ってしまい、私は慌てて口を閉じた。
「し、失礼しました」
彼は気分を害した様子もなく、くすっと笑う。
「いや、大丈夫だよ」
店員は私たちのやり取りを困惑顔で聞いていたが、会話が途切れたタイミングで淡々とした口調で確認を取る。
「では、別々のお会計でよろしいですか?」
彼が口を開くより先に、私は店員に頷く。
「はい。それでお願いします」
「かしこまりました。では、少々お待ちください」
頭を軽く下げて店員が去って行ってから、彼は私に聞こえるような苦笑をもらした。
「こういう時は、ご馳走様でいいと思うけど。真面目なんだね」
「普通だと思います。さっき会ったばかりの知らない方に払ってもらうだなんて、そんな図々しいことはできません」
きらきらしい彼の風貌が目に映らないよう、わずかに目を逸らしながら、私は真顔で答えた。
初対面のはずなのに、彼の態度と口調は馴れ馴れしく、なんだかいちいち気に障っれしまう。無視をすればいいのだろうが、ぱりっとしたスーツ姿の彼が、自分が勤める会社と何かしら関係がある人だったらと気を回してしまい、冷たい態度を取りきれなかった。私の勤務先は保険会社、可能性ゼロとは言い切れない。
彼は私の心の声に気づいていない様子で、気さくに話しかけて来る。
「そういえば自己紹介がまだだったね。俺は塚本って言います。よろしくね」
「はぁ」
気のない相槌を打ち、次は私の名前を訊いてくるだろうかと身構えた。
しかし彼は、私が予想していた質問とは別のことを口にする。
「君の会社はこのビルにあるの?」
「えぇ、まぁ」
「なんていう会社?」
社交辞令のようなものだろうと、私は聞こえなかったふりをして、グラスの水を飲んだ。会ったばかりの人に、簡単に自分のことを教えたくはない。
彼は私が答えないことを気にした様子もなく、なおも話しかけてくる。それは世間話的であまり中身のない内容だ。
だんだんと居心地が悪くなってきて、私は席を移動したいと思い出した。辺りを見渡してみるが、今は昼時、テーブル席に空きはない。結局諦めて、彼の話に適当に合わせて相槌を打っていた。だから、注文の品を持った店員がやって来た時はほっとした。
「お待たせしました」
店員は私と塚本それぞれの前に、ランチセットのトレイを置く。
「ご注文は以上ですか?」
私たちが頷いたのを見て、彼女は去って行った。
「やぁ、うまそうだ」
塚本は嬉しそうにスプーンを手に取り、早速料理を口に運び出した。
それを横目で見て、私も早速食事に取り掛かる。
食べ終えたのは、塚本の方が早かった。食後のコーヒーを飲み干して、彼は嬉しそうに言う。
「一緒に昼飯できて良かったよ。ありがとう」
「い、いえ……」
彼の話のほとんどを聞き流していたのにと、私は後ろめたい気持ちで目を伏せた。
彼は席を立ち、無言で頭を下げる私を見て、小さなため息をもらした。
ため息をつきたいのはこちらの方だと思いつつ、私はちらりと目を上げる。名残惜し気な彼の苦笑が見えた。
「それじゃあ、お先に。また会った時にはよろしくね」
無言の私に彼はにっと笑いかける。
「じゃあね」
彼は今度こそレジへと向かった。
なんとなく見送っていたその背中が店の外へと出て行ったのを確かめてから、ようやく緊張が解ける。残っていたアイスコーヒーを飲み干しながら、彼が残して行った「また会った時には」という言葉を反芻する。
例えこのビル内で働いているという彼と再会したとしても、「ゆっくりと、またの機会」を持つことはないだろう。なぜならあの言葉は、単なる締め言葉としか思えなかったからだ。だいたい、本当に「また」と思うのであれば、私の名前くらいは聞いたはずだろう。
その日以降、気づけば私は塚本の姿を探していた。
それは、彼にまた会いたいからではない。彼を見つけたらすぐに逃げられるようにだ。
しかし結局のところ杞憂の心配だったようだ。
このひと月ばかり、彼に会うことも見かけることもなく、このまま、彼の顔は私の記憶から薄れて行くに違いないと思い始めていた。
仕事は順調、職場においての人間関係も良好だ。地味なプライベートにささやかな色を添えるのは、片想いの恋だ。
そんな私の悩みと言えば、いつ告白しようかとそのタイミングを探るくらいで、その他は至って穏やかに、これといった不満もなく毎日を過ごしていた。
ところが、最近になって私の心を揺らす者が現れた。
その日の朝、珍しく私は寝坊した。
そのため、いつものように弁当の用意にまで手が回らず、久しぶりにビル内のカフェで昼食を摂ることにした。
同僚たちと交代で昼休憩に入り、目的の店へと向かう。昼時ということで店は案の定満席だった。しかし、注文を取ってから提供までが早い店だ。それを知っている私は、入店を待つ列に並ぶことにした。
それからしばらくして、後ろの方でため息交じりの声がする。
「時間的に、やっぱり混んでるなぁ」
何気なく振り返り、声の主と目が合ってしまった。端正な顔を向けられてどきりとし、落ち着かなくなる。
彼はにっこりと笑って私に訊ねる。
「あなたもこの店に入る予定なんですか?」
彼の額を覆う長めの前髪が揺れ、その影から柔らかい印象の二重の目がのぞいた。
親し気に声をかけられたことで警戒心が顔を出しかけていたが、その瞳を見たことで若干それが緩む。
「この店っておいしいですか?」
さらに話しかけられて、私はぎこちなく愛想笑いを浮かべる。
「はい。ここはなんでも美味しいです」
「へぇ。それなら俺もここに入ろうかな」
彼は最後尾だった私の後ろに並んだ。
その時、何組かの客がぞろぞろと出て来て、予想していたよりも早く列が動いた。
店の中に入り店員に一人だと告げると、カウンター席を示された。
そちらへ向かって席に着いた私は、早速メニューを手に取る。二種類あるランチメニューのうち、どちらにしようかと写真を見比べて、これにしようと早々に決める。店員を呼ぶために目の前の呼び出しボタンを押そうとした時、声をかけられた。
「隣、いいですか?」
声の主を見て戸惑った。そこにいたのは、先程店の前で私の後ろに並んだ男だった。
彼も一人のようだったから、カウンター席を案内されたのだろうが、他にもこの並びの席は空いている。わざわざ私の隣に座る必要はないはずだ。
心の中だけで思ったはずの私の疑問は、そのまま顔に出ていたと思う。
しかし、気づいていないのか、それとも気にしていないのか、彼は私に笑顔を向けた。そして、元々私の許可を待っていたわけでもなかったらしく、さっさとスツールに腰を落ち着けてしまう。さらには、聞いてもいないのに、身を乗り出すようにして彼は話し出した。
「俺、春にこっちに異動してきたんですよ。このビルにあるメディアカンパニーって会社なんだけど、知ってる?」
「いえ、申し訳ないですけど知らないです……」
ずいぶんとフランクで、距離感の近い人だと戸惑いながら、私は曖昧に笑いながら言葉を返した。その後はさり気なさを装って、この席の前一面に広がる窓の外の景色に無言で目を向けた。
そこに店員がやって来た。彼女は私と彼の間に立ち、それぞれの前に水とおしぼりを置く。
「ご注文がお決まりになりましたら、そこのボタンを押してお知らせください」
何を頼むかすでに決めていた私は、メニューを指差しながら店員に注文を伝える。
「和風オムライスのランチセットをお願いします。アイスコーヒーは一緒で」
「かしこまりました。そちらの方はもうお決まりですか?」
店員に訊ねられて、彼は頷く。
「彼女と同じものをお願いします」
その注文の仕方は、まるで私と彼が一緒に来たかのようだ。誤解を招く彼の言い方を訂正するために、私は急いで店員に告げる。
「すみません。伝票はこちらの方と別々でお願いします」
脇から男が口を挟む。
「一緒で構わないよ。俺が払うから」
「そういう訳には行きません!見ず知らずの方なのに!」
思わず強い口調で言ってしまい、私は慌てて口を閉じた。
「し、失礼しました」
彼は気分を害した様子もなく、くすっと笑う。
「いや、大丈夫だよ」
店員は私たちのやり取りを困惑顔で聞いていたが、会話が途切れたタイミングで淡々とした口調で確認を取る。
「では、別々のお会計でよろしいですか?」
彼が口を開くより先に、私は店員に頷く。
「はい。それでお願いします」
「かしこまりました。では、少々お待ちください」
頭を軽く下げて店員が去って行ってから、彼は私に聞こえるような苦笑をもらした。
「こういう時は、ご馳走様でいいと思うけど。真面目なんだね」
「普通だと思います。さっき会ったばかりの知らない方に払ってもらうだなんて、そんな図々しいことはできません」
きらきらしい彼の風貌が目に映らないよう、わずかに目を逸らしながら、私は真顔で答えた。
初対面のはずなのに、彼の態度と口調は馴れ馴れしく、なんだかいちいち気に障っれしまう。無視をすればいいのだろうが、ぱりっとしたスーツ姿の彼が、自分が勤める会社と何かしら関係がある人だったらと気を回してしまい、冷たい態度を取りきれなかった。私の勤務先は保険会社、可能性ゼロとは言い切れない。
彼は私の心の声に気づいていない様子で、気さくに話しかけて来る。
「そういえば自己紹介がまだだったね。俺は塚本って言います。よろしくね」
「はぁ」
気のない相槌を打ち、次は私の名前を訊いてくるだろうかと身構えた。
しかし彼は、私が予想していた質問とは別のことを口にする。
「君の会社はこのビルにあるの?」
「えぇ、まぁ」
「なんていう会社?」
社交辞令のようなものだろうと、私は聞こえなかったふりをして、グラスの水を飲んだ。会ったばかりの人に、簡単に自分のことを教えたくはない。
彼は私が答えないことを気にした様子もなく、なおも話しかけてくる。それは世間話的であまり中身のない内容だ。
だんだんと居心地が悪くなってきて、私は席を移動したいと思い出した。辺りを見渡してみるが、今は昼時、テーブル席に空きはない。結局諦めて、彼の話に適当に合わせて相槌を打っていた。だから、注文の品を持った店員がやって来た時はほっとした。
「お待たせしました」
店員は私と塚本それぞれの前に、ランチセットのトレイを置く。
「ご注文は以上ですか?」
私たちが頷いたのを見て、彼女は去って行った。
「やぁ、うまそうだ」
塚本は嬉しそうにスプーンを手に取り、早速料理を口に運び出した。
それを横目で見て、私も早速食事に取り掛かる。
食べ終えたのは、塚本の方が早かった。食後のコーヒーを飲み干して、彼は嬉しそうに言う。
「一緒に昼飯できて良かったよ。ありがとう」
「い、いえ……」
彼の話のほとんどを聞き流していたのにと、私は後ろめたい気持ちで目を伏せた。
彼は席を立ち、無言で頭を下げる私を見て、小さなため息をもらした。
ため息をつきたいのはこちらの方だと思いつつ、私はちらりと目を上げる。名残惜し気な彼の苦笑が見えた。
「それじゃあ、お先に。また会った時にはよろしくね」
無言の私に彼はにっと笑いかける。
「じゃあね」
彼は今度こそレジへと向かった。
なんとなく見送っていたその背中が店の外へと出て行ったのを確かめてから、ようやく緊張が解ける。残っていたアイスコーヒーを飲み干しながら、彼が残して行った「また会った時には」という言葉を反芻する。
例えこのビル内で働いているという彼と再会したとしても、「ゆっくりと、またの機会」を持つことはないだろう。なぜならあの言葉は、単なる締め言葉としか思えなかったからだ。だいたい、本当に「また」と思うのであれば、私の名前くらいは聞いたはずだろう。
その日以降、気づけば私は塚本の姿を探していた。
それは、彼にまた会いたいからではない。彼を見つけたらすぐに逃げられるようにだ。
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