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九十一、
しおりを挟む声もなく立ち尽くした後、はっと気付いて泉を振り返った。そこに、先程まで見えていた映像はなかった。さざ波一つ立っていない静かな水面は、鏡のように広也の顔を映すだけだった。
「どうして……」
広也は呻いた。ほんの少し前まではかきわと秘色の姿が映っていたのに。
「映れ!映れよ!」
広也は水面に鼻が付きそうなほど身を乗り出して泉をのぞきこんだ。
広也は後悔した。一瞬でも迷うんじゃなかった。
(さっきは映ったのに、どうして今は映らないんだ……?)
自分の息に震える水面をみつめながら、広也は考えた。思い当たるのは蛇に言われた言葉だけだ。この泉がのぞきこんだ人間にとって必要な場所を映すとぐえるげるは言った。自分はかきわを必要としている。では、秘色は?
(僕は……)
広也は自分の心に問いかけた。
(僕は、秘色を許していないんじゃないのか……?)
自分の心のどこかが、秘色を助けることを拒絶しているのだ。広也は胸を押さえた。秘色がかきわを突き落とした時の光景がまざまざと思い出された。それから、かきわと緋色が夜の森を進むのを止めなかったこと。泥に引きずりこまれる緋色を助けようとしなかったこと。
確かに、秘色には広也には理解できない部分、非情な一面があった。ときわの巫女としての立場からしか物事を見ない狭量なところがあった。自分の役目のためには他人を殺したって構わないと思っている。あの蛇が言っていた。確かにそれは真実かもしれなかった。
(助ける価値なんてないよ)
蛇の言葉がよみがえる。
広也は水面に映る自分の顔をじっとみつめた。
(でも、かきわは秘色を助けようとしていたじゃないか)
突き落とされた本人が彼女を許したのなら、それでもういいのではないか。
(いや、違う……)
広也は空を振り仰いだ。
(たとえ、かきわが秘色を許しても、僕は秘色がしたことを許せない。兄さんを殺そうとしたことは絶対に許せない)
広也は刀の束を握り締めた。
(でも、僕は秘色を見殺しにはしない。秘色を許せなくとも、死んで欲しいとは思わないから)
広也は刀を抜いて立ち上がった。そして、再び泉を見た。
「ぐえるげるの泉!僕が必要としている場所に、僕を必要としている人達の元に連れていけ!」
広也の声に応えるように、水面が大きく揺れ始めた。その波の中に、はっきりと浮かび上がった光景に、広也は今度こそなんのためらいもなく飛び込んだ。
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