優しい君に恋をする~この関係、気にしないではいられない、だけど、それでも

芙月みひろ

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10.約束通り

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 その日、いつものように土屋家を訪ねた。
 先週までと打って変わって心が軽い。とは言え、失恋の痛手から完全に立ち直ったかというと、まだそこまでではない。 
 しかし少なくとも涙で目を腫らすことも、食事が喉を通らないということもなくなっている。時間が解決してくれるとはよく言うが、私は理玖の優しさのおかげでもあると思っている。
 先週の理玖とのやり取りを思い出すと面映ゆいが、今日はそれ以上に緊張の方が大きい。なぜなら、先週理玖が言っていた通り、今日までに期末テストの結果が出揃っていると思われるからだ。
 どうか彼の勉強の成果が現れていてほしいと強く祈りながら、私はインターホンを押した。
 ドアが開き、友恵が顔を出した。途端に緊張する。挨拶を交わしている間にも理玖のテストの結果が気になって仕方がない。靴を脱ぎ、用意されていたスリッパに足を入れた時、友恵が嬉しそうに言った。

「今回の理玖のテスト、びっくりするほど良かったんですよ。先生のおかげね。本当にありがとうございます」

 ようやく私はほっと胸を撫で下ろした。

「良かったです。でもそれは、理玖君が頑張った結果ですから」
「だけど、あの子をやる気にさせてくれたのは先生ですもの。それでね。いつもながら急ですみませんけど、良かったらお夕飯、一緒にどうかしら?ケーキも買ってあるんです。お祝いなんていう大げさなものではないけど、お疲れ様の意味も込めて。どうかしら?」
「嬉しいお誘いですが、すみません。今夜は家で食べる予定なんです」

 弟の善が夏風邪をこじらせて昨日から寝込んでいた。つきっきりで看病しなくてはいけないわけではないが、せめて食事くらいは用意してあげたいと思う。
 理由を聞いた友恵は納得したように頷いた。

「夏風邪は下手をすると長引くものね。……それなら、せめてケーキだけでも食べて行ってほしいわ。頃合いを見計らって後で持って行きますね」
「いえ、本当にお構いなく」
「先生にはいつもお世話になっているんですもの。これくらいはね」

 にこにこ笑う友恵の笑みに押し負けて、私は頭を下げた。

「ありがとうございます」

 そこに理玖の声が飛んできた。

「母さん、いつまで先生を引き留めてるの?」

 廊下の先に目をやると、理玖が階段の手すりに寄りかかっていた。不満そうな顔で私たちを見ている。
 私は友恵と顔を見合わせ、苦笑し合う。

「まど香先生にお礼を言っていたのよ」
「今回のテスト、すごく良かったっていうお話を聞いていたの。頑張ったのね。お疲れ様でした」
「母さん、もう言っちゃったの?自分で報告して、先生を驚かせたかったのに」

 理玖はムッとしたように眉根を寄せて、友恵に文句を言った。
 しかし彼女は涼しい顔で返す。

「あら、ごめんね。でも大丈夫よ。点数はまだ言っていないから」
「もしかして、そんなにいい点だったんですか?」
「そうなのよ。理玖にしてはもうほんと、びっくりでね。去年のテストは何だったのかって思うくらい」

 まだまだ続きそうな私たちの会話を切るように、理玖が割って入ってきた。

「母さん、お喋りはもう終わり。先生、早く来てよ。間違った所の見直しとか、聞きたいことが色々あるんだ」
「何もそんなに急かさなくても」

 苦笑する友恵に、理玖は肩をすくめて見せる。

「時間がもったいないでしょ」
「それはごめんなさいね」

 友恵は可笑しそうに笑い、私に向き直った。

「先生、引き続きよろしくお願いしますね」
「はい」

 私は友恵に会釈をして、理玖の元へ足を向けた。
 彼の部屋に入り、すでに自分の定位置となっているいつもの椅子に腰を下ろす。

「どれどれ。返って来た答案用紙、早速見せてもらおうかしら」
「もちろん」

 理玖は得意げにも見える顔で、机の上に答案用紙を広げた。

「どう?だいぶ頑張ったよ」
「本当ね。すごいわ……」

 私は感心して目を見張った。本当にすべて七十点以上だ。そのうちの何科目かは、あと一歩で八十点という惜しい点数だ。
 理玖は悔しそうに言う。

「平均八十点以上っていう条件はクリアできなかった」

 私は答案用紙を机に戻して、理玖に笑いかけた。

「それは残念だったけど、よく頑張ったと思うわ」
「そりゃあね。だって、先生からのご褒美がかかっていたから」
「ご褒美のあるなしに関係なく、いつもこれくらいできるようになれば、もっといいと思うんだけど」
「頑張った先にご褒美が待ってるって思うから、余計に頑張れるんだよ。で、七十点以上っていうのはクリアしたわけだから、ご褒美決定ってことでいいんだよね?」

 理玖はにこにこしながら、私の方にずいっと身を乗り出した。

「いつにする?」
「それってほんとに決定なの?やっぱり違うものの方がいいんじゃない?」

 今さらだが後悔していた。例えば、である。もしも、二人でいる所を理玖に恋心を抱いている女の子にでも見られたら、色々とまずいのではないかと急に心配になる。女の子に誤解させるのはかわいそうだ。それは私だって同様だ。誰かに目撃されたら……。
 しかし理玖はにっこりと笑い、ぴしりと言う。

「変更はなしです。それに先生もオッケーしたじゃないか。俺、このご褒美のためにすごく頑張ったんだよ。それを反故にするの?ひどいなぁ」

 理玖はわざとらしく悲しそうな声を出す。

「そういうつもりじゃ……」

 おろおろとする私を見て彼は笑う。

「そんなに深く考えるのはもうやめにして、日にちとか時間を決めてしまおうよ。いつがいいかな。やっぱり午後の方がいいよね。直で店に行ってもいいけど、あえてどこかで待ち合わせしてから行くっていうのもいいよね。まど香先生の予定はどんな感じ?」

 うきうきと嬉しそうに話し出す理玖の横顔を眺めているうちに、私自身もその日が楽しみに思えてきた。しかし、まずは勉強である。私は自分の立場を思い出し、口調を改めた。

「その話は後にしましょう。まずはテストの見直しをしないとね」

 理玖の顔に苦笑が浮かぶ。

「まど香先生はほんと、真面目なんだから」
「だって、私はそのために来ているんだもの。当然でしょ」
「それはそうなんだけどさ」

 彼は諦めたようにふっとため息をつき、念を押すように言う。 

「日にちだけは今日のうちに決めようね」
「分かったわ」
「それで、他の細かいことは来週決めようね」
「分かった。行かないなんて言わないから、安心して」

 私は苦笑し、彼の前に広げたままだった答案用紙を自分の手元にまとめる。その中から一枚を取り出した。

「それじゃあ、始めましょう。まずは、今回いちばん悪かった現国から見てみようかな」
「はい」

 理玖は渋々とシャープペンを手に取ったが、ふと顔を上げて私を見る。

「まど香先生、もう大丈夫そうだね」

 先週の私の状態のことを指して言っているのだとすぐに分かった。

 心配かけてごめんなさい。それとも、心配してくれてありがとうか――。

 どう返すべきかと言葉に詰まっている間に、にこっと笑って理玖は言った。

「まど香先生は、やっぱりコンタクトの方が絶対に可愛いよ」

 理玖に「可愛い」などと言われたのは、初めてのような気がする。予想外だった彼の言葉に動揺して、あっという間に頬が熱を持った。それらを隠すように手元の答案用紙を意味もなくめくりながら、かろうじて彼に聞こえるか聞こえないかの小さな声で返す。

「ありがとう……」
「どういたしまして」

 理玖もまた照れているのが分かり、どきどきした。彼の照れに深い意味はないと言い聞かせたが、私の鼓動はなかなか鎮まらなかった。
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