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第53話 男爵令嬢スカーレット・バークスの決別
しおりを挟むエリオットはこれだけを言いに、男爵領まで来たのかとスカーレットは目を丸くした。
学生とはいえ、公爵令息であり王太子の側近候補であるエリオットは忙しい身の上だ。それなのに、スカーレットのために。
足が震えそうになった。
(何故、私なんかのために、そんな……)
増して、エリオットは幼い頃の乱暴だったスカーレットを知っているのに。
あの頃の自分を思うと、スカーレットは情けなくなる。
スカーレットは自分に一切興味を示さず書物にばかり埋もれている父親に反発していた。だから、本など絶対に読まない、と心に決めて、外ばかり走り回っていた。
令嬢らしくない問題児だと知れば、父が叱りに来るかもしれないという期待もほんの少しあった。
だけど、どんなに野山を走り回っても、父は会いに来さえしなかった。
会いに来ない父に苛立ってどうしようもない気持ちを持て余していたちょうどその頃――エリオットに出会ったのだ。
良いように引きずり回して、殴ったり蹴ったり、危険な命令をしたりして怒らせて、結果、スカーレットは傷を負った。
痛みより、血を流したことより、傷が残ったことよりも、あの男の子に酷いことをしたという後悔がスカーレットを打ちのめした。
自分に興味を持たない父に当てつけるためなんて、くだらない理由で、まったく関係ない子を傷つけてしまったと気付いたのだ。
もういい。やめよう。
そう思った。
父のためなどに、これ以上自分の人生を費やしてはいけない。
それからのスカーレットは、それまでが嘘のように大人しくなった。母が仲の良いテオジール家に頼んでくれたこともあって、良い教師を紹介してもらい教育を受けることも出来た。
それからしばらくして母が亡くなり、葬式にだけは流石にやってきた父と顔を会わせた時も、思ったほど心が騒がなかった。
けれども、腹は立った。
「スカーレット。男爵に挨拶はしたし、帰ろうか」
エリオットが微笑んで手を差し伸べてくる。
その手を取ろうとして、スカーレットはふと動きを止めた。
「……エリオット様。少し、待ってください」
静かに言って、スカーレットは父に向き合った。
「お父様、お久しぶりです」
父からは反応がなかったが、スカーレットは構わずに続けた。
「以前、お会いした時にしていただいた約束を、覚えておりますか?」
父にこだわるのを止めると決意したけれど、それはそれとして、こちらを一切省みない父に対する恨みはあった。
だから、父に一つだけお願いをしたのだ。
「次にお会いする時に、思い切り抱きしめさせてほしいと」
エリオットはまっすぐに父と向き合うスカーレットを見守った。
「そのお約束を胸に刻み、私はこれまで生きて参りました。いつの日か、お父様にお会いしたら、思い切り――背骨を折るぐらい抱きしめさせてもらおうと」
エリオットは首を傾げた。
スカーレットは続ける。
「そのために精一杯努力をしましたが、残念ながら私では力が足りず、望むほどには強くなれないと悟りました。だから、背骨を折ることは諦めました」
確かにその細腕では大の男の背骨は折れまい。エリオットは納得して頷いた。
「それ以来、私のこの非力な腕でも最大限に出来ることを、と思い、時間の許す限りタックルと締め技の研究に勤しんで参りました」
なるほど。それであの見事なタックルと流れるような関節技を身につけたのか。
理にかなっている。と、エリオットは謎が解けてすっきりした。
「いつの日か、お父様にお会いして私の思いを込めた抱擁を受けていただくことを夢見ておりました。しかし、」
スカーレットはふっと微笑みを浮かべた。
「今はもう、そんな気持ちはありません」
長年望んだ父への抱擁を、今はもう望んでいないとスカーレットは言った。
「孤独だった私に義妹が出来て、その子が私の真似をするようになってしまいました。行儀作法を学ぶために私の真似をするのは良かったのですが、私の修行まで真似するようになってしまって」
修行とは。おそらく普通の令嬢はしない修行なのだろうな。とエリオットは思った。なるほど、ミリアの身のこなしはそうやって身につけたのか。
「義妹はなかなかに筋が良く、このままでは私以上の使い手になると思いました。そして、私は気づきました。私の父への恨みのために、義妹まで巻き込んでしまっていることに。そうして、粗相をした義妹に関節技をキメるうちに、悟ったのです。お父様を締め上げたとしても、なんの意味もないことに」
スカーレットは目を伏せてゆるゆると首を振った。
「今の私には、お父様に対する恨みはありません。テオジール家の皆様に良くしていただき、義母と義妹と共ににぎやかな日々を過ごすうちに、どうでも良くなってしまいました。お父様はお父様にしか出来ないことをしていて、それを理解してくださる皆様に囲まれて愛されていらっしゃいます。理解し愛することの出来なかった私には、お父様を恨む資格はありません」
そう言って、スカーレットはエリオットを振り返った。
「私も、私を愛してくださる皆様に囲まれて、幸せに暮らしております。ですから、お父様もどうぞ、お幸せに」
もう一度父を見て、スカーレットは丁寧に頭を下げた。そして、吹っ切れたように晴れ晴れとして笑顔でエリオットに歩み寄った。
「もう結構です。エリオット様、行きましょう」
「……ああ」
スカーレットの手を取って、エリオットは部屋を後にしようとした。
その時、不意に低い声が響いた。
「スカーレット」
スカーレットが弾かれたように振り返った。
男爵が、初めて顔を上げてスカーレットを見ていた。
その顔は驚くほど若々しく、まるで少年のようだった。
男爵はまっすぐにスカーレットをみつめて言った。
「マーガレットに、よく似ている」
それだけ告げると、男爵は再び顔を書物に埋めた。それきり、もうこちらを見なかった。
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