優しい君に恋をする~この関係、気にしないではいられない、だけど、それでも

芙月みひろ

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7.ピアスの持ち主

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 俊一が出て行った後、乱れた服を直すために体を起こそうとして、テーブルの足下できらりと光る何かに気がついた。そろそろと手を伸ばし、ラグの上を指先で撫でてみる。固い感触があった。それをそっとつまみ上げて、手のひらに乗せる。私の物ではない女物のピアスだった。

「どうしてここに、こんな物があるの……」

 ニ、三日前に追い払ったばかりだった疑惑が、その時以上に大きくなって再び私の頭を占める。
 私は扉の向こうに目を向けた。俊一が玄関に出て行ってから少し長いような気がした。
 来客は一人だと思われる。微かに会話が聞こえてくるが、くぐもっていて不明瞭だ。
 盗み聞きは良くないと分かってはいても、玄関先の様子が気になって仕方がない。私は静かにドアの傍まで近づいていき、彼らに気づかれないように慎重に、恐々と、ほんの僅かの隙間を開けた。そこに耳を当てて玄関先の会話に耳を澄まし、次の瞬間息を飲んだ。
 それは女性の声だった。その声は抑えた口調で「まだ話していないのか」と不満気に言っている。

 まだ話していないって、何のこと――?

 嫌な予感がした。不安でいっぱいになり、喉の奥がまるで絞められたように苦しくなった。ふらりと体が揺れ、扉にぶつかって音を立てた。その拍子に扉が開いた。
 振り返った俊一の表情は強張っていた。

「な、なんだよ。待ってろって言ったじゃないか。立ち聞きなんかしてんなよ」

 それには答えず私はのろのろと彼に言った。

「……ねぇ。これって、まさかその人のもの?」

 ピアスを乗せた手のひらを俊一に向ける。

「なんだよ、それ」

 ぴくりと彼の眉が動くのを見ながら、私はかすれ声で言った。

「今、テーブルの下で見つけたの」

 俊一の傍らに立っていた女が、長い髪の先を指で弄びながらにっと笑った。

「なぁんだ。俊一の部屋にあったのね。どこで落としたんだろうって探してたのよ。お気に入りのピアスだったから、見つかって良かったぁ」

 女は私の彼氏を呼び捨てにした。それだけではなく、挑戦的にも見える笑みを私に向けてきた。
 その様子から、彼女が俊一にとってどんな存在かを一瞬にして理解する。私はピアスを手の中で握り締めた。とがった部分が当たって痛い。けれどそれは、今の私の心が感じている痛みとは比べようがないほどに小さい痛みだ。私は声を振り絞るようにして俊一に訊ねた。

「その人、誰?」

 ただの友達だよ――。

 その言葉がほしいだけだった。
 しかし俊一が口を開くより先に女が言った。

「ねぇ、俊一。ほんとにまだ話してなかったのね。もう、はっきり言ってあげた方がいいわよ。私たち、これから付き合うんだって」

 俊一は慌てた顔で女を見た。

「お、おい、ちょっと待てよ。俺、自分で言うつもりだったのにさ」

 しかし女は悪びれず、むしろ明るい声で言う。

「あら、ごめんね。でもいいじゃない。せっかくだから、今、教えてあげようよ。と、言うか、彼女、もう分かったっていう顔してるんじゃない?」

 茫然としている私に、女は肩先を上げてくすっと笑う。

「あのね。この人、あなたと別れるそうよ。一応説明してあげるとね、私のことは浮気じゃなくて本気ってことらしいよ。俊一、そうだよね?」

 女は同意を求めて俊一を見上げる。
 私は俊一の「違う」という言葉を待った。
 彼は無言で私から目を逸らす。

「嘘よね……?」
 
 私はか細い声で俊一に問いかけた。
 彼は私を見ない。大きなため息をつき、開き直ったように言った。

「本当だよ」

 彼は前髪をかきあげながら、女に文句を言う。

「あいつには順序だてて話すつもりでいたのに、なんでフライングするんだよ。しかも今夜は来るなって言ってあっただろ?」
「ごめんね」
 
 女は俊一の腕に抱きつき、上目遣いで彼を見上げた。

「今夜こそ別れ話をするからって言ってたでしょ?だから、本当にちゃんと別れたかどうか確かめたくなって、じっとしていられなくなっちゃったんだもの。でもちょっと早く着きすぎちゃったのね。だいたいさ、どのみち今夜には言うつもりだったんだよね?だったら結果オーライでいいじゃん」
「それはそうかもだけどさ……」

 いったい私は、何を見せられているのか。女を見る俊一の顔は溶けそうなくらいに嬉しそうに緩んでいる。そんな表情、今まで私に見せたことがあっただろうか。
 
「俊一君、私たち、仲良くやってたよね?好き合ってたよね?それなのに、どうしてなの?私に何か悪いところがあったの?もしそうなら直すから、嘘だって言ってよ」
「まど香のことは確かに好きだったさ。だけど、なんていうかさ。いつもいい子ちゃんで扱いやすいって言えば扱いやすかったけど、それだけじゃ、つまんないんだよな。お前の体も悪くはなかったけど、いつも受け身だったろ?いまいち盛り上がりに欠けるっていうかさ」

 霞む視界に顔をしかめる俊一が見える。

「まぁ、こんな言い方あれだけど、お前には飽きたってこと。こいつの方が断然俺の好みなんだよな。まったく合コン様様さ。だから悪いけど、お前とはもう別れるってことで」
「そんな……」
 
 全身から血の気が引いて行く。俊一の豹変がショックだった。
 女とはいつからの関係なのか正確には分からないが、恐らく、約束の変更が増えたと感じた二か月ほど前からだろう。俊一は私がいながら合コンに参加し、そこで彼女に出会い、それからはずっと私には偽りの優しい顔を見せ続けていたのだ。心の中では私を嘲りつつ、別れ話を切り出すタイミングを探っていたのだ。そうとは知らず、純粋な気持ちで彼を好きでいた自分があまりにも滑稽だ。怒りを通り越して悲しくてたまらない。
 顔色をなくして突っ立っている私に、俊一はちらと視線を走らせた。聞こえよがしにため息をついたかと思うと、面倒臭そうに動き出す。無言で私の傍を通りすぎて部屋に戻り、再び戻ってきた時には私のカバンを手にしていた。私の足下に無造作に置く。

「お前と会うのはこれっきりな。あぁ、そうだ。バイトはやめてもらうと助かるわ。まど香だって、元カレと一緒に働くなんて嫌だよな?だいたいさ、実家暮らしなんだからバイトなんかしなくても大丈夫じゃん。それと、タブレット、ありがとな」

 俊一の言葉が耳の傍を通りすぎて行く。
 彼の言葉に女が反応を見せる。

「ちょっと、タブレットって何のことよ」
「あぁ、今日、こいつから誕プレでもらったんだ。ずっとほしいって思ってたやつでさ。わざわざ買ってくれたんだってさ」
「何よ、それ」

 女は驚いた声を上げたが、面白い話を聞いたとでも言うように、くすくすと笑い出した。

「別れ話をする予定でいたくせに、プレゼント受け取ったってこと?いくらなんでもそれはひどすぎない?」
「だって、くれるって言うからさ。受け取らない方が悪いだろ」
「やだぁ。俊一ってほんと、悪い男ね」
「あれ?知らなかった?お前は、こういう男が好きなんだと思ってたけど違った?」
「それはそうなんだけどぉ」

 二人はじゃれ合うように笑い合っている。
 我慢していた涙がとうとうこぼれ落ちた。

「あらら、泣いちゃった」
「おい、まど香、もう帰ってくれ。お前はもう、俺の彼女でも何でもないんだからな。ま、最後の思い出に抱いてやれなかったのは、少し心残りだけどな」

 その場から動けないでいる私に苛立ったように、俊一は私の腕を引っ張った。ついさっきまでは優しく私に触れていたはずの彼の手が、乱暴に背中を押す。
 私は裸足のまま玄関の外へと押し出された。履いてきた靴とカバンが足元に飛んでくる。

「今までありがとな。わりかし楽しかったよ」

 無情な音を立てて、目の前でドアが閉められた。
 頭も心も体も痺れたようになり、何も考えられない。虚ろな気分でその場に佇んでいたが、階段側からカツカツと靴音が響いてきて我に返った。その音は階下に向かって降りて行った。その音をきっかけにして、私はのろのろと動き出した。転がった靴を履き、拾ったバッグを胸に抱えて、とぼとぼと彼の部屋を後にした。
 涙をこらえながら駅に向かう。とにかく帰らなくてはと、それだけを考えるよう努力して電車に乗り、家までたどり着いた。
 玄関の灯りが点いているのが見えてふっと気が緩み、涙があふれた。ひんやりとしたその感触に、慌てて頬をこすった。家にいるはずの弟に万が一会ってしまった時、こんな顔を見られたくない。
 私は前歯でぐっと唇を噛みながら、鍵を開けてそうっと玄関に足を踏み入れた。重い体を引きずるようにしながら、二階の自分の部屋へと向かう。もう寝ているのか、それともゲームにでも熱中しているのか、突き当りの弟の部屋は静かだった。私の帰宅に気づいた様子がないことにほっとしつつ、自分の部屋のドアを静かに開けて中に入った。荷物は床の上に放置したまま、ベッドの上に体を投げ出した。
 すべてが夢であったか、あるいはすべてなかったことになっていたらいいのにと思い、涙が止まらなくなる。それは次第に嗚咽となった。私は枕に顔を押し付け、声を殺して泣いた。
 どれくらい泣いていたのだろう。泣き疲れてしまったのか、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。もそもそと体の向きを変えて時計に目をやる。午前四時だ。どんなに悲しくても傷ついていても、睡魔は等しくやって来るものなのだなと、苦い笑いがこぼれた。早すぎる時間だがシャワーでも浴びようと準備をして、忍び足で階下に降りた。
 温かいお湯を頭から浴びて、全身をさっぱりさせた後、再びベッドに潜り込んだ。閉じた瞼の裏に俊一との楽しかった思い出が次々と浮かんできて、胸が苦しくなった。少なくとも眠っている間は忘れていられる。この痛みと傷が早く薄れて消えてくれるようにと祈りながら、私はぎゅっと目を閉じた。
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